12話 利人
私の顎を掴んだまま正論を発する律の口元が、苦痛に歪む。
私が「大丈夫」と何かにつけて言う事が、彼の過去の自分の姿と重なると言う。それがどういうことなのか、律はそれ以上は語らない。
指先が食い込むくらい力強く掴まれていた顎が、ゆっくりと解放された頃には、いつもの律の顔に戻っていた。
「変な顔だったな」
口端を持ち上げ、ニヒルな笑みを浮かべる律。それはさっきまでの苦痛に歪んだ表情なんかじゃなく、いつもの人を小馬鹿にする時の表情だ。
「なっ……それは律が掴んだからでしょ!?」
「掴まなくても変な顔だけど」
最後まで憎まれ口を叩き、ようやく腰を上げた律はそのまま玄関に向かう。靴を履き扉を開け、最後にもうひと言添えて不敵に笑った。
「ほっぺは柔らかかった」
ぱたん、と静かに扉がしまり、私はただ呆然とその様子を眺めることしか出来なかった。
そしてようやく我に返り、自分のほっぺを両手で覆った。
柔らかいって、柔らかいって! 何言ってるんだー!
かーっと全身が熱くなるのがわかるほど、私は恥ずかしさでいっぱいになる。
最後に不敵に微笑んだ律の顔が、その日は頭から離れないまま眠れぬ夜を過ごすことになってしまったのだった。
朝、鏡に映った私の顔は、それはそれは酷いものだった。
「クマができてる……」
目の下にどっしりとクマが出来、コンシーラーでも上手く隠せるか不安なくらい。そんな顔でも今日は仕事だ。がっちり顔を作らなくちゃいけない。
目覚めのシャワーを浴びてから化粧をしたが、どうにも上手く隠せない。厚塗り過ぎると老けて見えるし、かといって薄すぎればクマの存在はバッチリわかってしまう。
「これも全て、律のせいだ」
恨みがましく呟きながら、化粧を終らせた。もう、これでいい。
開き直った私は、そのまま着替えて仕事に向かったのだった。
職場に着き、早々にクマのことは指摘された。「酷い」だの「ブス」だの、ええい! 黙れぃ!
クマのことには触れてくれるな、と云わんばかりに私は受付の仕事を淡々とこなすしか出来ない。もう、今日は一日、クマが酷い顔で、ジムの会員に笑顔を振りまく覚悟で仕事に臨んだ。
その日は一日、気さくに話しかけてくれる会員さんにまでクマを指摘され、酷いときには爆笑までされた。
はいはい、私を見て笑うがいいわ。
最後にはこんな感じで、己を捨てて笑顔を振りまいていた。もうヤケになっていたのだ。でも、そんな私の元に、こんな顔を見られたくない相手が来るなんて、この時は想像すらしていなかった。
「やぁ、めぐみさん。もう仕事は終わるのでしょうか?」
「りっ」
利人さん! と言いたかった。でも、すぐに自分の目の下の酷いクマのことを思い出し、利人さんの名前を叫ぶ前に顔を反らした。
「おや、どうかしたのですか?」
「いえっ! なんでもないんですけど」
テンパっています、私。
あまりにも不自然に顔を反らす私を、追うように覗き込む利人さん。その間は、僅か数十センチほど。
か……顔、顔が近いですから!
綺麗な利人さんの顔と並ぶのは、今だけは勘弁だ。しかし、意外にも利人さんの押しは強い。ぐいぐいと顔を近づけて、最終的に私が負けた。
「おや、昨夜は眠れなかったのでしょうか」
「うう、見ないでやってくださいまし……」
もはやいつの時代の人間なのかも不明な喋り方。きっと利人さんも呆れちゃう。
しかし彼はクマのことなど気にせずに、私の肩にぽん、と優しく手を置いた。
「めぐみさん、うちへいらっしゃい。心が休まるハーブティーを淹れてさしあげましょう。きっとリラックスできますよ」
きらりーん、と効果音が出そうなほど煌びやかな笑顔を向けて、入り口で待っている、と言い残しジムから出て行った。
その後、すぐに仕事は終わったのだけど、入り口で待っている利人さんの周りにうじゃうじゃと女が群がっている。砂糖を求めて集まった、アリの大群のようにも見える。
利人さんが……危険!
なんて思っても、そのアリの大群を蹴散らすような度胸は無い。女の怖さは、よく知ってますから。
ちょっと遠い所でその様子を見ていた私を、利人さんはまるで全てを知っているかのように見つけ出し、そそくさとアリの大群から抜け出してきた。しかし、アリ共は何とか利人さんをこの場に留めようと必死だ。そこで利人さんが、一気にその場を静めるのだった。
「皆さん、楽しいひと時をありがとうございます。でも私は家で待っている祖母のもとへ帰らなくてはなりませんので……またお会いしましょう? 寒いですからお体を大切に」
音楽を奏でているかのような声で、アリたちがうっとりしながら首を縦に振る。あれは何かの呪文だろうか。
そんな利人さんを見ていたら、この人が一番、女の敵であるような気がしてならない。なのに……! 私も彼の呪文の生贄の一人になりそうだ。利人さんったら、恐ろしい男!