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くるくる  作者: こたろー
26/50

26話 帰路


 律の瞳は夜でも透き通るほど、綺麗。

 その瞳を真っ直ぐ見つめながら素直にお礼を言ったのに、律が返してきた言葉はこうだ。


「な、何改まって。気持ち悪ぃ」


 この瞬間、ピシッとどこかにヒビが入る音が聴こえた気がした。

 女性に向かって「気持ち悪ぃ」はないだろ! 思わず大声で律につっかかっていきそうだった。

 いやいや、ここは冷静に冷静に。せっかくこうして律が迎えに来てくれたというのに、こんなことで怒ったら、せっかくの二人きりの時間も台無しになってしまう。ここは大人になって、私、落ち着こう。

 こんなことを思いながら頭を振り、自分を何とか冷静に保とうと努力する。しかしそんな私の思いも虚しく、せっかくの律との二人きりの時間は終わりを迎えるのであった。


「り・つ」


 そう。この甘ったるいひと声で。


 **


 さっきの甘ったるい女の声で、二人の時間は台無し。気がつけば律を真ん中にして、サイドに私とさっきの甘ったるい女がいる。しかもこの女は、馴れ馴れしくも律の腕に自分の白く細い腕を絡ませている。甘ったるい舌足らずな声で律に話しかけ、巧みにボディタッチを繰り返す。「胸、律に当たってますよ」と、この女に言ってやりたい。大きく胸元が開いた服は、ボディラインを強調するようにピッタリとしていて、たわわな胸の谷間がくっきり見える。きっとこれはこの女の計算だ。「わざと当ててるに決まってるじゃない」と言われるのはわかっている。こういう類の女が男を落とす為の、常套手段だ。それでも何が許せないって、胸が当たっていることに気付いている筈なのに、平然としている律の態度だ。もう少し動揺するなり嫌がるなりしろよ! ええい、このムッツリがっ!

 すっかり気分が悪くなり、私は少し早足で歩き始めた。だって、何か二人が喋ってることがよくわかんないんだもん。ちらほら聴こえてくる単語から、二人は同じ大学で同じゼミをとっているらしいってことがわかったくらいだ。だったら尚更、私はお邪魔虫だろう。律と知らない女が二人きりになるのは嫌だけど、何よりもこの二人と一緒にいると疎外されているように思えて苦痛なのだ。

 知らない女。わからない会話。不快なボディタッチ。……私の前では見せた事がない、律の笑顔。

 さっきまでの弾んだ気持ちは、一体どこへ行ってしまったのだろうか。どうやら行方不明のようだ。

 こんな二人と一緒に帰るのは、辛すぎる。前は律を好きだなんて思ってなかったから平気だったかもしれないけど、好きだと自覚してしまった以上、彼のこんな姿を見るのは想像以上に辛い。私、こんなに臆病じゃなかった筈なのに、どうしてしまったのだろうか。

 

「ごめん。私、先に帰るね」


 心配をかけないように笑顔を作り、勝手に言葉だけを残してその場から逃げ出した。走って走って、風を切りながら涙を飲み込む。ちゃんと笑顔を作れていただろうか。もしかしたら、口端が引きつってしまったかもしれない。でも、あの場で辛そうな顔をして気付かれてしまうより、走って逃げ出すほうがよっぽど良い。

 ぜぃぜぃと苦しい息を整えたのは、アパートの敷地内に入ってからだ。程よく掻いた汗を拭おうとバッグからハンドタオルを出そうとした時、携帯が震えていることに初めて気がついた。震えている携帯の着信ボタンを押すことに、私は躊躇してしまう。着信相手は律だったから。何コールかした後、携帯の震えが止まった。そしてそこで気がついたのは、律からの着信が、これで七件目だということだ。あの場から駆け出してから、もしかしたらずっと掛け続けてくれたのかもしれない。そう思ったら申し訳ない気持ちが少しと、私を心配してくれたのかも、というあたたかな気持ちが溢れ出す。一緒にいた女よりも自分の心配が優先されたのかと思うと、それだけで嬉しかった。単純、でも酷い女だなと思う。

 アパートの階段を昇っていく途中、上から利人さんが降りてきた。利人さんは私の姿を見つけると、にっこりと微笑んだ。うーん、王子様スマイル健在だ。


「めぐみさん、おかえりなさい。お仕事だったんですか?」

「ただいま、利人さん。ええ。今日は美波さんのお店をお手伝いしてたんですよ」


 そう言うと、利人さんは顎に手を当てながら何か考え込み始めた。そして疑問を私にぶつける。


「私は今日もお花を買いに行きましたけど、めぐみさんの姿をお見かけしませんでしたが」

「え……でも、朝から閉店までいましたけど」

「おかしいですね。榊くんしか見ていませんが」


 榊さんのこと、利人さんは知っているんだ。それもその筈。利人さんはあのお店の常連さんなのだから。知っていても不思議ではない。

 利人さんがあまりにも一所懸命考え込むので、私はつい笑ってしまった。そして利人さんの疑問を解決に導く答えを、私は話した。


「もしかしたら、休憩中だったかもしれません。お昼頃、休憩をいただいたんです」

「お昼頃ですか。それなら納得です。そうですか……エプロン姿のめぐみさんにお会いできなくて、本当に残念です……」


 あまりにも神妙な面持ちで利人さんが言うものだから、私は堪えきれず噴き出してしまった。利人さんのこういう真面目なところ、本当に面白い。こんなことで真面目な顔をされると、おかしくてたまらないもの。

 利人さんと話していたら、さっきまでの塞いだ気持ちが嘘のように吹き飛ばされた。利人さんの人柄に、今は感謝だ。

 そんな利人さんとの会話を楽しんでいると、後ろから乱れた息遣いが近づき力強く私の肩を掴む荒々しい手が、力任せに自分の方に引き寄せる。


「きゃ……」


 階段の中腹にいた私はバランスを崩し、体ごと下へと引き寄せられた……筈だったが、それを阻止するかのように利人さんが私の腰に手を回し、落下しそうな体勢から利人さんの胸へと引き寄せられていた。目の前には、利人さんの着物の合わせが見える。濃紺の着物に黒の羽織を着ている利人さん。彼はこうして時々、着物を着ていることがある。「祖母が着物を着ているので自分も時々」と、ここへ越してきた日に、利人さんから聞いたことがある。でも、着物を着ている利人さんに会ったのは、今日が初めてだ。

 利人さんの胸元に引き寄せられたと同時に、私の肩を掴んだ手は、利人さんによって弾かれた。そして私の頭上でいつもとは少し違う、少し責めるような口調で話す声が聞こえた。


「律くん。このような足場で、先ほどの様な行為は危険です。めぐみさんが落下してしまったらどうするおつもりなのですか」


 利人さんの戒めるような口調に、正直驚いてしまった。そしてやっぱり私の肩を引き寄せたのは律だった。まぁ、すぐに追いつかれるとは思っていたけれど、本当に追いかけてきたなんて思わなかった。さっきの女はどうしたのか、それを訊きたいけど聞けない。

 利人さんが腕を緩め、私は良い香りがする利人さんの胸から離れた。守られているような気分にさせる彼の胸元は、思ったよりも厚く引き締まっている。でも、私が好きな匂いじゃなかった。利人さんは好きだし、とても良い香りがするけど、私が求めているのはやっぱりこれではない。そう思い、背後にいる律の方へと振り向くと、バツの悪そうな顔をして、拗ねた子供のように私から目を反らした。そして小さな声でひと言残し、さらに俯いてしまった。


「……ごめん」


 律が呟いた「ごめん」は、どれについて謝っているのだろう。

 今、乱暴に肩を引き寄せて「ごめん」。それとも、変な女が乱入してきて一人ぽっちにして「ごめん」。どっちなの?

 そんなこと聞きたいわけじゃないのに、ついくだらないことを考えてしまった。いいのに、そんなに申し訳なさそうな顔をしなくても。私はもう、気にしてないのに。すると、さっきまで険しい顔をしていた利人さんが、いつの間にかいつもの王子スマイルを浮かべ、私と律の頭を「よしよし」と撫でた。「はい、仲直り」と言いながら頭を撫でる利人さん。ちょっと待って……利人さん。私達、もう子供じゃないから! いつだって彼へのツッコミは追いつかなくて困っている。


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