第21話 一番言いにくい悪口
「私の妻、の前に」
ロラン様は、私の言葉をゆっくり繰り返した。
「ええ」
私は頷いた。
言わせようとしている。
そう思うと恥ずかしかったけれど、もう引っ込めたくなかった。
「私からでもいいです」
彼が私の手を握った。
「いえ」
私は黙った。
彼は目を伏せ、それからもう一度、私を見た。
「愛している、私の妻です」
雨の音が急に遠くなった。
何度も想像した言葉なのに、聞くと何も返せなくなる。
私は彼の指を握り返した。
「……随分と、待ちました」
「すみません」
「寝た振りも、したのですよ」
「知っています」
「知っていたの?」
「呼吸が、あまりに規則正しかったので」
私は彼の肩を軽く叩いた。
彼が笑った。その目元が、いつもより困っている。
「起きている貴女に言いたかった。でも、起きている貴女を見ると、別のことをしてしまう」
「お口の使い方がお上手なので」
「そうとは思えません」
彼は私の手へ唇を触れた。
「愛しています、ヴィヴィアン」
二度目は、名前が付いていた。
私は息を吸った。
「私も、貴方を愛しています」
彼の顔が変わった。
大きく笑ったわけではない。けれど目が、声より先に近づいてきた。
「ロラン様を」
私も名前を付け足した。
「念のために」
「ありがとうございます」
彼は私を抱き締めた。
私は彼の肩に顔を埋めた。嬉しくて、苦しくて、少し腹が立った。
「こんなにお話ししてきたのに」
「ええ」
「一番短いことを、いつまでも」
「貴女も、言いませんでした」
私は顔を上げた。
「悪いのは半分ずつ?」
「できれば」
「お菓子と同じにしないでください」
彼が笑った。
私はその笑顔へ口づけた。
今度は、言葉から逃げるためではなかった。
*
朝、目を覚ますと、彼が私を見ていた。
「数えています?」
「いえ」
「では、何を」
「昨日のことを、思い出していました」
私は枕を少し引き寄せた。
「忘れていただいても」
「お断りします」
返事が早かった。
「貴女の方は?」
「忘れません」
「では、何よりです」
彼が私の髪を指へ巻いた。私はその手を取って、頬の下に置いた。
朝の光に、彼の寝癖が見えた。
今日は右側が跳ねている。
「おはようございます。愛している、私の旦那様」
言い終わる前に恥ずかしくなった。
彼は動かなかった。
それから、片手で顔を覆った。
「貴女は、本当に」
「何ですか」
「容赦がない」
私は笑った。
こういう顔を見られるなら、もっと早く言えばよかった。
彼が手を下ろした時、私の方も同じ顔をしていたと思う。
朝食へ下りると、ニナがいつもどおり挨拶した。
いつもどおりなのが、不思議だった。
昨夜、世界の一部分が変わった気がしたのに、パンは焼かれ、茶は注がれ、ドンは私の足を狙っている。
ロラン様が隣へ座った。
今までは向かいだったので、バジルが一瞬だけ止まった。
「こちらへ」
彼が自分の皿を示す。
執事は静かに移した。
「何か、不都合が?」
私が小声で聞いた。
「遠かったので」
私は茶を飲む前でよかったと思った。
彼は何事もない顔でパンを取った。
その横顔へ、少し仕返しがしたくなる。
「お話しするには、近すぎません?」
「小声でどうぞ」
私は彼の方へ少し傾いた。
「昨夜の続きを?」
彼がパンを置いた。
バジルは窓を見た。
私は今日は勝ったと思った。
*
勝ったままでは、終わらなかった。
午前中、ロラン様の書斎へ本を取りに行くと、彼が私を呼んだ。
「ヴィヴィアン」
「はい」
「こちらへ」
私は机の前まで行った。
彼は手紙を書いていた。仕事中の声だったので、何か尋ねられると思った。
「愛しています」
筆を置かずに言った。
私は本を落としかけた。
「お仕事は?」
「しています」
「集中してください」
「できるだけ」
私は彼の手から筆を取った。
「何をなさるのです」
「お口を塞ぐつもりです」
「それは仕事が遅れますね」
彼は少しも困っていない顔をした。
私が屈むと、彼の手が腰へ来た。机の角にぶつからないよう、先に引き寄せられる。
口づけの後、私は額を彼の額へつけた。
「ずるい方」
「妻に覚えました」
「教えた覚えはありません」
「熱心な生徒ですので」
私は笑って、もう一度口づけた。
その午後に届いた伯母の手紙は、前ほど恐ろしくなかった。
厳しい言葉が並んでいた。
家族の善意を利用したこと。
人前で年長者を恥じさせたこと。
今後、社交の場で助けを期待しないようにということ。
私は最後まで読み、机へ置いた。
ロラン様は、私の顔だけを見ていた。
「どうします」
「お返事は、明日考えます」
「ええ」
「今日は、貴方と出かけたいです」
彼が少し驚いた。
「どちらへ?」
「どこでも。私が好きな方と歩いていると、分かる場所へ」
彼は立ち上がった。
「では、外套を」
「お仕事は?」
「帰ってから、できるところまで」
私は彼を見た。
特別な日に、特別な扱いをしてくれる。
それを無理にいつものことへ戻さなくてもよかった。
*
並木道の葉が、足元で音を立てた。
私たちは手を繋いで歩いた。
見知った人とすれ違えば挨拶し、知らない人には道を空けた。それだけのことなのに、私はずっと浮かれていた。
「何か買いますか」
ロラン様が、道沿いの店を示した。
「甘いものなら」
「先ほども」
「貴方も半分」
「責任が重いですね」
店先で小さな包みを二つ買った。焼いた栗に蜜を薄く絡めたものだった。
私は一つ取り出して口へ運んだ。
熱くて、思わず手を振る。
彼が私の手首を掴んだ。
「急がなくても、なくなりません」
「分かっています」
「そうは見えません」
私は口の中が落ち着くのを待ってから、彼を見た。
「貴方は、そうやって落ち着いていれば格好がつきますから」
「落ち着いて見えますか」
「ええ」
彼は私の手を自分の胸へ当てた。
外套越しでも、早いのが分かった。
私は黙った。
「貴女が、ずっと楽しそうなので」
私は彼を見上げた。
人通りのある道だった。
でも、周りへ見せたいと望んだのは、私だった。
「愛しています」
小さく言った。
彼が笑った。
「ええ。私も」
今度は、すぐ返ってきた。
それだけで、冷たい風まで気持ちよかった。
帰り道、私は栗を一つだけ残した。
「お祖父様へ?」
彼が尋ねた。
「いいえ。貴方へ」
「私は、まだ持っています」
「では、私にもください」
彼は自分の包みから一つ取り出した。
私たちは歩きながら交換した。
同じ店の、同じものだった。
それでも、渡された方が少しだけ甘い気がした。




