第四話:無垢なる怪物
このエデンにおいて、「教師」という職業は一種の贅沢品である。
知識の伝達や学習管理はAIが完璧にこなすため、実務上の必要性はない。
ならばなぜ彼らが存在するのか。それはAIの「ゼロイチ」の回答では救いきれない、生徒たちのメンタルヘルスをケアするためだ。学業における焦燥、友人関係の軋轢――それらを人間独自の「共感」で解決し、学習効率を最大化させる。ヤリスはその分野において、学園で最も高いスコアを叩き出す優秀な「調整者」だった。
翌日。ルナとワクは、ミカに連れられて学園の特別カウンセリングルームを訪れた。
そこにいたのは、非の打ち所がないほど完璧な「教師」だった。ヤリスは穏やかな微笑みを湛え、二人を温かく迎え入れた。
「やあ、ミカさんが言っていたお友達ですね。……ルナさん、それにワクくん。お会いできて光栄です」
ルナは、目の前の男を凝視した。エヴァから聞いた行方不明者たちのリスト。あの絶望的なメッセージの宛先。しかし、ヤリスの周囲には、ワクが粉砕してきたような「魔」の予兆が微塵も感じられない。
「先生……単刀直入に伺います。最近、消えてしまった生徒たちが、最期にあなたへメッセージを送ろうとしていました。彼女たちと、何があったんですか?」
ルナの問いに、ヤリスは悲しげに瞳を伏せた。
「……ああ、彼女たちのことですね。本当に、残念でした。私はただ、彼女たちの悩みを肯定し、成績向上のための障害を取り除いてあげただけなんです。ですが、彼女たちは私の善意を過剰に受け取り……私への執念を、システムが異常な愛執と判断した。私は学園のルールに従い、彼女たちの自立のためにミュート(遮断)せざるを得なかったんです。それ以降の彼女たちの足取り……それは私には分かりません」
「あなたが彼女たちを突き放したから、彼女たちは絶望して消えたんじゃないんですか!?」
ヤリスは静かに首を振った。
「いいえ、ルナさん。もし彼女たちが消えたのだとすれば、それは彼女たちの『心』がエデンのシステムに耐えられなかったからです。私は何も悪いことはしていません。……そうでしょう? あなたは『悪意』が見えるそうですね?私に『悪意』は映っていますか?」
ワクが冷徹な瞳でヤリスを見据える。だが、警棒を握る手に力は入らない。
「……ルナ、お前も分かるだろう。魔の反応、ゼロだ。……何も存在しない。この男は、自分が『善』だと定義している」
ヤリスは自らの行為を救済だと信じている。ゆえに、システムもワクの目も、彼を犯人として検知できないのだ。
ヤリスに証拠はない。彼はただ、相手が望む言葉を与え、相手が勝手に依存し、壊れていくのを眺めていただけなのだ。
やりきれない思いでルームを後にするルナたち。だがその際、ヤリスはミカの肩にそっと手を置いた。
「ミカさん。……君の友達は、少し正義感が強すぎるようだ。……疲れた時は、いつでもここへおいで。君がより優れた市民になれるよう、私がもっと綺麗に……悩みを漂白してあげよう」
「あ、は、はい……ありがとうございます、先生」
ミカは頬を染めて微笑むが、その指先が、微かに震えているのをルナは見逃さなかった。
放課後。
ルナたちはヒナコから、ミカが一人でヤリスの元へ向かったと聞かされる。
「まずい……あいつ、ミカを喰うつもりだ!」
ルナたちがカウンセリングルームへ急行するが、その扉は固く閉ざされていた。ルーム内は「高度なプライバシー保護」により、視覚設定以外のすべてがミュートされ、物理的な突入もシステムによって弾かれる。
遮断された壁の向こう側。そこには、エデン内で許可された高純度のアロマが焚かれ、甘い香りが充満していた。
「……いいですか、ミカさん。君を縛る不安も、雑音も、すべて忘れていいんです。君を本当に理解しているのは、私だけだ……」
ヤリスがミカの耳元で、催眠術のような一定の律動で囁く。それは言葉による暗示。アロマで緩んだ意識の隙間に、自分という存在を上書きしていく。
ミカの瞳が虚ろになり、意識がヤリスの望む色に染まりかける。
「さあ、ミカさん。言いなさい。……私を愛していると。君のすべてを、私に預けると」
ヤリスが勝利を確信し、ミカの精神への完全なアクセス権(承認)を要求した、その時。
「……嫌。……私には、好きな人がいるの」
ミカの口から漏れたのは、細い、けれど鋼のように硬い拒絶だった。
完璧に組み上げられた暗示の迷宮を、ミカの中に存在する「誰か」への純粋な愛が、内側から爆破したのだ。
「……何? ……なぜだ。君の意識は今、完全に私と……」
ヤリスの完璧な仮面に、初めてピキリと亀裂が入った。
「……誰だそいつは。このエデンに、私以上のリソースを持つ個体など……」
ヤリスのプライドが、音を立てて崩れ落ちた。




