33話 空気を読んで
お願いだから、そんなに真っ直ぐ私を見ないで。
きらきらのガラス玉のような律の瞳に、熱がこもっている。やや上気した頬と潤い帯びた瞳が、やたらと艶っぽさを増しているような気がした。
「言えって」
何を勝手なことを……! 私に同じ台詞を言わせて、一体何が楽しいというのか。
さっきの私の言葉は、自分の気持ちを曝け出したも同然だった。本当に、こんな形で律に気持ちを伝えたいわけではないのに。まぁ別に、ロマンチックに星が輝く空の下で「好き」なんて言いたいと思うほど乙女思考ではないけれど、せめてちゃんとした形で気持ちを伝えたいじゃない。ハプニングに乗じて気持ちを伝えるとか、悲しすぎる。
あと五センチも近づけば、律と私の鼻がくっついてしまいそうなほど、律が迫ってきている。このままじゃ、鼻どころか唇まで触れ合ってしまいそうだ。
「……り、律。ちょっと近いよ」
視線だけを足元に向け、律がこれ以上迫ってこないように制止する。けれど律はお構い無しだ。それどころか、とんでもねーことを言い出すもんだから、私の顔は火がついたように熱くなってしまった。
「うるせーな。塞ぐぞ、その口」
私、今だったら泡ふいて死ねる気がする。
くそー! こういうシチュエーションでそういう俺様口調はズルイ。しかも眼鏡をかけてキリリと締めた顔で言うなんて。私の好みを知った上で、そういう台詞を吐いているのか!
最初はただのムカつく年下のガキだと思っていたのに、こうして二人きりになると、いきなり大人びた表情を見せる。今の私にはそれが刺激的すぎて、思わず困惑してしまうのだ。
こうしている間にも、律の顔はぐんぐん迫る。ここは外だということを、律はわかっているのだろうか。
「律! ここ外だから!」
「だから?」
「だから? じゃなくて! こんなところでこんな風に……」
「こんな風って?」
ム・カ・ツ・ク。わかってて言ってるな。こんにゃろう。
傍から見たら絶対に、私と律がキスをする体勢に入っているとわかるだろう。律もわかっていて私に近づいてるに決まってる。口塞ぐとかこんな状態で言われると、まるで「キスするぞ」と言われているような気になってしまう。そりゃ私は律が好きだし、律とキスしたいなぁって思ったりもするけれど、何もこんな状況でしなくてもいいと思う。どうせなら二人きりの時間に、啄ばむような甘いキスが欲しい。
そこまで考えていたら、あっという間に頭のてっぺんから煙が噴き出しそうなほどの熱が、全身に駆け巡る。私ったら、なんという妄想をしているのか。
「……なんか、イヤラシイことでも考えてたのか?」
ニヤッと悪魔のような笑みを浮かべながら私を見つめる律が、ちょこっと調子づいて私の顎を指で持ち上げた。まさに律とのキスシーンを妄想していただけに、何も反論できないのが悔しい。とは言うものの、これが私の可愛くないところ。ついついキツイ口調で、律に捲くし立ててしまった。
「そんなわけないじゃない。律こそ私にこんなに迫ってきて、一体ナニするつもりなの?」
死ぬほど恥ずかしいけれど、それを悟られないように律を強く見つめ返す。顔は律を睨んでいても、胸の奥はうるさいくらい鼓動が鳴り響いていた。まるで耳元で聴いているような、それくらい大きな音がしていた。
一方、突然の私の強い口調に少々圧倒されてしまった律は、私の顎に触れていた指を離し、少しだけ顔を離した。
「別にナニもするつもりなんか……」
嘘だ。絶対今の口調で下心があることがわかった。
何もないなら、もっと強く主張すればいいのに、すでに語尾がごにょごにょしていて何か良からぬことを考えていたことが、バレバレだ。
むしろそのまま、勢いでキスしてくれても良かったかもしれない。なんてどこかでそう思っている自分がいることに驚いた。本当は、キスをしたかったのは私のほうなのかもしれない。もどかしいこの距離を早く埋めてしまいたくて、本能がそう告げているのかもしれない。そう思ったら、律に想いを告げるのは今なような気がしてならない。私は、一旦俯いて瞳を閉じ小さく深呼吸をしてから、再び律に瞳を向けた。
「律。あのね、私ね」
私が言う事が出来たのは、ここまで。ここまで言って、律の手のひらが私の口を覆ってしまった。その次にやってきたのは、律の真剣な眼差し。頬を赤らめながら体裁を整えるように、指先で再び眼鏡のブリッジを押し上げた。
一つ静かに息をつき、律が口を開きかけたその瞬間だった。
「ああ、やっとお二人とお会いできました」
利人さぁぁぁーんっ! ここは空気読もうよ!
二人の甘くドキドキする時間は、空気が読めない利人さんのひと言で、見事に破壊されてしまった。その時の律の顔ったら、般若のようだ。
きっと、私と律が言いたい言葉は同じはず。どこか確信めいたものが、私の中にあった。
一体いつ、律に自分の気持ちを伝えよう。
ここまで晒してしまったのだから、もう今更後には引けない。というよりは、もう進んでいくしかない。律の拒絶を恐れていた私は、もういない。自分なりに決意をし、胸の中のモヤモヤした霧が晴れ、私はとても清々しい気分になった。
「雨が降りそうですので、風邪を引かぬうちに帰宅したほうが良いと思いまして」
「本当だ。いつのまにこんなに雲が。おかしいですね、天気予報では降水確率ゼロパーセントって言ってたのに」
「天気予報も、今日はハズレということですね」
風に舞う髪を手で耳に掛けながら、黒く厚い雲に覆われた空を仰ぐ。あんなに穏やかだったのに、いつのまにか風は強くなり雨雲も空を覆い尽くしていた。雨はもう間もなく降ってくるだろう。
「……本当は、二人きりのお時間に邪魔をする無粋な真似をするつもりはなかったのですが。申し訳ありません、めぐみさん」
「そんな。わざわざありがとうございます」
利人さんはにこやかに微笑み、そっと私の肩に触れた。申し訳なさそうなその顔を見ると、もう何も言えない。その頃律はというと、突然利人さんが割り込んできたことに腹を立てて、私のお金で買ったミネラルウォーターを飲んでいる。しかも、ここからずいぶん離れたところにあるベンチに腰を下ろして。
しばらくしてから、律も渋々といった具合だが私達のところに戻り、空になったペットボトルをゴミ箱に投げ入れた。何度も言うようだけど、あれは私のお金で買ったものだ。
せっかく来たというのに、結局何も乗れずにこの場を去らなくてはならないなんて。とても残念だし、誘ってくれた利人さんにも悪い気がした。
――今度、利人さんに今日のお礼をしなくちゃ。
お礼を何にしようか考えながら、出口へと歩き始める私達。私はお土産屋さんのショーケースに目を奪われ、帰るのがとても口惜しい気持ちでいっぱいだ。帰りたくない、と泣き喚く子供の気持ちが、この時ようやくわかった。そんな私の後方で、利人さんと律が何かを話しているのが目に入った。利人さんは律の耳元でこそりと何かを呟き、それを聞いた律が、さっと利人さんから体を離し、青ざめた表情で利人さんを見つめている。きらきらの笑顔を浮かべる利人さんとは対照的な律の表情に、私は首を傾げながら声をかけた。
「何の話してるんですか?」
青ざめた律からは、何の言葉も出てこない。ただ、ぱくぱくと口を動かすだけだ。対する利人さんの口からは「いえ。特に大したことでは」と、はぐらかされてしまった。そして鼻歌を口ずさみ、満足気にスタスタと先に歩き出した利人さん。その後姿を見つめながら、ますますわからないと首をさらに傾げた私だった。
隣では律が、「……俺かよ」と呟いている。
「律、どうしたの?」
「いや、ちょっと。ショッキングすぎて言葉もねー……」
一体何の話をしていたんだ!
気になるけれど、この先もこの話の内容が私に伝わることはなかった。