21話 終止符
ゆっくり伸びてくる彼の手が、そっと私の頬を撫でる。
「やっ……」
もう壁ギリギリまで追い詰められていたのに、さらに後ろに行こうと身を捩る。
ギシリとベッドが音を立て、それがやけに耳に響いた。
目の前にある彼の瞳を直視できず顔を背けると、頬を撫でていた彼の手がゆっくり離れていった。
怖さで目を固く瞑った私は、そっと目を開いてみると、彼の顔から先程の怖さが消えていた。
「そんなこと、しないから。出来るわけないだろ。俺はめぐちゃんが好きなだけだから、嫌がるようなことはもうしない」
「あ……」
ホッとして体から力が抜けていくのがわかる。
もう、目の前にいる彼が怖いと思うこともなくなった。
「好きな人が出来た、か。流石にそれはショックだったな」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。悪いのはどう考えても俺だから」
ショックを隠すように浮かべた笑みが、あまりにも痛々しい。でも、もう彼に手を差し伸べて抱きしめてあげることはできない。
傷つけたのは、私の言葉。
誰からも好かれようなんて思ってはいないけれど、自分の言葉が誰かを傷つけるのはとても辛い。でも、掛ける言葉も見つからなかった。私はただ、目を伏せるだけしか出来ない。そんな私の気持ちを察したのだろうか、彼は私の肩をぽんと一つ叩き、そして力強く掴んだ私の手首をそっと取り、逆の手で私の左頬に触れる。そして申し訳なさそうな表情を向け、優しく赤くなってしまった部分を撫でてくれた。
「ごめん。こんなに赤くなっちゃって……。肌が弱いこと知っていたのに」
「大丈夫。すぐ治るよ」
「ごめん。本当に、ごめん」
握られた手に、ぬくもりが伝わる。かつて、このぬくもりに、私がどれほど救われてきたか。
私は何も言わずに、ただひたすら謝る彼の姿を見ていた。しっとりと良い空気が、私達の間に流れていた。しかし、そんな空気をぶち壊すように、玄関の扉が乱暴に開かれた。
「めぐみ!」
はい。こんなシーンで律が登場。
律……遅いぃぃぃっ!
その後、部屋にズカズカと入り込んだ律は、私の手を握っている彼を引き剥がし、襟ぐり掴んで睨みつけた。今にも殴りそうな律の態度に少々焦りはしたが、彼はじぃっと律を見つめたまま動かないままだ。そして、そんな姿のまま、彼がぼそりと呟いた。
「……もしかして、例の人は彼?」
「えっ!? あ、いや、その……う、うん」
勘が良い彼は、私の好きな人が律ということを、見抜いてしまった。まぁ……バレて困ることはないからいいけど。
律は私達の会話がわからなくて、一人でポカンとしている。そんな律に彼はにっこりと微笑み、気さくな感じで律の肩に手をかけた。
「そうか、そうか。君のことか~はっはっは」
「は?」
不機嫌そうな律。それもその筈。一体何のことを言っているのかさっぱりわからないのだから。怪訝そうに眉を寄せた律が、訝しげに彼を見る。そんな律に、彼がその後、とんでもない置き土産を置いていった。
「うーん、実に不愉快だね。これはほんの、八つ当たり!」
「八つ当たり!」の言葉と同時に繰り出された頭突きは、律の額にクリティカルヒットした。
はい。律、撃沈。
くらくらと星を飛ばしながら床にへたりこむ律は、なぜ頭突きをされたのかわからないままだ。彼はといえば、ぱんぱんと手を叩きながら豪快に笑っていた。そして、乱れたスーツを正して、私の方を向く。
「ほんのちょっとスッキリしたかな。……めぐみ、さようなら。もうこれっきりだ」
「ありがとう。ごめんなさい……さよなら」
寂しげに、でも穏やかな微笑みを浮かべながら、私の部屋を去っていく。
ああ。もうこれで終わりなんだ。私と彼の付き合いに、ようやく終止符が打たれたのだ。
楽しいことも悲しいことも沢山あったけれど、それでも確かに私は幸せだった。それだけは間違いない。
「本当に、さようなら」
これでもう、おしまい。私は、後ろを振り返らない。
彼との思い出に浸りながら、私はようやく携帯から彼のメモリを消す事が出来たのだった。
色々な思いに浸りながら、携帯を閉じた私。そんな私を恨めしげに睨み付ける視線が痛い。
「おい、こら。なんだアイツは……」
「ああ、大丈夫? おでこ割れてない?」
「人の質問スルーすんな! なんだよアイツは!」
「……元彼です」
ピタリと動きを止めた律が、余計わからないという顔をする。
時折、頭突きされた額を撫でながら考え込むけれど、いつまで経っても頭突きされた原因はわからないそうだ。すまない、律。
その後、律がハッと気付いたようにゴソゴソと何かを探っている。そして背後から取り出したのは、私がさっき買いに走ったスイーツが入ったコンビニ袋。中のスイーツは、床に落としたせいでぐちゃぐちゃだ。
このスイーツが私の部屋の前に落ちていて、不審に思った律が色々なことを想像し、私の部屋に強盗でも侵入したのでは? と思って駆け込んでくれたらしい。惜しかったな。もう少し早ければ、少女マンガのヒーローみたいに決まったのに。うん、実に惜しい。
落としてぐちゃぐちゃになったとはいえ、スイーツの中身は無事だ。私は袋から取り出して、そのうちの一つを律に差し出した。
「ぐちゃぐちゃだけど、きっと美味しいよ。律も一緒に食べよう?」
「ん。まぁ、しょうがないから食ってやる」
可愛げのない返事をしつつも、スイーツは美味しかったらしい。だってあっという間に食べきってしまったのだから。
無心にスイーツを頬張る律はなんだか可愛くて、微笑ましいなぁと思いながら律を見つめていた。が。
「それにしても、アンタ結構おっぱいあるんだなぁ」
食べ終わったスイーツに使用していたスプーンの先で、私の胸をつん、と突く。
ブラウスのボタンが弾け飛び、肌が露わになっていることをすっかり忘れていた。
「にょわぁぁぁ!」
色気もへったくれもない悲鳴を上げ、律の頭をクッションで叩いた。ぼふぼふと鈍い音を立てながらも、律の目は楽しそうに私の胸元を見る。
「やめろって、もう見ねーから! ほら、本当に……ストーップ!」
律に手首を掴まれ、私の動きが止まる。その時、ビリリッと手首に痛みが走った。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ痛そうに眉をひそめたのを律に見破られ、赤くなった手首を律に見られてしまった。それを見た律が、怪訝そうに眉をひそめる。
「なにこれ……。もしかして、アイツ? その赤くなった頬もアイツか?」
「や、その。違うの!」
「それにこのブラウスだって、ボタンが弾けてんじゃねーか」
「それは、その」
「何があった?」
詰め寄る律が、ちょっとだけ怖い。それに、さっきの恐怖感までじわじわと甦ってしまった。それでも気丈に努めようと、ちょっとだけ引きつった笑顔を見せた。
「あの、大丈夫だから。大丈……夫」
「大丈夫? 何が大丈夫か言ってみろよ」
真剣に覗き込む律の瞳。ガラス玉のように透き通っていて、でも、以前感じたような冷たさは欠片もなくて。ただ真実だけを映そうと、まっすぐ私を見つめる。
その瞳に、私は負けてしまった。
魔法の呪文「大丈夫」は、どうやら効かなくなってしまったらしい。
次第に律の顔がぼやけてきて、ついに部屋の様子まで見えなくなってしまった。
「大丈夫じゃ、ない……」
ようやく出た言葉。可愛げはないけれど、初めて人の前で素直になれた気がした。
飲み込んできた恐怖。心落ち着かせるために何度も呟いた「大丈夫」。それも今日で終りだ。
溢れ出た涙が、洪水のように流れ落ちる。そんな私を包み込むように抱きしめてくれたのは、律。
泣き止むまでずっと、律が何も言わずに抱きしめてくれる。
その時間が、少しでも長く続けばいいのに。そんな不謹慎なことを考えていた。