32話 形勢逆転ですっ
この状態は、両手に花と言ってもいいのだろうか。私の左に利人さん、右には律がいる。
利人さんは相変わらず私に合わせて視線を下げて会話をしてくれるが、律はあまり私の顔を見ない。それどころか、やたらと不機嫌なような気がする。一体何が気に食わないのかは知らないけれど、こういう場でそんなに不機嫌そうな態度をとられると、こちらまで気分が悪い。
つん、と横を向きながら、しぶしぶ私達に合わせて歩く律に、私はついにイライラを抑えられず声をあげた。
「ちょっと。もう少し楽しそうにしたらどうなの?」
「はぁ? 楽しいわけないだろ!」
つまらないのがさも当たり前のように言われてしまった。律の言葉に呆気にとられ、私は少し悲しくなった。
所詮律にとっては、私と一緒に遊ぶなんてどうでもいいことなんだろうな。少なくとも私にとっては、例え律と二人きりではなくても、とても嬉しいし楽しいのに。
暗く塞いでしまう気持ちは、なかなか浮上してこない。悲しくなってしまい、律を見つめていた目を反らした。しかし、不機嫌な律が勢いを止められないのか、続けた言葉は私の気持ちを一気に浮上させることになる。
「利人さんと手とか繋ぐなよ! 他の男とベタベタするな……!」
「え」
律の言葉の意味は、深く追求しなくてもわかる。それってそれって、やっぱり律のヤキモチだよね?
隣には利人さんもいるというのに、律は思い切り本心をぶちまけてしまい、あろうことかいつもより声のボリューム過多だったので、周りにいるお客さんまでこちらを振り向く始末。我に返った律の顔はみるみる赤く染まり、自分が言った言葉に自身が一番困惑しているようだ。
「ち……違う、違うっ! 俺はその、ああもう!」
頭をくしゃくしゃと両手で掻き毟り、ここにはもういられない! とばかりに、まるで昼ドラのヒロインのように両手で顔を覆って走り出した。乙女かっつーの。
心の中でツッコミを入れつつも、律の言葉に舞い上がっているのは私。今にも足元がふわふわと浮いて、空を飛べるような気がしてしまう。少なくとも律はもう、私を苦手としていない事がよくわかった。好きなのかどうかは、良いように受け止めれば「好き」なのかもしれない。でも、これだけは確かな言葉が欲しかった。
走り去る律の背中はあっという間に遠くなり、その後姿を追いかけていいものか迷ってしまう。律の方に少しだけ手を伸ばすけれど、その手の行き場はなかった。そんな私の背中にそっと触れ、利人さんが柔らかな笑みを私に向ける。
「……追いかけてあげてください。律くんも、あなたを待っているでしょうから」
「律が、私をですか?」
「ええ。なかなか素直になれないのは、めぐみさんも律くんも一緒です。さぁ、行ってあげて下さい」
背中に触れていた手が、とん、と前に押し出す。振り返ると利人さんが一つこくりと頷いた。利人さんにはお見通しなんだ。私が律のことを好きなことも、素直になれないことも、全部全部お見通しなんだ。私はそのまま前を向き、律が走っていった方向に向かい、全力で駆け出した。
絶対に見つける。どれだけ私が律のことを好きか、分からせてやるんだから。
**
「……」
思わず無言になってしまうのは、園内を走りすぎて息切れしているから。だってまさか、これだけ園内を走っても律の姿を見つけられないなんて、思いもしなかったんだもの。律の奴、どこまで逃げたんだ! まさか園内にはすでにいないなんてこと、ないよね。一抹の不安が胸に過ぎったが、頭を横にぶんぶん振って、その不安を吹き飛ばした。余計なことは考えてはいけない。
乱れた息遣いを元に戻すために深呼吸を何度か繰り返し、走ってカラカラになってしまった喉を潤すため、近くにある自動販売機に小銭を入れた。何を飲もうかと色々探し、私はスポーツドリンクを買おうと思い指を伸ばす。すると後ろから近づいてきた影が、私より僅かに早くボタンを押す。
「なーっ!?」
ガコンと音を立てて出てきた飲み物は、私が買いたかったスポーツドリンクではなく、ミネラルウォーターだった。受け取り口から水を出し、背後で小ざかしい悪戯をする人物を睨みつけた。こんなことする奴は、一人しかいない。
「律ーっ! 何すんの!」
「よく俺だって分かったなぁ」
「分かるに決まってるでしょ? こんな子供染みた真似をするのは律だけなんだから」
眉を吊り上げて律を睨みつけるも、自分より低い目線で怒られたって律は何にも怖くないだろう。怒られて肩を竦めることもせず、「はいはい」と呟きながら眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
あ。何かマズイ。ムカつくわ、この態度。
ムカムカと胸の奥に渦巻いた気持ちを発散するべく、私は律に追い討ちをかけるような言葉を放つ。
「さっきの律の言葉って、利人さんに妬いたって思っていいの?」
私の手からするりとミネラルウォーターを受け取り、勝手にキャップをあけて飲み始めていた律は私の言葉で思い切りむせてしまい、足元には口から噴き出したミネラルウォーターの飛沫が地面に散乱した。
「な、な、何をこ、根拠に」
律の顔から焦りの色が見える。動揺しているのか滑舌も悪いし、今水を噴出した時に飛んだ水が、自分の口元を思いっきり濡らしていることにも気付かない。あーあ、焦ってる律ってなんて可愛いのだろう。いつもこうして彼を翻弄させるのは、私ならいいのに。そう思いながら、私は自分のバッグからハンカチを取り出し、律の口元にそれを当てた。
「根拠なんてないから。ただ、そうだったらいいなって思っただ……け!?」
やばい。やばすぎる。気を抜いた瞬間のことだった。
律の口元を拭くためにハンカチを動かしていた、まさにその瞬間。私の気が一瞬だけ緩み、自分の気持ちを話してしまった。動揺するのは、今度は私の方だった。その瞬間、力強い腕が私の腕を掴んだ。
「何、何? もう一度ちゃんと言って。そうだったら……そう言った?」
「あ、あわわわ……ち、違! 言ってない言ってない!」
「嘘つくな。聞こえたぞ。もう一度言って。つーか言え」
命令かよっ!
そう思ったけど、今の私につっこみを入れる余裕なんてどこにもない。
目の前に迫る律の顔を、真っ直ぐに見つめることすら難しい。
息が乱れる。羞恥でいっぱいになり、顔がどんどん熱くなっていく。
火照る頬を片手で押さえながら律の視線を逃れようと背を向けても、律の力強い腕からは逃れられない。
まさかの形勢逆転に焦る私。私の言葉をもう一度確かめようと、目の前にじりじりと迫る律。オオカミさんに食べられる、五秒前。