17話 人生、いろいろ
「え、私ですか?」
「ええ。駄目かしら」
美波さんが朝、私のところにやってきた。それも、臨時アルバイトのお願いだ。
「えっと……私、お花にはあまり詳しくないんですけど」
「大丈夫! めぐみちゃんだけじゃなくて、もう一人バイトの子はいるから。わからないことはその子に訊いてくれれば平気だから」
「はぁ」
「ごめんね。本当はもう一人バイトの子がいたんだけど、どうしても入れないっていうし、私もその日はちょっと用事があって」
美波さんが目を伏せて、申し訳なさそうに私に言う。
どんな用事なのかは知らないけれど、とても困っているのはよくわかる。そんな顔されてしまったら、断るわけにもいかない。
「わかりました。その日は丁度、ジムのバイトもお休みだし。私でよければ」
「めぐみちゃん! ありがとう、助かるわ」
そんなわけで私は、今度一日、花屋でバイトをすることになったのだ。
それにしても、美波さんの用事って一体なんだろう。用事なら定休日の火曜日に入れればいいのに、わざわざ仕事の日に入れるなんて。
美波さんの真面目さは知り合って短期間とはいえ、よくわかっている筈だ。だからこそ忙しい日曜日に用事をいれるなんて、珍しいなと思う。
私があまりにも不思議そうな顔をしていたのだろうか。何も言わなかった筈なのに、その用事の内容を突然話し出したのだ。
「実はね、前の旦那と会わなくちゃいけなくて」
「えっ」
さらり、と口にするには、あまりにもヘビーな台詞だった。
「前の旦那」なんてさらっと言うけれど、それって美波さんが結婚していたってことで……しかも離婚したということでもあるわけで。
目の前で微笑んでいる美波さんだけど、私は彼女にどんな言葉をかけたらいいのかわからない。私は、美波さんにかける言葉を、ついに見つける事ができなかった。
そんな私の様子を見て、美波さんはにこりと微笑む。
美波さんの笑顔を見ているだけで、こんなにほんわかするというのに、一体どうして離婚なんてしたのだろう。
結婚なんてまだまだ考えたことない私には、夫婦のことなんて何一つわからない。ましてや夫婦の問題とは、他人にはわからないものが殆どだと思う。
……何があったのかな。
私にとって美波さんは、欠点なんて何一つ見つからないくらい良い人に見える。夢を叶えてお店を開き、その生き様に惚れ惚れするくらい。
だけど人間って、表面だけではわからないことは沢山あるんだなぁと、実感。
美波さんに向ける言葉が見つからないまま呆然としていると、美波さんが小さく笑って私を見つめる。そしてゆっくりと頬にかかる髪を耳にかけながら、私に言葉を向けた。
「ふふ。離婚の理由が気になる?」
「え! いえいえ、そんな」
「今度、ゆっくり二人でお話でもしましょ。その時、色々聞かせてあげる」
小さくふふっと笑いながら、美波さんは行ってしまった。
白地に小花が散ったチュニックにジーンズという姿が、とてもお似合いの美波さん。そんな彼女の『影』の部分を、垣間見た気がした。
人生とは色々だ。それは私だって然り、だ。
何気なくすれ違う人や、いつも幸せそうな顔をしている人にだって、きっと数々のドラマがある。
くるくる回る、みんなの人生。辿り着く先に、幸せがあるといいのに。
強く、そう願ってしまう。
**
部屋に戻り、ベッドの脇で充電している携帯を手に取った。
アドレス帳を開き、彼の名前を見つめる。すると、彼と過ごした時間が、ふつふつと走馬灯のように甦ってきた。
美波さんとは違う、私の『影』。楽しい時間も沢山あったはずなのに、一つの大きな嘘の為に全てが悲しい思い出に変わってしまった。何か一つでも違ったら、今頃私は、こんな風に過去を思い出して辛い気持ちになることはなかったのかな。
考えても仕方ないのは、よくわかっている。全ては終ったことだ。それなのにこうして思い出してしまうのは、やっぱりまだ未練が残っているからなのかな。
「ないない。未練じゃない」
首を横に振り、自分に言い聞かせる。
このまま部屋にいると、どうしても色々思い出してしまう気がして、私は部屋から出ることにした。せっかく新しい生活を始めたのに、彼との思い出を一人で思い出しながら浸るのは嫌だ。
上着を羽織り、息の詰まりそうな部屋を出る。そして外の空気を大きく吸い込んで、ツクツクと嫌な音を立てる胸を押さえながら閉じた扉に寄りかかった。
「何処に行こうかな」
別に行きたいところなんて、何処もない。当てもなく彷徨うのも、楽しいかもしれない。今日は携帯もちゃんと持っているし、迷子になることもないだろう。
この前の迷子になった日、律が迎えにきてくれたことに感動した私。あの日から、少しずつ自分の中で、律という存在が大きくなっている気がする。でも、相手は年下だ。しかも学生。私になんて、目もくれないだろう。
律の顔を思い浮かべながら、ほんのちょっぴり、ズキズキと胸が痛むのがわかる。これが何の感情なのかはよくわからないけれど、とにかくチクチク痛むのだ。
「律なんて別に、好きじゃない」
よくわからない感情を忘れようと、私は前に歩き出す。
本当は気付いてるくせに。
この感情の正体を、ただ認めたくないだけ。




