第1話 街へ出たら、傷だらけの男がいた
こちらは再掲載版です。
第一巻は全40話完結済みです。
初めての投稿でしたので、読みやすさを意識し、話数の区切りや改行を一部見直しています。
改めて、どうぞよろしくお願いいたします。
研究棟の朝は、いつも少しだけ焦げ臭い。
窓の隙間から入り込む風には、まだ冬の冷たさが残っていた。
王都を見下ろす丘の上では、日の出より先に実験の煙が上がることも珍しくなかった。
有紗が廊下へ出ると、奥の実験室から細い煙が流れてきていた。鼻をひくつかせ、そのまま扉を開ける。
「紫音くん。また何か燃やした?」
「燃えたのではなく、反応しただけです」
机の向こうで、紫音は書類から顔も上げずに答えた。
机には開いた本と計算紙、それから昨夜置いたままらしい冷めた茶が並んでいる。窓の外はもう明るいのに、燭台の火だけがまだ残されていた。
「寝てないでしょう」
「少しは寝ました」
「少しって?」
「二時間ほど」
「それは寝たって言わないよ」
有紗が冷え切った茶器を取り上げたところで、玄関の扉が勢いよく開いた。
「おはようございます。お二人とも、今日はきちんと朝食を召し上がりましたか?」
返事を待たず、大きな籠を抱えたリネットが入ってくる。
紫音は書類へ目を落としたまま、動こうとしない。
リネットはその姿を一目見て、静かに息を吐いた。
「紫音博士」
「今、重要なところです」
「昨日も同じことをおっしゃっていました」
籠から焼きたてのバターロールと瓶詰めの果実ジャムを取り出し、研究机の空いている場所へ並べていく。
「研究資料の横で食事をしないでください」
「ここ以外に置く場所がありません」
「片づければございます」
いつものやり取りだった。
有紗は笑いながらパンを一つ取り、半分に割った。
「はい、紫音くん」
「有紗が食べてください」
「私のはもうあるもん」
押しつけるように手渡すと、紫音はようやく筆を置いた。
リネットは満足そうに頷き、それから思い出したように一通の封筒を取り出した。
「そうでした。有紗様、本日は街へ行かれますか?」
「行きたい」
「まだ用件を申し上げておりませんよ」
「でも、街でしょう?」
紫音の視線がすぐに上がった。
「一人では行かせません」
「市場までだよ?」
「距離の問題ではありません」
「紫音博士。薬舗と市場は同じ通りですし、昼までにはお戻りになれるかと」
リネットは二人の間へ封筒を差し出した。
「薬舗へ、こちらを届けていただきたいのです。シンシア様が次にいらした時に使う材料だそうで」
「シンシア、今月も来るの?」
「予定では、あと四日ほどで」
有紗は封筒を受け取り、表に書かれた細かな文字を眺めた。
「また難しいものを作ってるのかな」
「シンシア様が簡単なものを作っていたことがございましたか?」
「ないかも」
「寄り道をしないこと。昼までに戻ること。それが条件です」
「分かってるよ」
「本当に分かっていますか?」
「分かってるってば」
◇
昼前の街は、人と荷車で溢れていた。
研究棟の静けさとは違い、あちこちから声が飛び交っている。焼いた肉の匂い。色鮮やかな果物。石畳を叩く馬の蹄。
薬舗への届け物を終えた有紗は、行き交う人々を避けながら、夕食の食材を買うため、市場へ向かっていた。
その時、路地の奥で何かが倒れる音がした。
周囲の人々は一度だけ視線を向け、それから何事もなかったように通り過ぎていく。
有紗だけが足を止めた。
薄暗い路地の奥に、一人の男がいた。
黒い衣服。乱れた髪。石壁に預けた腕から、血が滴り落ちている。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。
鋭い目が一瞬だけ有紗を捉える。
けれど、男は何も答えなかった。
壁に手をついて立ち上がり、そのまま有紗の横を通り過ぎようとする。
「待ってください」
男は足を止めない。
「怪我してますよ」
「……」
「そのまま行ったら駄目です」
有紗が後を追うと、男はようやく振り返った。
「ついてくるな」
「でも」
「お前には関係ない」
「あります」
「ないだろ」
「あります」
男の眉間に皺が寄った。
「何があるんだ」
「だって、ここで放っておいたら――」
有紗は胸の前で両手を握りしめた。
「ずっと、あなたのことが気になっちゃうもん……」
男が固まった。
頬に、ほんのわずかに赤みが差す。
「……誰にでも、すぐそんなこと言うのか」
「え?」
「今みたいなことだ」
有紗は自分の言葉を、頭の中でもう一度なぞった。
ずっと、あなたのことが気になっちゃう。
意味に気づいた瞬間、有紗の顔まで一気に熱くなる。
「ち、違うの!」
「何が」
「そういう意味じゃなくて……! 怪我したままどこかへ行っちゃったら、倒れてないかなとか、ちゃんと手当てできたかなとか……ずっと心配になるって意味で……!」
「だから、同じだろ」
「全然違います!」
有紗が真っ赤になって否定すると、男は気まずそうに顔を背けた。
けれど、もう立ち去ろうとはしなかった。
「傷、見せてください」
有紗は返事を待たず、血の滲む腕へ手を伸ばした。
触れる直前、その手首を掴まれる。
「さわるな」
「治すんです」
「……お前が?」
「はい」
男が訝しげに眉を寄せる。
有紗は掴まれたまま、もう片方の手を傷口へ添えた。
白金の光が、指先から静かに広がる。
「……っ」
男の腕から力が抜けた。
裂けた皮膚がゆっくりと塞がり、流れていた血が止まる。焼けるような痛みが、柔らかな温もりへ変わっていった。
「これで大丈夫です」
有紗が顔を上げると、男は傷ではなく、有紗を見ていた。
「……何者だ、お前」
「有紗です」
「名前を聞いたんじゃない」
「でも、まだあなたの名前を聞いてません」
男はしばらく黙ったあと、諦めたように息を吐いた。
「……シャロウ」
「シャロウ」
有紗が確かめるように繰り返す。
その直後、シャロウの身体がふらりと傾いた。
「わっ……!」
有紗は咄嗟に腕を掴んだ。
「やっぱり大丈夫じゃない!」
「傷は治った」
「でも、今倒れそうでした」
「倒れてない」
「倒れかけました」
シャロウは腕を振りほどこうとしたが、先ほどまでより明らかに力が入っていない。
「研究棟へ行きましょう」
「行かない」
「行きます」
「勝手に決めるな」
「このまま放っておけません」
有紗がきっぱりと言うと、シャロウは何かを言い返そうとして――やめた。
「少し休むだけだから」
「……少しだけだ」
「うん」
有紗は嬉しそうに頷いた。
シャロウはその笑顔を見て、わずかに眉を寄せた。
本来なら、研究棟までついていく必要はなかった。
自分でどうにかすると言えば、それで済んだ。
だが、説明するのも億劫だった。
坂道へ差しかかると、シャロウの歩みが鈍った。
「休みますか?」
「いらない」
「でも」
「……研究棟は、この上だったな」
「うん」
「そうかよ」
坂を上るにつれ、シャロウの足取りは目に見えて鈍くなった。
有紗が歩調を緩めると、彼は何も言わず、それでも立ち止まることだけはしなかった。
研究棟の扉を開けた瞬間、紫音の顔から表情が消えた。
「有紗」
「ただいま、紫音くん」
「その男は誰ですか」
「シャロウです」
「名前ではなく、なぜ連れて帰ってきたのかを聞いています」
「怪我をしてたから」
有紗の後ろに立つシャロウを、紫音は頭から足元まで静かに見た。
「傷なら、すでに治っているようですが」
「でも、倒れそうなの」
「倒れてない」
背後からシャロウが訂正する。
その時、奥の部屋からリネットが顔を出した。
「有紗様、お帰りなさ――」
彼女の視線がシャロウで止まる。
「……街へお使いに行かれたのでは?」
「行ったよ。薬舗には届けたの」
「市場の買い物は?」
「……まだです」
「それで、どうして男性をお持ち帰りになったのです?」
「持ち帰ってないです!」
「俺も持ち帰られてない」
二人の声が重なった。
リネットは何も言わず、紫音を見た。
紫音は小さく息を吐くと、シャロウへ診察室の椅子を示した。
「座ってください」
「必要ない」
「必要があるかどうかは、こちらで判断します」
シャロウは露骨に嫌そうな顔をしたが、有紗にじっと見つめられ、諦めたように椅子へ腰を下ろした。
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