41話 くるくる変わる
「仕事ー!」
目覚めて第一声がこれ。そう、私ったら仕事のことをすっかり忘れていたのだ。生活の一部になっていたと思っていたのに、ちょっと具合が悪くなっただけで仕事のことを忘れるだなんて……ありえない。
とりあえずベッドから起き上がり、床に転がっている充電中の携帯を手に取った。
休みますのひと言も言わずに、私ったら! なんというアホ!
まったくもって社会人としての自覚に欠けている。アルバイトという身分の私の首なぞ、簡単にスパッと切り落とされてしまうというのに。あわわと慌てながら会社の番号を検索していると、横から少し掠れた声が聞こえてきて、私の手から携帯をスッと取り上げた。
「何騒いでるんだ……うるせー」
「律、どうしよう! 私、昨日、無断欠勤しちゃったよ!」
「無断? ああ……言ってなかったっけ。俺、電話しといたよ。ぶっ倒れたから休ませるって。そしたら向こうの人が、次の日も休んでいいって言ってた」
なんですと!? 律のくせに気が利く……じゃなくて。そんな大事なこと、すぐ教えてくれよ。まぁ、訊かなかった私も悪いけど。それにしても次の日もってことは、今日も仕事はお休みってことだよね。ああ、働けば働くほど給料が入るというのに。この風邪のおかげで律との仲は良くなったけれど、二日分の稼ぎはパーになった。
「うう……お給料、減っちゃう」
「アンタ、本当に貧乏なんだな」
「ストレートに言うな」
そりゃあ私は貧乏ですよ。それでも別に暮らせなくなるほどではない。もしもに備えて貯金もしたいし、シーズンごとに可愛い服や靴なんかも買いたい。だから絞れるところは絞る。それが独身OLができる最大の節約なのだ。まぁ、OLじゃないけどね。
仕事のことばかり気にしていたけど、もう朝だというのに律はずいぶんのんびりしている。大学は行かなくてもいいのだろうか?
「律、大学は?」
「ん? 今日は特に行かなくても平気だから。ずっとここにいるつもりなんだけど……ダメ?」
「ダメじゃないよ!」
ダメ? なんて可愛く言われると、不覚にも胸の真ん中をずっきゅんと射られた気がしてしまう。くっ……顔がいいからって可愛い仕草なんかしたって! すっかりメロメロだわ!
惚れた弱みとでも言うのか、律のやることなすことがすべて可愛く見える私は、相当重症だ。恋は盲目とはよく言ったものだ。
ベッドを背もたれにして、二人で並んでクッションに座っている。でも律は「こっちこっち」と手招きをして、私を律の足の間に座らせた。
「……もう辛くない?」
容態を心配してくれるのは、とても嬉しい。でもね、背後から抱きしめながら私の肩に顎を乗せて、耳元で囁かないで欲しいの。甘い刺激が、酷く心臓を揺さぶるから。
「う、うん。へーき」
ほらっ! もう完全に私の声が上擦っているのが、自分でもよくわかる。
背中に律の体温を感じ首筋に彼の吐息がかかると、体がみるみる緊張して固くなってしまう。こんなにバクバクと心臓がうるさく鳴っていることがバレた日には、きっと律の意地悪な言葉攻撃を受けること間違いない。それだけは避けなくては。あまり意地悪なことを言われると、どうしたらいいのかわからなくなる。「ふふ、ダメよ。坊や」なんて遊び慣れた大人の台詞など言えるはずもない。律に心臓の音が伝わらないように、ほんの少しだけ体を前にずらし、密着していた背中に僅かな隙間を作る。でも、それもすぐ律の手によって、隙間を埋められてしまった。
「なんで離れるの?」
「いや、その風邪が移ったらマズイかなーって」
「別に。アンタの風邪くらい貰ってやるよ」
ぐはー。まったく真面目にそういうことを言わないでください。こんな言葉まで脳内変換されて「アンタごと貰ってやるよ」に聞こえた私は、限りなく変態に近いだろう。自覚はある。でも隠し通す。そうしなきゃ、律の彼女は変態です、なんて言われかねない。
律の胸の中で小さくなっている私を、逃すまいと後ろからぎゅっと抱きしめる律。律の柔らかい黒髪が頬にかすって、ちょっぴりくすぐったい。ピカピカに磨かれた眼鏡が少しだけずれて、いつもとは違う印象が残る律の顔。伏せられた瞼に、長い睫毛が揺れている。
「……何? そんなにまじまじ見られると恥ずかしいんだけど」
「あ、ご、ごめん」
いつの間にか私は、律の顔を凝視していたらしい。瞳の動きとかすぅっと通った鼻筋とか、形良い唇だとか、小さくて気付きづらいけれど、左目の下にほくろがあるだとか。今更ながら初めて気付く律のこと。小さな発見も、宝物のように思えるから不思議。
「で? なんで見てたの?」
からかうように口端を持ち上げる律が、意地悪そうな声を出しながら私の髪の毛をひと房持ち上げて、指でくるくると弄ぶ。
「や。その、別に理由は特にないんだけど……」
「またまた。そんなわけないでしょ。熱ーい視線を感じたけど?」
生意気な! 律のくせに生意気だぞ、て言ってやりたかった。でも、こんなに甘い時間を自分の手でぶち壊すのは嫌だと思った私は、きちんと素直に自分の気持ちを律に伝えた。
「やっぱり律はかっこいいなーって、思ったの」
素直な私、万歳。ほら、ちゃんと素直に言えるじゃない。
「昔はさぞかしモテたんでしょーね」
こら、私! 最後に捻くれ者のような聞き方しないの!
かっこいいなんて言った後にテレずに可愛い女の子を気取るのは、私には無理だった。可愛い女の子になれる方法を探すには、どうしたらいいの? 自分の可愛げのなさにガッカリしていたが、律は真面目な顔をしたままだった。まっすぐ一点を見つめ、何かを考えているように見える。
「律?」
どうしたのかと思い律に声を掛けると、私の声に反応して律が顔を上げた。
「何かマズイことでも言っちゃった?」
「いや、そうじゃなくて」
ちょっと言いづらそうに口をもごもごさせる彼が、いつもより小さく見える。どうしたのだろうか、と首を傾げていると、律が昔を思い出すように口を開き始めた。
「……俺は昔、モテるどころか、いじめに遭ってたんだ」
切なく揺れる律の睫毛と衝撃的な過去に、私は一瞬で凍り付いてしまった。
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いつも更新がとびとびになってしまって、ごめんなさい。
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