1話 新居
くるくる、まわれ。私の人生、くるくるまわれ。
悲しい経験は全て忘れて、新しい私の人生を始めよう。
くるくる、くるくる。良いほうに転がっておくれ。
ただ全てを忘れてしまいたくて、ここには居場所がなくて、少しの荷物だけを持って家を飛び出した。
誰も知らない自分を知らない場所へと向かったけれど、あまり遠いところには行けなくて。自分の弱さを思い知る。
親に、友人に、恋人に、自分の居場所を知られたくなくて、ひっそりと今住んでいる家から引っ越したのだ。
***
まだ肌寒さの残る三月の日曜日、新しい家に引っ越してきた。そこはまだ真新しいアパートで、新築特有の匂いがする。
南欧風の建物は部屋数がたった四つという少なさで、最上階の三階は大家さんが住んでいる。
最初にこのアパートに引っ越してきたのは、私、戸塚めぐみだ。私の部屋は二○二号。
引越し業者が次々と荷物を部屋に運びいれ、私はあれはこっち、これはこっちと指示を出す。元々荷物は多くないので、引越しはあっという間に終了した。あとは細々した物を整頓すればいいだけだ。
数個のダンボールのガムテープを一気に引き剥がし、中身を部屋にあるクローゼットにしまっていく。八帖という広さの部屋には似つかわしくないほど大きなクローゼットがあり、キッチンとお風呂トイレがある。まぁ、ワンルームだけど一人暮らしには丁度良い広さだと思う。広いと掃除も大変だし、それに……寂しいから。
ある程度片付け終わったところで玄関の扉を、とんとん、と叩く音がする。インターホンがあるというのに、なぜノックなんだ。引越し作業でくたくたなのに、扉の向こうの人を無視するわけにもいかず、私は重い腰を上げた。
「はい」
扉を開くと、そこに立っていたのは……ん!? 王子様ですか!? と、うっかり言ってしまいそうなほどの美しい男性だった。
「こんにちは。少し、よろしいですか?」
にこり、と美麗な微笑みを浮かべる男性は、前に一度会った事がある。何度会っても、この人の王子様オーラは健在だ。
彼の名は美影利人、このアパートの大家さん。
「大家さん、お久し振りです」
「大家さんだなんて、寂しいので名前でどうぞ呼んでくださいね? めぐみさん」
ま、まぶしい。きらきらした笑顔を振りまいてはいけません! 無駄にフェロモンを垂れ流さないように、何卒お願いします!
太陽を浴びてキラキラ光る栗色の髪は肩に届くほど長く、優しく細められた瞳は、開くと驚くほど力強い。すらりと通った鼻筋に口角が上がった薄い唇。全体的に色白だけど、背は百八十以上あると思う。頭の上に王冠を載せたら、ほーら! 王子様の出来上がり! ……冗談はここまでにしよう。
「えっと、美影さん、でいいですか?」
「美影、だと私の祖母も美影なので被ってしまいます。どうぞ『利人』お呼びくださいね」
美影、いや。利人さんはお祖母さんと二人暮らし。詳しいことは知らないけれど、利人さんはずっとお祖母さんと二人だと言っていた。お祖父さんは十年くらい前に亡くなってしまったらしく、以来ずっと二人で暮らしている。お祖母さんは「たえさん」と言って、いつもにこにこしている小さくて可愛いおばあちゃんだ。その人のことは「おたえさん」と呼ぶことになっている。
ん? だったら別に利人さんと呼ばなくてもいいような気がするけど……まぁ、いっか。
このアパートに越してくる際、大家さんに一度会っている。ここは部屋数も少ないし、最上階には自分達が住むので住人のことを知っておきたい、というのが大家さんの言い分だった。そんなわけで、どういう経緯でここに越してくることになったのかとお話をしたのだ。
だから、利人さんは私がここに越してきた理由も知っている。
「めぐみさん、どうですか? 荷解きは終わりそうですか?」
利人さんの神々しい微笑みに一瞬言葉を失いかけたけれど、変な女だと思われてはいけない。私は同じように、にこりと微笑み返して返事をした。
「はい。荷物もそんなに多くはないので、もう少しで終わりそうです」
「そうですか。よかったらお手伝いさせていただこうかと思ったのですが」
「いえいえ。利人さんの手を煩わせるわけにはいきませんので!」
白く長い指は、手タレかと思うくらい美しい。そんな美しい手に、傷なんてつけた日には……自分を呪い殺してしまう。
見れば見るほど素敵な男性の利人さんは、まさに理想の男性像そのものだ。
男臭い男性は実はちょっと苦手。なんとなくこう、少し清潔感溢れる感じの男性が好きな私は、利人さんにすっかり心を奪われていた。
これからの生活が、楽しみだ! なんて浮かれていると、一台の引越しトラックが騒々しい騒音を立てながらマンションの敷地内に止まった。
「おや。また入居者の方がいらっしゃったようですね」
二階廊下から外を見ると、トラックの後方から物凄い音を立てて敷地内にやってくるバイクが見える。そしてその五月蝿いエンジン音が静かになり、バイクに跨っていた男性がフルフェイスのヘルメットを軽やかに脱いだ。
きらりと光る金髪にグレーの瞳。真っ黒なライダースジャケットにオレンジのマフラーを巻いている。
利人さんと並んでバイクの男性を見ていたら、私達の視線に気がついたのだろう。下にいる男性の目線がゆっくりと上がってきた。
「あ。こんにちはー! 俺、今日からここの一○一号室にお世話になります、立花友哉っていいます。宜しくお願いします!」
見た目は怖そうな感じだけれど、笑った顔は向日葵みたい。人を惹きつける笑顔をするんだなぁ、というのが私の第一印象だ。
気がついたら隣にいた利人さんはいつのまにか消えていて、下にいる男性の横にすでに立っていた。私も慌てて下に降りていったが、別に私が急ぐ必要はない。同じアパートの住人として挨拶するくらいなら、引越しの邪魔にはならないだろうか。そう思って、ひとつ咳払いをして階段を静かに降りていったのだった。