38話 甘い嵐
昨夜は携帯を握り締めながらベッドの脇で転寝してしまい、目覚めたらすでに太陽が昇っていた。時刻はまだ、朝の七時だ。仕事までまだ余裕はある。
「うう……だるい」
変なかっこうで寝てしまったためか、体の節々がギシギシと痛む。でも、そんなことに構っていられない。私はささっと身支度を済ませてから、律の部屋へと足を運んだ。
少しためらいはあったけれど、律の部屋のインターホンを鳴らしてみた。でも、律はいつまでたっても姿を現さない。
また、帰ってこなかった。そんなに私は、律を怒らせてしまったのだろうか。不安ばかりが募って、気分が優れない。会いたいのに会えない。いつでも会える距離に住んでいるのに、今はこんなに距離が離れてしまった。なんでこうなってしまったのだろう。今の私の精神状態では、すべての物事を悪いほうにしか考える事ができなくなっていた。
「はぁ……もうヤダ」
こんな自分は、いつもの自分じゃない。いつもみたいにアホなことを言えるようなほど、今の私には元気がない。こんな思いするくらいなら、律に自分の気持ちを打ち明けなければ良かったとすら思えてしまう。本当はそんなこと、心の底では思ってもいないくせに。
ぐるぐると考えが纏まらないまま律の部屋の前から立ち去ろうとしたら、いきなり大きく視界が歪んだ。ぐらぐらと揺れて気持ちが悪い。
「な、なに?」
額に手を当てながら必死で前を見ようとしたけれど、いつまで経っても視界は歪んだままだ。ぐにゃりと曲がる景色が気持ち悪くて、その場で膝をついてしまったけれど、膝をついてもぐるぐるする。目をぎゅっと瞑って酷い眩暈がおさまるのを待っていたけれど、どうやらおさまりそうもない。
「どうしよ……だ、誰か」
「たすけて」と叫びたかった。でも、その声は誰にも届かないまま、私の意識はプツリと途切れてしまったのだった。
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暗い闇が、私を飲み込もうとしている。飲み込まれないように必死になって逃げるけれど、闇の手がすぐそこまで迫っていた。
「やめて!」
闇を振り払うように手を大きく動かし叫んだ瞬間、いきなり眩しい光が飛び込んできた。
私の目に映るのは、見慣れた天井。そう、ここは私の部屋で、私は自分のベッドで眠っていた。
「……あれ?」
何がなんだかわからなくて混乱したけれど、わかったのは振り払おうと大きく動かした手に、痛みが走ったことくらいだ。痛みが走った手を見ようと顔を向けると、そこにいたのは会いたくてしかたなかった律がいた。
「律!」
がばっとベッドから体を起こしたけれど、ふらふらと再びベッドに沈んでいった。おかしいな。自分の体なのに儘ならないなんて。でも律がそこにいることに喜びと驚きを感じて、動かしづらい体を少しずつ律の方に移動させた。
「……アンタなぁ」
呆れながら溜息を吐く律は、口調は怒っているけれど彼の表情は怒っていない。それどころか心配してくれているようだ。寝ぼけながら律の頭頂部に、力いっぱい手刀を食らわせてしまったというのに。痛そうに頭をさする律を見ていたが、今の私に律の頭頂部の心配をする余裕なんて、微塵もなかった。
「律、いつ帰ってきたの? なんで帰ってこなかったの? まだ私のこと怒ってるの?」
自分の制御しきれない気持ちを、一気に律にぶつける。不安との闘いに、私はもう限界だったようだ。言葉と共に流れる涙が、頬を伝って枕を濡らした。
あまりにも必死に質問をぶつける私の姿に律は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに柔らかく微笑みながら私の不安を取り除こうと頭を撫でてくれる。そのいつもより優しい手付きに、私の中にあたたかい気持ちが広がっていった。
「ごめん。帰ってきたのは朝。帰って来れなかったのはまぁ、実家でちょっとな。……それに全然怒ってないから。むしろ俺の方が悪かった。ガキっぽい独占欲を勝手にぶつけて勝手に怒って。本当にごめん」
私の質問に対しての律の答えは、とても丁寧だ。そうか、この前のことは怒ってないんだ。律と別れる必要は何もないんだ。彼の言葉を聞いて、体から力が抜けてしまった私は、ようやく律の前で笑うことができた。
親指で私の涙を拭う律。その行為が嬉しくて、フラフラした頭のまま体を起こし、彼に抱きついた。今までいなかった数日分の不安や悲しみを取り除きたくて、彼が確かにここにいることを実感したくて、思わず力いっぱい抱きしめていた。律の首筋に顔を埋めると、大好きな律の匂いがいっぱいに感じられる。
「よかった。律がこうして帰ってきてくれて」
私の言葉に反応するように、律の手が背中に回され、同じように力強く抱きしめられた。
今、私、すごく愛されているような感じがする。幸せだなぁって心底思えるから。
「……ちょ、め、めぐみ……く、くる、くるし……!」
おお。幸せを噛み締めすぎて、危うく律を落とすところだった。力いっぱい首筋に抱きついて、律の呼吸を止めてしまいそうだった。私の背中を何度もタップしている律が面白くて、つい力をさらに入れてしまいそうだったけれど、せっかくイイ雰囲気なのに壊してはもったいない。そっと力を緩めて律から少し離れると、今度は私の前に嵐が渦巻く。
律の顔が近すぎて睫毛しか見えない。でも、その長い睫毛に見惚れるような余裕はまるでなかった。嵐のような律の唇を受け止めるのに、せいいっぱいだ。甘噛みするように上唇や下唇を刺激して、何度も啄ばむようなキスをする。そしてそのまま甘く深い、ねっとりと絡むような律の舌が伸びてきて、私は呼吸を奪われるほど激しい嵐に襲われた。でもそれは、甘く刺激的な嵐。何度も何度も欲しくなるような、そんな時間だった。