20話 嵐は目の前に
*少々残酷なシーンがあります。
息が止まりそうなほどの衝撃だった。
突然現れたアノ人が、私だけを眼に映す。
「……やっと見つけた」
そう言われて私はハッと我に返る。
なぜここがわかったのか。私は引越しする時、誰にも内緒でこっそりと引越したはずなのに。この場所を知っているのは、妹の萌だけだ。でも萌と彼は面識もない。それなのに、どうしてこの場所を知っているの? 質問したくても、驚きのあまり声も出ない。
「俺の話を聞いてほしい。頼む、めぐみ」
真剣な眼差しを向けながらそう言って、一歩、私に近づく。
びくり、と自分の肩が震えるのがわかった。彼とはもう、よりを戻すつもりはない。このままなし崩しに彼に言い包められ首を縦に振ってしまえば、またあの不健全な関係が再開されてしまう。それだけはどうしても、嫌だ。
私の頭も体も、彼に触れてはいけないと言っている。
「……話なんて、ない」
ようやく出た、拒絶の言葉。
言葉と共に私は階段を駆け上がり、バッグから鍵を出して扉を開く。追いかけてくる彼を振り切るように扉を閉めるつもりだったのに、走る早さも、私を捕まえる彼の腕の長さも、思った以上に速い。扉を開き、部屋に入る直前で捕まえられてしまった私の腕に、鈍い痛みが走る。強く掴まれた腕を振りほどこうと、上下に動かしてみた。でも、振りほどくことは叶わなかった。それどころか逆に、彼が私の腕を押し付けるように、私を部屋の中に押し込むと、自分も一緒に入り込んだ。その時、ガサリと音が聞こえたけれど、今はそれどころではない。
部屋に入り込んだ彼が私の両手首を掴み、何度も「話を聞け」と懇願する。でも、聞きたくない。聞いたところで私達の関係が、前と同じように戻るわけではないのだから。
「めぐみ。本当に俺ともう一度付き合ってくれ」
「無理」
「ほら、離婚届に俺はもうサインしたんだ。あとは妻が書いてくれればそれで俺はフリーになる」
「そういう問題じゃない」
「めぐみ!」
何度も私の名前を呼ばないで。これ以上、私の気持ちを掻き乱さないで。
何を言われても彼の顔を見る気はない。それなのに、無理矢理顎を掴まれ顔を上に上げられてしまった。そこには、初めて見る彼の悲しい顔があった。
彼にこんな顔をさせているのは、私。
彼を追い詰めているのも、私?
でもね、私だって凄く傷ついている。あんなに大きな嘘は、もう沢山なの。だから彼が離婚すると言っても喜べないし、以前のような関係にも戻れない。
電気もついていない部屋に、二人きり。こんなことは何度もあったのに、今日はなぜか怖い。
よく知っているはずの彼が、知らない人に見える。
少しずつ間を詰めてくる彼が、怖い。怖くてたまらない。
掴まれた腕が引き寄せられ彼の腕の中に捕らえられると、有無を言わさずに唇を奪われた。固く唇を結んでいたが舌先で割り入るよう唇を開かれ、内部に侵入を許してしまった。そのまま体をベッドに押し付けられると、ようやく唇が解放された。
「……こうやって、無理矢理抱けば戻ると思ってるの?」
「違う、そうじゃない。こんな無理矢理したいわけじゃないんだ」
「この状態は無理矢理じゃないの? こんなことされたって、私はもうあなたと付き合えないよ!」
「このっ……!」
静寂を破る、乾いた音。音と共に訪れた、頬の痛み。
思うようにならなくて、自分の言い分をわかってもらえなくて暴力を振るう彼。
私を叩いた彼が、顔面蒼白になっている。だって、人に暴力をふるうような人じゃないもの。きっと、良心の呵責に苛まれているんだ。
でも、もう引き返せないと悟ったのだろう。私を抱く時のような優しい手が、今日は乱暴に動き出した。
お気に入りのブラウスのボタンが弾け飛んだ。開いた胸元に押し付ける唇が荒々しくて、自暴自棄になっている彼を止める事が出来なくて、私は抵抗することさえ疲れてしまった。
どうしてこうなったんだろう。何度も「戻れない」と、私の答えは出していた筈なのに。
ゆっくり伝う涙が、シーツを濡らしていった。
何も考えられずただ人形のように横になっている私を、もどかしい気持ちを抱えたまま抱きしめる彼が、なんだか哀れに感じる。
早まる呼吸と乱暴な唇が、私の胸で踊り狂う。そして思いつめたように彼が言う。
「お前を大事にしてやれるのは、俺だけだ」
何を身勝手なことを言っているのだろうか。あなたは大事になどしてくれなかったというのに。あまりにも滑稽すぎて、笑いすら出てこない。
私は大事にされることを前提に付き合っていたわけではないのに。ただ好きで、側にいたくて一緒にいた。ただそれだけ。
目を伏せようとした時、壁に掛けてあるショールが目に入った。それは以前、律が私に掛けてくれたショール。
駄目だ。このままじゃ、もう……律に会えなくなってしまう。せっかく自覚できたこの恋を、手放したくはない。律の顔が浮かんだ瞬間、人形になりかけていた私の体に、力が漲った。
「離して! 私達はもう、終ったはずでしょ!?」
「終らせない。これから始める」
「そんな身勝手なこと……私はもう、他に好きな人がいるから無理」
荒々しく体をまさぐる手が、一瞬ぴくりと動いたまま止まってしまった。その隙に状態を起こし、ベッドの上で乱れた服を直した。
弾け飛んだボタンの部分が、事の荒々しさを物語る。手繰り寄せても止まることのないブラウスが、私の胸元を曝け出す。
このブラウスは、もう着られない。気に入っていたのに。せっかく春に合わせて新調したものだったのに。
一瞬の沈黙の後、動きを止めた彼が突然、声を出して泣き出してしまった。流石にそれには驚いた。しかしもっと驚いたのは、泣いたと思ったら笑い出したこと。額を押さえて、突然高笑いしだした彼を、私はただ目を見開いて見つめるしかできなかった。
掛ける言葉も見つからない。伸ばす腕は持ち合わせていない。ひたすらこの嵐のような笑いが収まるのを待つしかない。
「人がこんなに悩んで離婚届にサインしたのに、お前は好きな人が出来ただって? はは……傑作だな」
「何を言ってるの? 悩んだのは私の方……」
「腹立たしい。ただただ、腹立たしい」
そう言って私を見据える彼の目は、怪しい色を帯びていた。そしてその後に続く言葉は、戦慄の響を含んでいた。
「――滅茶苦茶に、犯してやりたい」