4話 律
背筋が凍るような冷たい視線が私を射抜く。その視線に囚われたまま、言葉を口にすることができず、ただ突っ立っているだけだった。そんな私を見て、一つ小さく、けれど確実に私に聞こえるように舌打ちをする彼は、さらに不機嫌そうに私を睨みつける。
「邪魔って言ってるんだけど。日本語通じないの?」
「え、あ……ごめんね」
そそくさと横に体を避けると彼は冷蔵庫の扉を開き、中から数本のビールを取り出す。何か話しかけたほうがいいような気がして、当たり障りのない会話をしようと口を開いた瞬間、私よりも先に大地くんが口を開いた。
「アンタって何でそんなにオドオドしてるの?」
「オドオド? 別にしてないけど」
「ふぅん、あっそ。別に俺には関係ないからどうでもいいけど」
大地くんはそう言いながら、ビールを持ってキッチンから立ち去っていった。
なんだ、アイツ!? 関係ないならそんなこと言わなきゃいいじゃない!
この時点で私の中で大地くんの評価は、最悪の位置に決定付けられた。はい、もう彼とは合わないとよーくわかりました。ポケットの中で握っていた携帯が、ちょっとだけミシリと音を立てた歓迎会の夜だった。
結局、出された料理も用意されたお酒も全てを空にした私達は、とても気分良く利人さんの家から出て行った。歓迎会の終わりの頃には、お互いの名前で呼び合うほど親睦を深めた私達は、そのノリで携帯の番号とアドレスも交換することに。友哉くんと美波さん、そして利人さんはとても和やかに赤外線通信をしあったのだが、律だけは完全に無表情。別に律の携帯の番号やアドレスなんていらなかったけれど、あの場で律の携帯番号だけいらない、なんて言ったらその楽しい雰囲気が台無しになってしまう。その事を恐れて、しぶしぶ交換したのだ。
利人さんの家を出て、みんなが自分の部屋に帰っていく。友哉くんと美波さんは一階へ、私と律は二階だ。
納得いかない! なんで律が隣の部屋なのよ!
内心文句は溢れるほどあったけれど、あくまで隣人だ。あまり文句を言うのも大人気ないし、何より彼は私より年下だ。ここは大人として寛大な心を持って……。
「なんでアンタが俺の部屋の隣なんだ……うるさくするなよ」
びしっと人差し指を向けられて、自分の部屋に入っていった律。その台詞、そっくりそのまま返してやりたかった……畜生!
わなわなと震える拳を押さえながら部屋に入り、当然、そのまま行き場のない怒りの籠もった拳を枕に突きたてたのは言うまでもない。ああ、希望に満ちていた新生活は何処にいってしまったの? 楽しかった歓迎会の余韻を見事にぶち壊されて、この日は終了したのだった。
***
次の日、頭はガンガン。そして物凄く気持ち悪い。ムカムカする胃を押さえながら、ベッド脇のカーテンを開けた。
「……おはよう、ございまう」
語尾が変だった事は、この際スルーしておこう。私の部屋には当然だけど、私一人しかいない。けれど、こうしてカーテンを開けながら朝の挨拶を一人ですることが癖だった私は、未だにこの癖が抜けない。まぁ、直そうともしていないけれど。
ぐーっと大きく伸びをしてから枕元に置いてあった携帯を見ると、チカチカと点滅している。時間はまだ、朝の七時だ。こんな朝早くから一体誰だ? と首を傾げながら携帯を開いた。
「また!」
液晶には、彼の名前が残されている。
もう二度と会いたくない、彼。だったら携帯の番号もアドレスも変えてしまえばいいのに、自分自身にその言葉を何度も投げかけた。けれど、それはどうしてもできなかったのだ。自分の心の何処かで彼との繋がりを絶ちたくない、そう願っているのかもしれない。だから私は、携帯の番号もアドレスも変えず、着信拒否もせず、こうして連絡をくれる彼を無視している。酷い女だ。
彼と私の未来は、何一つ見えてこない。尤も、付き合っていた頃は私が勝手に彼との未来を想像しては、プロポーズの言葉を待ちわびていた。でも、いつになってもプロポーズの言葉はやってこない。「結婚」という二文字すら浮かんでこないのだ。それでも彼と一緒にいられたらいい。だってとっても幸せだもの、なんて思っていたあの頃。どうして私は気付けなかったのか……自分の立場に。
「三年も付き合ってたのに気付かないなんて、私が馬鹿だった」
彼から連絡が来るたびに、こうして自分を責めてしまう。わかっているのに、彼との繋がりなんて本当はいらないって。未練がましくこうして断ち切れずにいるのは、やっぱり彼が好きだから。嫌いになって別れたわけじゃない。だからいつも、私は自分に言い訳をしながら、今日も携帯を代えられずにいるのだった。
今日はまだ越してきたばかりということもあって、仕事はない。新しい仕事は明日からだ。と言っても、私はただのアルバイト。スポーツジムに興味があったことと案外時給が良かったこともあり、面接を申し込んだ。面接をしてすぐに採用決定になり、気分よく家に帰ったことをよく覚えている。
「今日はなにしよーかなーっと」
ぐしゃぐしゃの布団を綺麗に直し、顔を洗いに洗面所へ向かう。まだ真新しい匂いがするこの部屋が、私の気分を高めてくれた。でも、この後すぐにこの気分は破壊されることになる。
この辺りを散策しようと決めた私は、身支度を整えて部屋を出た。私の部屋の扉と同時に開かれた、お隣の扉。そこから顔を出したのは、昨日相性最悪だとインプットした隣人、律だ。
どうする、私。挨拶する? それとも無視?
後者はあまりにも大人気ない。ここは一つ大人の余裕で挨拶くらいしてやろうじゃない! そう勇んだ私は律に向かって挨拶をした。
「おはどぅ!」
大人の余裕って何? そして私、何噛んでるの!?
完全に私も律も固まってしまい、時間だけが規則正しく流れていく。
あまりにも気まずくて律の顔を見られない。でも、怖いもの見たさもあり、そぉっと律の方に視線を移した。律の顔、酷すぎる。物凄く人を馬鹿にしてるその顔が、なんかムカツクんですけど。
「……おはどぅって。はぁ……挨拶もちゃんと出来ねーなんて、アンタ可哀相だな」
こうして憎まれ口だけ残されたまま、入居二日目のスタートを切ることになったのだった。最悪だ!