42話 律、過去話をする
静まり返った部屋で、ぽつぽつと律が語る昔話。目を伏せたり静かに閉じたり、時折天井を仰ぎながら辛い過去の話を私に聞かせてくれた。
殴る蹴るは日常茶飯事。持ち物が捨てられていたり、頭からバケツの水をかけられたり。学校で大切に育てていた朝顔をすべてダメにされてしまったことなど、私は一度も経験したことがない出来事を律は話してくれる。
いじめられていたことが原因でどんどん臆病になり、それでも家族に心配かけたくないという思いから、「大丈夫」と自分を必死で偽ってきたこと。小さな体に大丈夫と言い聞かせて、傷だらけの体や心を必死で隠してきた律。それを思うと、その頃の律に私が出会えていたら、と思ってしまう。何が出来るかはわからないけれど、今のように側にいることくらい出来たかもしれない。守ってあげられたかもしれないのに。想像もしなかった律の壮絶な過去に、私の目には涙が滲む。でも、何度も涙を飲み込んでは、律の話に耳を傾けていた。
「それでもうちは賑やかで、家では凄く楽だったんだ。なんせ姉が四人もいるからね」
「四人もお姉さんがいるの!?」
「うん。少し年が離れていて……母親の代わりに俺を育ててくれた」
「……そうなんだ」
「お母さんは?」て訊こうと思った。でも、なぜか訊けなかった。理由なんてないけれど、なぜか訊いてはいけないような気がして、私は納得したような答えしか言えなかった。でも律は、そんな私を見抜くように言葉を続けた。
「母親がさ、俺が小さい頃に家を出て行ってね。あまり記憶にはないんだ。でも、出て行った理由が母親が他の男と不倫してたってことは、知ってた。一番上の姉と父親が夜中に口論していた時に、うっかり聞いちゃったんだ。それからというもの、不倫に対して過剰に反応しちゃうんだよなぁ……」
ここにきて、律が不倫を不潔で嫌いだという理由がよくわかった。自分の母親が出て行った原因が不倫というのなら、律がここまで毛嫌いしているのも納得だ。自分達を捨てた母親を、まだどこかで恨んでいるのかもしれない。
吐き捨てるように不倫を毛嫌いしている律。そして自分が気付かぬ合間に不倫をしていた私。もしもこの先、私の過去が律に知れてしまったら、間違いなく律は私を遠ざけるだろう。「別れ」の二文字の恐怖が、今目の前まで迫っているよな気がしていた。
「めぐみ、どうした? 顔が真っ青だけど」
「え?」
「まだ具合悪いんじゃないか? こんな時に俺の話して、ごめん」
「そんな! そんなことないよ。律が自分から過去の話をしてくれて、嬉しかったよあ、別に律の過去の話が嬉しいとかじゃなくて!」
もう何が言いたいのか、自分でもさっぱりわからない。でも、律が私に話してくれたという事実は本当に嬉しかった。辛い過去かもしれないけれど、新たな律を知る事ができたから。
こうして律が私に辛い過去の話をしてくれたというのに、私は律に話す事ができない。すべてを話すのがいいことだとは思っていないけれど、隠し事をしながらいつバレるかとドキドキしながら過ごすのは心臓に悪いし、律に罪悪感を感じてしまう。醜い自分を曝け出さないように必死で取り繕っているような気がして、引け目を感じてしまうのだ。
「前さ、めぐみも自分に言い聞かせてたことあっただろ? 大丈夫って。あの姿がどうしても過去の自分に重なって、めぐみを見るとイライラしてた。でも……その反面、すごく気になってた」
優しい瞳で私を見つめ、壊れ物に触れるようにそっと頬をなでる律。だから私が「苦手」だったのかな。過去の自分を思い出してしまうから。私が「大丈夫」と自分に言わなくなったのは律のおかげなのに。きっと律自身、そのことに気付いていないだろうな。
冷たかった律の瞳に、酷く惹かれたことを私は覚えている。ぞっとするほど冷たいのに、ずっと見つめていたかったあの不思議な感覚を。今思えば、あの時から律に惹かれていたのかもしれない。ひとめぼれってやつかな。
一人で思い出しながら、えへへと不気味な笑いを浮かべていた私の頬を、律の手が優しくなでずにぎゅっと摘んだ。
「いひゃいっ」
「一人でにやにやすんなよ。気持ち悪ぃ」
「ちょっと! 気持ち悪いは言いすぎでしょ」
「思ったことを言っただけだ」
ほらみろ! また私と律の空気が甘くならなかった!
どうしてもこういう感じに、茶化したような空気を纏う私達。この様子じゃとてもじゃないけれど、律に抱かれる日なんて半世紀くらい先のような気がしてしまう。いや、別に! 今すぐ律に抱かれたいとかそういうのではなくて、自分の好きな人にはもっと自分を知って欲しいというか……。誰に言い訳しているのか、私の脳内劇場は、なおも続くのだった。
しばらく、律は大学でたっぷり出された課題を黙々と始めた。私はベッドに転がって、買ってからしばらく読んでいなかった文庫本をぱらぱらと捲っていた。
ちらり、と何度も律の背中を見つめるが、律は一度もこちらを振り向かないまま課題に没頭している。彼の集中力は、本当に凄かった。じぃっと彼の背中を見つめてもまったくこちらを向かないし、わざとらしく本を落としてみてもまるで気付かない。ただひたすら黙々と課題をこなしている。
「すごい集中力……」
多分聞こえないと思っていた私の呟きは、一気に彼を振り向かせた。
「わっ!」
そして、あっという間に彼の体が私の上にのしかかる。
「かまって欲しいなら、素直に言えばいいのに」
「いや、そういうわけじゃなくて」
「かまって欲しいんでしょ?」
ん? と勝ち誇ったように眼鏡のブリッジを押し上げる律。悔しいけど、律の言葉通りだった。ほんの少しだけでいいから、私にかまって欲しかった。自分でもどうしてこんなに律に甘えたくなるのかわからないけれど、とにかくかまってほしかったのだ。それを見抜かれて、私は恥ずかしさで顔を手で覆った。だって絶対、顔が赤いもの。
「答えないの? じゃあ今からいっぱいかまってやるよ」
顔を覆っていた両手を掴まれ左右に開かれると、そのままベッドに押し付けるように律が上から押さえてしまう。顔の横で閉じ込められた私の両手、律が私から身動きを奪っていく。嬉しそうな律の顔が迫り、そのまま呼吸を止めるほどの激しい唇が舞い降りた。食べられてしまうほどの激しさに、吐息が激しく横から洩れていた。
「……はぁ」
長かったキスから解放され、大きく洩れたのは自分でも驚くほど甘い吐息。それを聞いた律は、再び私の唇を奪っていく。頭の中まで溶かされてしまう激しさに、体が思わず疼いていしまう。キスの後を望んでいる自分がいて、律の手が伸びてくるのを待ち望んでいた。
キスが終り、私の瞳の映る律は、頬が上気してほんのり色香を漂わせて……
「今日、抱いてもいい?」
ストレートすぎる言葉に恥ずかしさを感じながらも、私は返事をする代わりにゆっくり瞳を閉じたのだった。
ブログにて、利人視点のお話を2話分更新しました。
前回同様、読まなくても本編には支障はありませんので、ご安心くださいませ。
利人と律がめぐみを看病するところを、利人視点でお楽しみいただければなぁと思います。
詳しくはブログにて。マイページよりどうぞお進みください。
*注意書きを入れました。納得した上でお読みくださいませ。