16話 鳴り響く鼓動
帰り道に春を感じながら、すっかり良い気分でアパートに辿り着いた。
階段を昇り、バッグから鍵を取り出す。そして鍵を扉に差し込んだ瞬間、夜中だというのにバンッと凄く大きな音がした。その音にびっくりした私は、思わずバッグを胸に抱きかかえたまま目を閉じ、その場にしゃがみこんだ。
「おっせーんだよ!」
先ほどの大きな音とは違うが、物凄い大きな声で怒声を発する男。それは私の隣人、律だ。
「アンタ、俺がどんだけ待ったと思ってんだ!」
「は、はぁ? なんで私がいちいち、律に帰宅時間を教えなきゃならないのよ」
律に口答えした私は、ようやく今の時間に気がついた。
今はもう、真夜中。利人さんやおたえさん、美波さんも眠っている時間だろう。慌てて片手で口を押さえ、もう片方の手で律を部屋に引っ張り込んだ。
強引に律を部屋に入れ扉を閉めた私は、その場で律を睨みつける。
「こんな夜中に、そんな大きな声出さないでよ! 近所迷惑でしょ」
「あ……」
「やばい」という顔をして、律は口を押さえた。いやいや、もう手遅れですよ。
でも、律もちゃんとわかっているようだ。他の人に迷惑をかけてはいけない、と。それならなぜ、私には迷惑をかけるんだ!
せっかくの良い気分が、すっかり削がれてしまった私は、溜息を吐きながら靴を脱ぎ捨て部屋に上がる。すると、律も同じように部屋に上がりこんできた。
「ちょっとちょっと、こんな時間に何よ」
「自分から手を引いて部屋に引きずり込んだくせに」
「うっ」
言い返せないのがムカつく。
でも、さっきは律の大声が部屋に引きずり込んだ原因だということを、わかっていただきたい。
反論しようとしたが、やめた。ああ言えばこう言う、律はそんな男だ。必要以上に体力を消耗するのはいただけない。諦めた私は、コートを脱ぎながら律に聞いた。
「で? 何の用なの」
私が律に背を向けていたのが悪かった。律の方を振り向いた頃には、すっかり寛いでいるではないか!
「ここはアンタの部屋じゃなーい!」
卓袱台をひっくり返すが如く、律がお尻に敷いている私のお気に入りのクッションをひっくり返した。そして律が転がる……その拍子に、床に頭を打った様子を見てしまった。
律が悪い。
一切同情せずに、私は律を見下ろした。すると、律がゆらりと起き上がったのと同時に、別に戦えもしないというのにファイティングポーズをとる私。
絶対何か言われる、筈だ!
色んなことを覚悟しながら、律の動きを見ていた。でも、律は別に私に怒鳴りつけたり殴ったりせず、ただホッとした顔をしていた。
起き上がった律が手にしているのは、一枚のプリント。それを見つけて、どうやら彼の用事は済んだようだ。
「いや、昨日さ。俺がここで寛いでる時に見てたプリントを忘れたみたいでさ。今度の授業で使うから探してたんだわ」
ぴらり、と見せてくれたプリントは、訳のわからない暗号にしか読めず、私には到底理解できないようだ。
「アンタにはわかんないだろ? 馬鹿っぽいもんな!」
本当に、その口縫い付けてやろうか。
確かに私は馬鹿だけど、それでもちゃんと生活できる自立した女だ。とことん私を見下す律に、腹が立つ。
「じゃ、これで用はすんだから……て、アンタ何してんの」
「え?」
私の手には針と糸があり、目の前には律がいる。本気で律の口を塞いでやろうと思って、バッグにひそませているソーイングセットを取り出したのだ。
しかも無意識だった。危ない、私!
そそくさとソーイングセットをしまい、必死で笑顔を作る私の目の前に、律が鼻を近づけてクンクンと犬のように匂いを嗅ぎだした。
「やっぱり! アンタ酒飲んできたのか」
「え。ああ、うん。友哉くんのお店に行ってきたんだ」
「友哉さんの?」
「そう。一度バーって行ってみたくて、今日行ったんだ」
「あー……そう」
あまりにもそっけない返事を貰い、私は首を傾げた。
なんで突然、そんなに機嫌悪そうになるの? あ、もしかしてヤキモチだったりして。
本当は、律にそう言ってやろうかと思った。だって律の慌てた顔とか見れたら、面白いと思ったんだもん。でも、私は次の瞬間、思い出してしまった。
今朝の夢。律からされた、告白の夢。
それを思い出した途端、律の顔を見る事が出来なくなり、私は一人で慌てだした。そんな私の不審な動きに、律が何度も私の顔を覗き込む。
おーねーがーいー。どうか私をほっといて、自分の部屋に戻ってくれ!
心で叫んだ私の願いを律にわからせたくて、顔を背けながら手のひらで念力を送ってみる。
「頭でも打ったのか、アンタ。何してんだ」
「これは……ストレッチの一環で」
律から目を反らしたまま、私はおかしな恰好のまま止まっていた。
何の、一体何のストレッチなんだ!
自らツッコミをいれ、急に恥ずかしさが溢れ出す。終ってる……私、色々終ってる!
こんな私を変に思った律は少し呆れてしまったのか、それとも同情してくれたのかわからないけれど、一つ頭にポンッと手を置いて、何も言わずに部屋を出て行った。
バクバクと鳴り響く胸の音が、どうか律に伝わっていませんように。