王太子は今日も婚約者に惚れ直す
今、エルディア国の第一王子であるアルシオンは、とある一点に羨望の眼差しを向けていた。
「なあ、婚約者が皆に慕われているのは大いに結構なんだが」
アルシオンはそう言って小さく息を吐くと、隣に座る側近の男にぼそりと続きを漏らす。
「それにしたって俺のノアの人気はすさまじすぎる」
その言葉に、側近、もといザリアデル公爵家嫡男のジェルスは、冷ややかな声で返す。
「それはつまり、ご自身より人気があって羨ましいということですか?」
「……そうじゃない。確かに彼女ほどじゃないにしろ、もう少し俺にも人が群がっても良くないかと思わないでもないが」
金髪碧眼、甘いマスクで頭もよく、性格も極めて真っ当で、いわゆる女子が憧れる王子様像をそのまま具現化したようじゃないか、とアルシオンは自分でそう思っている。
実際彼のその認識は正しく、間違いなく、物語の主人公となれるべき逸材であった。
彼の婚約者────ノア・フローレンス公爵令嬢がいなければ、だが。
アルシオンは複雑な表情で、己の席から、学園のカフェテリアの中心あたりで座ってクラスメイトと談笑するノアを見つめる。
高位貴族の令嬢には珍しく、肩より上で切り揃えられた、光沢のある銀の髪。
切れ長の紫の瞳はアメジストをはめ込んでいると錯覚させられるほどに美しく、鼻筋はすっと通り、その下には形のいい唇が配置されている。
中性的な雰囲気を醸し出し、人間離れしているほど恐ろしく整った顔立ちなのに、笑うとその完璧な美貌が崩れるが、親しみが湧いて逆にさらに彼女の魅力を引き立てる。
身長はアルシオンよりも頭半分ほど低いものの平均的な女性よりは高く、手足も長く、均整の取れた完璧なプロポーションを誇る。
学業では、毎回全ての教科において満点を叩きだすほどの才女。
淑女としての礼儀作法も完璧であるのに、趣味であると豪語する剣の腕は並の人間では太刀打ちできないほどに強い。
性格も、誰に対しても優しく、けれど間違いを犯す者には時に厳しく、どんな相手でも助けを求めてきた者を決して見捨てることもしないし、非常に面倒見もいい。
つまり、全てにおいて完璧で非の打ち所がないのだ。
次期王妃となるのに彼女以上にふさわしい者はいないし、アルシオンもそれは十分理解している。
それでも、彼は僅かな不満を持っていた。
己の上位互換であるノアに嫉妬しているから、ではない。
むしろ、彼女の周囲に群がる生徒たちにである。
「……俺だって、もっとノアと食事を共にしたり、話したり触れたりしたいんだが」
どのような流れでそうなったかは会話が聞こえないので分からないが、ノアに頭を撫でられ赤面する女子生徒に羨ましそうな視線を送りながら、アルシオンは唇を尖らせる。
「大体、ノアの女子人気が高すぎやしないか? 勿論、俺以外の男どもに群がられるよりはよほどいいが」
「男性陣もちらちら視線は送っていますけどね。まあ、それを察知したあなたが、気付く度に牽制しに行った結果、その数も大分減りましたが」
「当たり前だろう!」
普段は綺麗でカッコよくて完璧な公爵家の令嬢、けれどアルシオンの前では可愛いところも見せる、まさに人類の至宝と呼ぶにふさわしいノアに目を奪われる気持ちは分かる。
が、ノアはアルシオンの婚約者である。少しでも不埒な視線を感じたら、権力を前面に押し出して全力に潰しにかかるに決まっている。
ただ、同性の生徒達が彼女に近付いていくのを止めることは、アルシオンにもできなかった。
「仕方がありません。フローレンス嬢は皆の憧れの的ですから。淑女としてもそうですが、あの見た目ですし」
ジェルスの言葉は真実である。
ほとんどが婚約者持ちの女子生徒たちにとって、同性でありながら中性的な見た目のノアは、学園のアイドルとして取り囲んでも問題のない相手だ。各々の婚約者に、浮気しているなどと言われる心配もない。
「ですがいずれは結婚するんですよね? でしたら今は我慢するしかないんじゃないですか?」
「それでも、制服に身を包んだ今この瞬間のノアとできるだけ一緒に過ごしたいという俺の欲望のもって行き場がないから、こうしてジェルスに愚痴っているんだよ」
「なるほど。いい迷惑ですね」
「ジェルスは俺の側近だろう。それくらい付き合え」
「特別手当をいただければいくらでもお付き合い致します。十分あたり一万ルピアでいかがでしょう」
「対価と見合わなさすぎだ。小さな家一つ建つほどの金額を平気で言ってくるあたりがジェルスらしくて恐ろしい」
幼馴染であるジェルスは、一国の王子であるにもかかわらずアルシオンに容赦がない。勿論公の場では側近らしく、きちんと彼を立ててくれるので、歯に衣着せずポンポンと言い合えるジェルスは、アルシオンにとっても貴重な友人である。
たまに優しい言葉をかけてほしい、と思わないこともないが。
と、アルシオンからの熱烈な視線に気が付いたのか、ふっと友人たちから視線を外したノアが彼の方を向く。そしてわずかに目を細めて微笑みかけたではないか。
「ぐっ!」
心臓を射抜かれたアルシオンはジェルスにしか聞こえない大きさで声を上げながら、しかし顔だけは余裕の表情でキラキラしたスマイルを投げかける。
互いに目が合った時間はほんの少しだったが、再び友人たちに視線を戻したノアを見つめながら、アルシオンは感無量という表情でその場に突っ伏した。
「天使、いや女神だ。幸せ過ぎて今すぐに心臓マヒを起こして死んでしまいそうだ」
「そうなればフローレンス嬢はおそらく、第二位の王位継承権をお持ちのあなたの弟君の婚約者になってしまいますが」
「……さっきの言葉は取り消そう」
そして顔を上げたアルシオンは、やはり俺の婚約者は最高だと吐息を漏らしながら、彼女の横顔を再度眺め始める。
すると、いい加減婚約者を覗き見するだけの友人に付き合わされるのが嫌になったのか、ジェルスは眼鏡をくいっとしながら「はぁー」と大きなため息をつく。
「そういえば、来週は久しぶりにフローレンス嬢と二人でお茶会の予定ではありませんでしたか?」
尚もノアを鬱々と、しかし幸せそうに見ていたアルシオンは、その言葉にはっとする。
「そうだったな。お茶会用にノアの好きなお茶やお菓子の手配は終えているが、どうせならノアの趣味に合いそうなカップや皿を探したいと思っていたところだ。よし、今から早速調達に向かうぞ」
ノアと二人きりで過ごせる貴重な時間だ。無論忘れていたわけではないが、準備はまだ完璧ではない。
今日は特に急ぎでやる仕事もないので、色々と調達するのに奔走するには絶好の日だ。
アルシオンが喜色満面でがたっと立ち上がると、その様子を座って見ていたジェルスは優雅に手を振った。
「いってらっしゃい」
「何言ってる、ジェルスも付き合え。人手は多いに越したことはない」
「面倒ですね」
そう答えながらも、ジェルスもアルシオンに続き立ち上がる。
「少なくともここでぼんやり時間が過ぎるのを待つよりは、有意義ですね」
○○○○
「で。なんで俺は見慣れた眼鏡と向かい合って茶を飲まなければならないんだ」
「それは私も同感です」
お茶会当日。
色とりどりのお菓子がセッティングされたテーブルについているのは、アルシオンと、そして己の婚約者よりも一緒にいる時間の長いジェルスだった。
この日の為に、学園の中庭にあるガセボの中でも一番景色のいい場所を抑え、ノアの好みそうな、少し苦みのきいたチョコレートや、最高級の小麦でつくられた口当たりのいいシンプルな味わいのクッキー、甘みが抑えられたマフィンなどを用意していた。
飲み物はいつもの紅茶ではなく、最近になって取引の始まった東方から取り寄せた変わり種のお茶だ。
だが、準備も終えノアを迎えに行こうとした矢先に、彼女の友人から言付けをもらったのだ。
要約すると、友人が深刻な顔でノアの元へ訪れ、どこか思いつめた様子だったので放っておけずそちらへ向かった、とのことだった。
そのような事情だ。仕方がないとは思うが、残念なことに変わりはない。
「それで代わりにお前と茶を飲む羽目になるとはな。せめて他の人間でもいればまた違っただろうが」
さすがに急すぎて人が集まらなかった。決して、アルシオンに人望がないからではない。
そもそも男同士でお茶会をすることはほとんどない。かといってノア以外の女性生徒を誘う訳にもいかず、今のような結果になった。
当然盛り上がりはしないし、この状況に早々に虚しさを覚えたアルシオンは、カップに残った液体を飲み干すとそそくさと帰り支度をはじめる。
「もうお帰りで?」
「ああ。父上に呼ばれていたのを思い出してな。話があるからできれば早く戻ってきてほしいと言われていたんだ」
「一体何の話なんでしょうか」
ジェルスの言葉に、アルシオンはうーんと唸りながら首を傾げる。
「今朝がたどんな内容かだけでもと聞いてみたら、茶葉を蒸らし過ぎた紅茶の味わいのように渋い顔をしてたからな。ろくなことでないことは確かだ」
「あの陛下がですか」
ジェルスが驚くのも無理はない。
国王陛下は非常におおらかな性格で、どんな場面でも常に笑みを絶やさない温厚な人物だと有名だ。そんな人に苦い顔をさせるとは、一体どんな内容なのか逆に気になる。
「まあ、俺とノアの邪魔をするような類の物でなければなんでもいいんだが」
そう笑い飛ばすアルシオンだったが、ジェルスの表情は固い。
「だといいですけど。なんだか嫌な予感がしますね」
「待て、やめろ。ジェルスがそういう言い方をする時はなぜか当たるんだから」
「ところで、フローレンス嬢を待たれなくてよろしいので?」
するとアルシオンは、分かっていないなとばかりに肩をすくませると、ジェルスの顔の前で指を左右に振るジェスチャーを見せる。
「ノアが困っている友人を途中で放り出してこっちに来ると思うか? 下校まで付き添うに決まってるだろう」
「そうですね」
「そんな心優しい彼女が、俺がずっとここで待っていたと知れば、非常に申し訳ない気持ちになるだろうが」
「ですかね」
「つまり俺はノアに気を遣わせたくないんだ」
「はあ」
「ノアと会えないのは残念だが、彼女は人気者だから仕方がない。そういうところも含めて俺はノアに惚れているんだから」
「この前は不満たらたらでしたけどね」
「うるさい。……そういうことだから、俺は先に戻る」
そして残ったお菓子を綺麗に包んで二つに分けると、一つはノアの瞳の色と同じ紫のリボンで、もう一つは白いリボンで上をきゅっと結び、ジェルスに渡す。
「これをノアに渡していてくれないか。どれもノアの口に合うはずだ。もう一つの白いリボンで結んだ袋は、その友人にでも渡してくれ。美味しいものでも食べて元気を出せとな」
「ちなみに私にはないんですか」
「ジェルスはそもそも甘いものは食べないだろうが」
現に今も、お茶は美味しそうに飲んでいるが、テーブルの上のお菓子には何一つ手を伸ばしていない。
「ではジェルス、頼んだぞ」
「お任せください」
そうしてアルシオンはガセボを後にすると、すぐさま執務室へと向かう。
ノックをして入室したら、人払いしたのか、側近の一人もおらず、中には父のザルスと母のナターシャの二人だけだった。
どんなに書類仕事の追われていても忙しさなどおくびにも出さず、いつも余裕そうに微笑むザルスだが、やはり今朝と同じく彼の顔色は優れない。
同じく、ソファに座っているナターシャも疲労の色が濃い。
「来たか。まあ、座れ」
そう言われ、アルシオンがナターシャの向かいに座ると、ザルスも書類の積み重なる机から移動し王妃の横に座る。
そして開口一番、ザルスが頭を下げてきた。
「アル、すまん! お前とフローレンス嬢の邪魔をするつもりはこれっぽっちもないが、わしにはなす術はなかったのだ」
何の話だ? と頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだったが、少なくともあの眼鏡の悪い予感が当たったらしいということだけは分かった。
今でもノアに想うように近付けていないというのにこれ以上何の邪魔が入るんだとげんなりしながらも、せめて婚約白紙とかは言ってくれるなよと思いながら、まずは説明を求める。
「父上、頭を上げてください。それで、一体何なんです? その、俺と愛しのノアの邪魔になることというのは」
するとナターシャが美しい顔を歪ませながら口を開く。
「隣国ダルビアンから、勉学の為、我が国へ王族の一人を留学させてほしいとの要請がありました」
たったそれだけだったが、アルシオンの顔も同じく歪む。
ダルビアンとは隣国ということもあって、長年友好関係を築いてきている。
前ダルビアン国の王配が、エルディア国の公爵家の次男でありナターシャの叔父だったのが、その証拠だ。
だから、そんな親交の深いダルビアンの名前が出たからといって、渋い顔になることは普通はないはずだ。
が、王族を一人留学させてほしい、の、王族が誰かが問題だった。
「……その一人とは、誰ですか?」
当たってほしくないが、絶対に当たるだろうと確信しながらも、わずかな望みをかけて尋ねるが、ナターシャから出された名前は非情にもアルシオンの予想通りだった。
「御年十六になる第一王女のミーア殿下よ」
そして愕然とするアルシオンに対し、ザルスが更に爆弾を落とす。
「アルシオンよ。それにあたって、お前には、学園ではできるだけ王女殿下の傍にいてほしい。……この意味が分かるな?」
そう言われるや否や、アルシオンは我慢できずに声にならない悲鳴を上げながら、遂にはソファに突っ伏してしまった。
ミーア王女との面識はある────どころか、彼女はアルシオンのことが昔から好きで、会う度に結婚してほしいと付きまとわれるのだ。アルシオンには既に、ノアという婚約者がいるにもかかわらず、である。
しかしどうもアルシオンに一目惚れしたらしいミーアは、諦めきれないらしく、顔を合わせるとぐいぐいくる。
ミーアは、凛とした美しさを持つノアとは正反対の印象を受ける少女である。
物語に出てくる愛らしいお姫様像そのままの、あらゆる可愛さを煮詰めたような美少女。普通の男なら、彼女の微笑み一つで陥落させられ、彼女の虜になるのは間違いない。
だがミーアの父親、ダルビアンの国王バレッドは、亡き王妃の忘れ形見であるミーアのことを溺愛していた。
彼女が王妃に似た顔立ちで、四人生まれた子供の中で唯一生まれた女児だからか、ミーアは甘々に育てられ、見た目は愛らしくとも、性格は傲慢で、気に入らないことがあるとすぐに周囲に八つ当たりするような王女に育ってしまった。
けれど下手に注意をすればバレッドの怒りを買いかねず、誰も注意することができず、それが更にミーアの傍若無人ぶりを加速させている。
今のところ大きな問題は起こしていないが、このままだと何か面倒事を起こすのは時間の問題とされている。
アルシオンはこのミーアが、昔から非常に苦手だった。
砂糖菓子に砂糖をぶちまけたような甘ったるい声で話しかけられると、背中がぞわぞわする。媚びるように潤んだ瞳で見上げられると、同じくぞわぞわ。
しかし相手は隣国の王女であるから、アルシオンも邪険に扱うことができず、これまで何とかミーアとの接触をできるだけ避けながら今日まで来たのだ。
それなのに、何がどうして同じ学園に留学することになるのか?
いや、推測はできる。
まだノアと結婚していないこの学生時代の間に何とかしたいと考えたミーアが、王族として隣国のことをもっと知るために勉強をさせてほしい、という名目で父親にお願いしたのだろう。
娘が離れることをよくあのバレッドが了承したと思うが、娘のおねだりは断れなかったのだろう。
馬鹿正直に、アルシオンを口説き落としたいから、などと言ってくれたらまだ断りやすいが、勉強の為という留学の理由としては至極真っ当なことを言われては、拒否できない。
まして両国は親交があり、対等な関係だ。
であれば、この留学は学園を通じた友好関係の象徴として受け入れざるをえない。
しかも相手は王族の溺愛の対象であるミーアだ。
彼女を拒否すれば、それはすなわちダルビアンの国王陛下への非難と受け取られかねず、外交問題どころか下手をすれば戦端の口実にもなりうる。
つまり、ミーアを大人しく受け入れるほかに道はない。
そして何かあった時の為に、この国の人間が、ミーアが問題を起こさないよう、監視しておく必要がある。
相手の身分が身分なだけに、その辺の貴族に役を負わせるわけにはいかず、必然地位の高い人間がそれを担うことになるだろう。
そして、今学園には、王女の身分に匹敵する身分を持つ者がいる。
そう、この国の王太子のアルシオンである。
もしくは彼の婚約者のノアでもいいのだが、それだけは避けるべきだろう。
ミーアにとってノアは、憎き恋敵だ。
これまでは二人が接触する機会はなかったが、これを機に何をノアにしでかすか分かったものじゃない。
その上立場的にはノアはまだ公爵令嬢のままで、王族ではない。彼女の今の立ち位置では、ミーアが突拍子もないことをした時に止めるのは難しいだろう。
危険人物をノアに近付かせるわけにはいかない。
その為に、選ばれたのがアルシオンなのだ。
皆まで言われずとも状況をすべて把握したアルシオンは、絶望を纏ってソファから起き上がると、死んだ瞳で父に尋ねる。
「期間はどのくらいですか」
「来月の頭にこちらへやってきて、半年ほどいる予定だそうだ」
ぐはっと、アルシオンはその場でむせた。
「つまり、俺の卒業までということじゃないですか……」
明らかに、それまでにアルシオンを何とかする気満々である。もしくはノアの排除の方を目論んでいてもおかしくない。
アルシオンはお茶会どころかこっそり物陰から覗くことも難しくなる未来が容易に想像できて、心の内でこっそり涙した。
◯○◯○
アルシオンとノアは、二週に一度、ほんの僅かな時間ではあるが、婚約が決まって以来ずっと続けていることがある。
ミーア襲来の話を聞いた翌日が、まさにその日だった。
まだ早い朝の時間。
登校してくる生徒もほとんどいない中、学園の一角にある訓練場では、ノアとアルシオンが真剣な表情で向かい合い、訓練用の木剣で激しく打ち合う。
しかしアルシオンの足が一瞬よろめいた隙を見逃さず、ノアは正確な動きで彼の脇腹に木剣を叩きこみ、アルシオンが地面に倒れ込む。
それと同時にノアがアルシオンの元へと駆け寄る。
「大丈夫ですかアルシオン殿下。お怪我は?」
「いや、平気だ」
「それならいいのですが」
「にしても、ノアはやはり強いなぁ。君にはいつになっても勝てる気がしない。相変わらず見事だった」
ノアから差し出された手を借り、アルシオンは立ち上がる。彼が力を加えても細身のノアの体はびくともしない。それだけ普段から体幹を鍛え、努力を重ねている証拠だ。
そしてアルシオンと対峙している時の彼女は、隙がなく、無駄もなく、とにかく凛として美しい。
普段皆の前で微笑む公爵令嬢ノアとは、また別の美しさだ。彼女が剣を構えると、空気が澄み渡るのを感じる。
ノアに勝てないのは悔しさもあるが、何よりも楽しそうにのびのびと剣を振るうノアの姿を見ることが、アルシオンはとても好きだった。
思えば彼女と初めて手合わせをした時からそうだった。
ノアとの出会いは、今から八年程前。
次期国王となることが幼い頃から決まっていたアルシオンは、年の近い婚約者候補の令嬢たちと数多く面会を重ねていた。
しかし彼は、令嬢たちとの会話にほとほと疲れていた。
例えば、とある令嬢はいかにも完璧な未来の王妃のようだった。
「私は日々、外交や宗教、歴史などを学んでおります。この国のため、殿下の政務の負担を軽減することこそ次期王妃となる私の至上の喜びでございますわ」
「そうか。ところで君自身が好きな物は何かあるか? もしくは趣味でもいい」
「そのようなものはございません。王族として名を連ねる以上、全ての人生を王妃として捧げる覚悟はできております。私個人の感情も想いもそこに存在させる必要はございませんもの。殿下も同じではないのですか?」
彼女が話しているのはアルシオンではなく、王太子という立場にある人間だ。短い会話のやり取りから察するに、王太子の中身が誰であろうと関係ないのだろう。
そしてそれは自分自身にも当てはまる。
次期国王と王妃。その立場になるのだから、個人というものは排除すべきだと。
アルシオンは、政略的な事情が絡んでいるとはいえ折角縁があって結婚するのだから、やはり互いに相手を深く知り、信頼関係を築き上げ、共に背中を預けながら国を治めていきたいと考えていた。
しかし目の前のこの令嬢はそれを真っ向から否定した。
まるで自分が必要ないと言われたような気持ちになり、心が静かに閉じていくのを、その時アルシオンは感じた。
また別の令嬢はというと。
「君の好きな花は何かあるかな」
「で、殿下の好きな花です」
「いや、君の好みを聞いているんだが」
「で、殿下はなにが、その、お好きでしょうか。わ、私は、殿下のお好きな物が好きですし、殿下のお嫌いなものが嫌いです。私、殿下が好きなので、殿下の仰る通りに致します」
分かりやすく好意があると言わんばかりに、頬を染める令嬢。
悪い人間ではなさそうだが、全てをアルシオンの好みに合わせようとする、主体性のない女性という印象を受けた。
これでは共に国を支えるどころか、アルシオンの言いなりである。
あくまでも王妃となるべき相手とは対等な関係を築きたいアルシオンは、胸の中で小さくため息を吐いた。
他には、見るからに清楚で儚いとある侯爵家の令嬢とも顔を合わせた。
「わたくし、か弱くて、殿下に守っていただけなければ、すぐに倒れてしまいますの……」
か細い声にゆっくりとした動き。常に上目遣いで、明らかに芝居がかっていて、さながら舞台の女優のようだ。
確かにそういった女性が巷で流行りつつあると聞いたことはある。守ってあげたい系の庇護欲をそそられる女性。
アルシオンは守りたい気持ちよりも、芝居がかった彼女とのやり取りに疲れが先にきた。
それに、本当にそのような人間ならば、国を守るべき立場になる王妃としてはふさわしくない。
アルシオンが何らかの理由で国の手綱を握れなくなった際、代わりに率いる立場となる王妃が儚い女性では困る。
どの令嬢も、アルシオンと釣り合いの取れる出自の者だ。
それでもその誰にもアルシオンは心惹かれなかった。
誰もかれもが自分を王太子という立場でしか見ていない。彼女たちのアルシオンを見つめる瞳には、麗しい王太子に気に入られたいという計算が必ず混ざっていた。
それは当然だと思う一方で、やはり寂しかったのだ。
そんな中で出会ったのが、ノアだった。
顔合わせの日、彼女が王城の応接室に入ってきた瞬間、場の空気が揺れた気がした。
足音は軽やかだが雑音はなく、貴族令嬢の多くが纏ういかにも貴族らしい香水の強い香りも、取り繕った気品も感じない。
代わりに凛と、そんな音が聞こえたようだった。
「お初にお目にかかります。ノア・フローレンスでございます」
そう言って静かに礼をしたあと顔を上げた彼女は、王太子であるアルシオンを前にしても気圧されることもなく、媚びることもなく、まっすぐに彼を見つめていた。
その姿にアルシオンの心が、初めて動くのを感じる。
ノアが十歳でありながらアルシオンと並んでも劣らない美貌をもつ令嬢だったからではない。
他の令嬢のように計算も打算もなく、一人の人間としてアルシオンをその目に映してるように感じられたから。
そして彼女と少し時を共にしただけでも、ノアの良さはすぐに理解できた。
ノアは礼儀作法も完璧である上に、非常に聡明であり、アルシオンの言葉を否定することもなく、けれど自身の意見もしっかりと持っている。
だがアルシオンが最も息を呑んだのは、ノアが剣術の話をした時だった。
「実は私、剣が好きなのです。家族には淑女らしくないと叱られるのですけど」
その時、彼女から発せられていた完璧な空気が変わり、ノアは家族に怒られた幼子のように肩を微かに落とす。けれどその目だけは誇りを捨ててはいない。本当に好きなのだろう。
嘘偽りない本音を語ってくれたノアを見て、思わずアルシオンの顔に笑みが浮かぶ。
「いいんじゃないか?」
「……え?」
「淑女だろうが王妃だろうが、好きな物は手放さなくともいいと俺は思う」
「殿下は公爵家の令嬢が剣術など、はしたないとはお考えにならないのですか?」
「思わないな。やらなければならないことをきちんとこなし、他人に迷惑をかけないのであれば、やりたいことや好きなことを制限する必要はないと考えている。俺も君も、王族であり貴族である前に一人の人間だ。多少の息抜きくらいしてもいいだろう」
するとノアは、信じられないと言いたげに目を見開く。それからほんの少しだけ照れたように視線を落とす。
「……そんな風に言って下さった方は、殿下が初めてです」
凛としているのに、まさかこんな一面を見せられるとは。
目の前で見せられた彼女の可愛さに、胸の奥で小さな炎が灯りそうになっていると、ノアがふっと笑う。
「ところで殿下は剣を嗜まれますか?」
「ああ、俺か。嗜むどころじゃない。毎朝のように鍛錬している」
するとノアの目がわずかに輝いた。
「でしたらきっと殿下はお強いのでしょうね」
「どうだろう。君は? 剣の腕に自信はあるのか」
「ございます。殿下にお見せできるほどには」
堂々とした言い回し。ならば本当に自信があるのだろう。
見てみたい。彼女がどんなふうに剣を振るうのか。
その瞬間、アルシオンははやる気持ちを抑えられなかった。
「なら……手合わせしよう。今からでも構わない」
「今、でしょうか?」
突然の申し出にノアや、二人のやり取りを見守っていた周囲の人間にざわめきが走る。
けれどアルシオンはそれを気にも留めず、ニヤリと笑って見せた。
「だって君もそうしたいと、顔に書いてあるから」
「……殿下、私の顔色を読まないでくださいませ」
口では否定しながらも、戸惑ったようにわずかに眉を寄せ、しかし頬は微かにだが赤い。
その様子に再び胸の内に熱がこもるのを感じつつ、二人は王城の訓練場へ移動し、初対面で手合わせという異例の展開を迎えることとなった。
ノアはドレスではなく動きやすい服装に着替えており、その姿は令嬢というよりも小さな騎士のように凛々しい。
「手加減は必要でしょうか」
「随分と自信があるようだな。それは俺の台詞だと思うんだが。……手加減などない方が嬉しい。本気できてくれ。代わりに俺も全力を出す」
その言葉に、ノアの口元が微かに上がる。
「では、そのまま」
その瞬間だった。
────ザッ。
砂を踏む音だけが響き、ノアの姿が視界から消える。
あまりの速さに驚き、アルシオンが構えを整えるよりも早く、ノアの弾くような斬り込みが彼を襲う。なんとかそれを受けたものの、受けるだけで精いっぱいだった。
反撃を入れたいのに、剣筋に無駄がなく隙がない。
「ぐっ!」
歯を食いしばり、余裕がない中でも一瞬ノアの顔を覗き見る。
彼女は静かに微笑んでいた。
そこに浮かぶのは、挑発ではなく、余裕だ。そしてその瞳は楽しいと言わんばかりにキラキラと輝いていた。
「殿下、重心が高いです。もっと下げてください」
そう言いながらノアはアルシオンの懐に入り、手首を叩く。その勢いでアルシオンの木剣が空へと跳んだ。
嘘だろう!? と、あっけに取られているアルシオンをよそに、剣はくるくると回転しながらやがて地面に落ちた。
勝負はついた。いとも簡単に。
その上、荒く息を吐くアルシオンとは対照的に、剣をすっと下ろしたノアは息一つ乱していない。
「申し訳ありません。……本気でやれと仰っておられましたので、つい」
「いや、見事だった。俺も自信はあったんだがな」
するとノアが首を傾げる。
「殿下もお強かったです。構えに無駄がありませんでした」
「フォローはいらないぞ。完敗だったのには間違いはない」
妬む気持ちすら起きなかった。負けたというのに清々しい。それに剣を構えた彼女は、アルシオンが見惚れるほどに美しかった。
正直にそう気持ちを告げれば、彼女は笑った。
「公爵令嬢としての私にではなく、好き勝手に剣を振るう姿を美しいと殿下に称賛されるのは、とても嬉しい限りです」
言葉通り本当に嬉しそうに微笑むノアの笑顔に、明らかにアルシオンの鼓動は跳ねた。
それを隠すように、アルシオンはノアに向かって言った。
「……もう一度勝負しないか? 君の強さは分かったが、次はもう少し食らいついていきたい」
「勿論です。殿下がお望みであれば、何度でも私の胸をお貸しいたしましょう」
ノアの目が再び嬉しそうに細められる。
そしてこの時アルシオンははっきりと自覚した。
ああ、もう自分はノアに惚れ始めているのだと。
その後アルシオンはノアとの面会と剣の討ちあいを何度か重ね、結婚するのならノアがいいと両親に直談判した。
立場的にも問題はなく、なによりアルシオンの強い要望を受けた結果婚約が決まったが、こうして剣を交わらせる日々は続いていた。
未だにアルシオンは一度もノアに勝てていないが、喜々として剣を振るうノアを見られて幸せである。
しかし、この幸せも、もしかすると制限されるかもしれないと思うと、隣国王女の襲来はまだ先だというのに既に気が重い。
そんなアルシオンの気持ちを察したのだろうか。
ノアは彼に近付くと、心配そうに額に手を伸ばす。
「もしかして体調が優れないのですか? 熱は……ないようですけど」
「体調は万全だ。むしろ今愛しのノアに触れられているから、喜びで逆に体温が上がりそうだ」
「まあ。殿下は私のことが本当にお好きなのですね。ありがとうございます。私も殿下のこと、お慕いしております」
ほんのわずかに口角を上げ、はっきりそう言い切ってから手を離したノアは、けれどその後すぐに真面目な面持ちになる。
「では私が昨日殿下との約束を破ってしまったことを、やはりお怒りなので?」
「ない。ありえない。ノアの事情は知っている。大体俺がそんなことでノアに怒るような心の狭い男だと思われるのは心外だな」
「申し訳ございません。私の失言をお許しください。殿下はそのような方ではありませんね」
「分かってもらっているならいい」
しかし、アルシオンの表情が完全に晴れることはない。
「ノア、少し話があるんだが、時間はあるか?」
アルシオンから放たれる緊張感を察したのか、ノアもまた神妙な面持ちになると、頷く。
「殿下が今のような真面目な顔をされる時は、良くないお話ですね」
読まれたことに、少しだけアルシオンは笑ってしまう。
けれどすぐに表情を戻すと、アルシオンは、昨日聞かされた内容をそのままノアへと伝えた。
「隣国のミーア王女が、この学園に留学してくることになった。そして……非常に不本意ながら、俺が世話役という名の監視役を任される」
重いため息が漏れるのも無理はない。そのままアルシオンが続ける。
「本当ならば断わりたい。切実にな。ましてこのタイミングでの留学となると、彼女が俺を狙っているのは明白だ」
ノアは瞬き一つせず静かに耳を傾けていたが、アルシオンの言葉に軽く頷く。
「ミーア王女殿下がアルシオン殿下に傾倒し、執着しておられること。それに彼女の性格や行動についても聞き及んでおります」
「もし彼女がこの国で自国と同じように好き勝手な振る舞いをされると、面倒なことになる。最悪両国の関係が悪化しかねない。だから俺が体よく押し付けられた。同じ王族である俺ならばあの王女が暴走した時に止められる。そして俺が傍にいれば余計なところに王女は労力を使うことなく、彼女の癇癪に当てられる我が国の人間も最小限に抑えられるだろう、ということでな」
いわば俺は生贄役だともはや苦笑するしかないアルシオンに、ノアはかすかに唇をかむと肩を落とす。
「私が殿下のお役に立てればよかったのですが。ミーア王女殿下の相手として、立場としても人選的にも殿下以外の適任者がいない。まして私を側に置けば私へ害を加える可能性がある……そういうことですね」
その声音は柔らかいのに、役立てない自身を恥じるようなノアに、アルシオンの胸が締め付けられる。
「すまないノア。だが、彼女のしつこさは俺も身をもって知っている。君は彼女にしてやられるようなたまじゃないが、それでも君に近付く脅威はなるべく排除したい。勿論あの女に惚れることはない。それにノアは役立たずなんかじゃない。俺は君を守りたいんだ。だから」
そうしたらノアは、アーノルドの唇にそっと人差し指を押し当てた。
「ええ、殿下。私を慮っての行動だとちゃんと分かっております。殿下がミーア王女殿下に心を奪われることがないことも。……私は殿下を信じておりますから」
その言葉が、すとんとアルシオンの心に落ちる。それだけで彼女が自分のことを心から信頼してくれていると分かった。
アルシオンは唇に触れていたノアの指を握る。
「当然だ。俺が一体誰に惚れていると思っている」
答えはしなかったが、ノアはその台詞に軽く微笑みを返すと、自身の指を握るアルシオンの手の上に、もう片方の手を重ねる。
「ですが、剣の鍛錬であれ問題であれ、何かあれば遠慮なく頼ってください。私は殿下の婚約者です。守られるだけは性に合いませんから」
「そうだな。そういうところも君のことが好きな理由の一つだ。だが俺だって君を守りたい。けれどもしもその時が来たら遠慮なく頼らせてもらうさ。ところで……ノア、今この場には俺たちしかいない。折角二人きりなんだから」
「なんでしょう」
「たまには俺のこと、殿下ではなくアルと呼んでくれないか」
このアルシオンのお願いに、ノアは一瞬だけ目を伏せ、すぐに中性的で余裕のある笑みを浮かべた。
「ですが殿下、ここは学園で、そろそろ生徒達も登校してくる頃合いです。すぐに二人きりではなくなってしまうかも」
「つれないことを言わないでくれノア」
「さて、どういたしましょうか」
悩みながらも微笑む姿が妙に色っぽい。
ノアの指を握るアルシオンの手に力が入り、熱に浮かされたような顔でノアを引き寄せると、鼻先をくっつける。
「なあ、頼む」
「そんなに近付かれては唇同士がぶつかってしまいます。そうしたら殿下のお名前も呼べなくなってしまいますが」
「それは困ったな。俺は今ノアに触れたいし、アルとも呼んでほしい」
「我儘なお方ですこと」
「このくらい可愛いものだろう?」
そんなことを言いながらまさに唇が重なろうとしたその寸前────。
「アルシオン殿下。政治学担当のヘルマン先生が呼んでおります」
「っ!」
突如聞こえてきた声に驚き、振り向いた先にいたのは、見慣れた眼鏡男だった。
タイミングは完璧だった。それなのにこの男ときたら……!
もう少し空気を読め! とジト目を送るものの、まったく意に返さない様子でジェルスは眼鏡をかちゃりと直す。
「急ぎの用事ということでしたので」
盛大に舌打ちでもしたい気分だったが、ノアの前だ。品性のない行為はしたくないのでそれはせず、ジェルスには後できっちり文句を言ってやると心に決め、アルシオンはため息をつく。
「分かった。すぐ行く」
お預けかと思うと胸が苦しいが仕方がない。次はいつこんな機会が訪れるのかと密かに肩を落としつつ、ジェルスの後を付いて行こうとする。
その時────。
ジェルスの視線がこちらに向いていない隙に、ノアがすっと近付き、迷いなくアルシオンの頬に手を添え。
軽く柔らかく、けれど確かな熱を帯びたキスを唇に落とした。
「っ、ノ、ノア!?」
ノアは一歩離れ、内緒だと言わんばかりに自身の唇に指を当てる。
「お預けは可哀そうでしたので。それではアル、続きはまた今度」
「!」
その言い方と行動と表情に仕草、全てにアルシオンの心臓が鷲掴みにされ、言葉が出ない。
対するノアはアルシオンと、先を歩いていたジェルスに会釈をして、涼しい顔でその場から立ち去って行った。
残されたアルシオンは、思わずその場に蹲ると頭を抱え、小さな声で呟く。
「俺の婚約者が俺より男前すぎる。だめだ、ますます好きになるじゃないか────!」
「どうしたんですか殿下。お腹でも壊しましたか? どうせ夜に腹でも出して寝ていたんでしょう。もしくは食べ過ぎですかね」
いつまでも来ないアルシオンに気付いたジェルスが引き返してきて失礼なことを言ってきたが、言い返せないほどに胸がいっぱいなアルシオンは、そのまましばらく胸のときめきがおさまらなかった。
○○○○
幸せな記憶のお陰で、一週間はご機嫌だったアルシオン。
だが、それも遂に終わりを迎える時が来た。
ミーア王女の来日である。
絢爛たる馬車から降り立ったミーアは、渋々出迎えたアルシオンの姿を一目見ると、感無量の表情になる。
元々大きな蜂蜜色の瞳が更に見開かれ、可憐な顔には、ミーアの中身を知っていても思わず見惚れてしまいそうなほどの花のような笑顔がこぼれる。
実際、隣国から連れてきた護衛の兵達も、一瞬うっとりとミーアに視線を送っていた。
だが、アルシオンは当然魅了されることもなく、すんとした表情を保っている。
そしてミーアはドレスの裾が翻ることも気にせず、アルシオンの元へ駆け付けると、思いっきり彼の腕に抱き着いた。
「アル! 私のアル! 会いたかったわ!」
「ようこそおいでくださいました王女殿下。ですが俺は婚約者がいる身の上です。そして王女殿下と親しいわけでもありません。愛称で呼ぶことも抱き着くこともご遠慮いただきたい」
腕にぽよんとした肉の感触が押し付けられている。
しかし、他の異性には武器になるであろう二つの双丘も、アルシオンにとっては、それがノアのものでない限り、鍛え上げられた騎士たちの大胸筋とさほど大差ない。
したがってなんの動揺もないし、むしろ不快なだけである。
アル呼びも頂けない。呼んでほしいのはノアだけなのだ。
ミーアに名を呼ばれたことで、折角のあの記憶が汚されたような気になった。
とりあえずは離れてくれたものの、既にアルシオンはずんと気持ちが沈んでいた。
彼女と何カ月も共に過ごす未来に、不安しかない。
それに、そのすぐ後に、初めてノアと対面した時のミーアの反応も気になる。
「私はノア・フローレンスと申します。アルシオン殿下の婚約者として失礼のないようにつとめさせていただきます。よろしくお願い致します、ミーア王女殿下」
「…………え?」
ノアの姿を見た瞬間、ミーアの瞳が釘付けになり、ミーアの後ろに控えていた侍女たちすらざわついたのをアルシオンは感じ取った。
整った顔立ちに凛々しい佇まい。そして中性的でありながら圧倒的に、全てにおいて見栄えがいい。
王女であるミーアよりもよほど王女然としていた。
さすがは俺のノアだと心の中で感心するアルシオン。
完全に敗北したと言わんばかりのミーアの様子に、これは自分の出る幕はないかもと思いかけるが、そこは自身の愛らしさに絶対的な自信を持ち、そのプライドだけでこれまで生きてきた王女だ。
黙って引き下がる、なんて展開になるはずもなく。
ミーアは慌ててきっとノアを睨みつけると、大きな声で宣言する。
「ふ、ふんっ! ちょっと顔がよくって背もスラッとしてて、美人なのに凛々しくてその辺の殿方よりも素敵だからといっても、私はあなたよりも可愛いし、誰よりもアルのことを愛しているの。絶対にあなたなんかに負けないんだからぁ!」
「お褒めに預かり光栄です王女殿下」
「なっ、褒めてないわよ!」
「ミーア王女殿下はとても愛らしい方なのですね。ですが殿下を想う気持ちはこちらも同じです。アルシオン殿下の婚約者の座は、たとえミーア王女殿下であっても渡せません」
「きーっ! その余裕、ムカつくわ! 絶対に、ぜーったいに、あなたをどんな手を使ってでもあなたをアルの婚約者の座から引きずり落としてやるから、覚悟しなさい!」
半分泣きながら、アルシオンとノアの前から逃げ去り、それを王女の侍女たちが追う。その後ろ姿を見ながら、アルシオンは顔が引きつる。
「ノア、なんでミーア王女を煽るような言い方をしたんだ? ノアならもっとうまく対処できたと思うんだが」
「だって私は、大好きなアルの婚約者ですから。宣戦布告をされて、黙って引き下がるわけにはまいりません」
なんてことない表情で、普段と変わらない声音で自身の愛称を呼ばれたことに気付き、アルシオンは今回もなす術もなく陥落する。
「こんな時にその名で呼ぶのは反則だぞ……」
「王女殿下が呼んでおりましたので、私も呼びたくなってつい」
思わず耳まで赤く染めるアルシオンに対し、悠然と微笑むノア。
剣の腕前でも恋の勝負でも、ノアはいつもアルシオンよりも一枚上手だ。
しかしそのことが不思議と嫌ではない。むしろ愛する彼女に振り回されるのは心地がいいほどだ。
だからこそ、ノアのことは守らねばと、アルシオンは改めてミーア王女がノアに余計なちょっかいをかけないように見張ろうと気を引き締めた。
○○○○
王女の来日から一月ほどが経った。
自国では散々問題を起こしてきたミーアだが、彼女の最愛であるアルシオンがいる為か、彼女の関心はアルシオンただ一点に集中した。
結果、彼女に当たり散らされ被害者となる自国の人間がいないことは、不幸中の幸いだろう。
勿論不幸なのは、学園で常にミーアに狙われるアルシオンである。
アルシオンは、彼が何を言おうと一向に諦める気がなく、ことあるごとに引っ付いてくるミーアに辟易していた。
愛称呼びをやめろといっても、直す気配はない。まるでミーアがアルシオンの婚約者のような振舞いである。
アルシオンのノア好きもミーアのアルシオンへの執着ぶりも知られているため、二人の仲を誤解する声がほとんどないのはありがたいが、いい加減一人で対処するのも頭が痛くなってきた。
しかし二月目に入ったあたりから、風向きが変わり始める。
例えばミーアが、まったく勉強した形跡のない教科書を持ってアルシオンに寄ってきた時。
「アル♡ 分からない部分があるの。私に勉強を教えて?」
「分からなければ教師に聞く方が確実ですよ」
「でもぉ、私は頭脳明晰なアルに教えてもらいたいの。だってアルの方が教え方上手だから……」
そう言ってミーアがアルシオンの手を握ろうと腕を伸ばす。これまではアルシオンはひょいっとその動きをかわしていたのだが────。
「ミーア王女殿下、少しよろしいですか?」
どこから話を聞いていたのか、ミーアの小さくも柔らかな手をぱっと取りにこりとミーアに微笑んだのは、ノアだった。
「こちらの問題でしたら私がお教えいたします」
「は!? 私は今アルと話をしていて」
「いいですか、これは前のページにある公式を使って……」
「ちょっと、話聞きなさいよっ!」
ノアはちゃっかりアルシオンとミーアの間に椅子を持ってきて割り込み、丁寧にミーアの分からない問題について解説を始める。アルシオンが止める間もなかった。
しかしノアの教え方は丁寧で分かりやすく、気付けばミーアも真剣な面持ちで話を聞き、問題に向き合っていた。
「ですからここはこうして」
「あっ、つまりここはこの式を使ってこのやり方で答えを導き出したら……できたわっ!」
「ええ、正解です。解き方も完璧です。さすがはミーア王女殿下、飲み込みが早いですね」
「ふふんっ、私はね、やればできる子なのよ! それに褒められて伸びるタイプなの。だからもっと褒めなさい!」
「ええ、私で良ければいくらでも賛辞の言葉をお伝えさせていただきます」
が、ここで我に返ったらしいミーアは、はっとした表情になると慌ててノアと距離を取る。
そしてハンカチをわざわざ取り出し噛み、悔しそうに声を上げた。
「い、いくら勉強ができて教え方がうまくて私を懐柔しようとしたって、思い通りになんてならないわよ! 次こそは覚えていなさい!」
またある時は、アルシオンの目の前でミーアがハンカチを落とす。
「アル♡ 拾ってほしいなぁ」
「…………」
明らかにわざとらしい落とし方だったが、仕方なくアルシオンは無言のまま腰をかがめる。
しかし手がハンカチに触れる直前に何者かの白い指が現れた。
「ミーア王女殿下、落とされましたよ」
「ありがとう……って、なんでノアが拾うのよっ! 私はアルに拾ってもらうつもりで落として」
「ところでこちらのハンカチの刺繍は、どなたがされたものですか」
「刺繍? ……私、だけど」
「そうだったのですね。この細かい刺繍の部分があまりにも美しい出来でしたので、てっきりどこか名のある方に頼まれたのかと思っておりました。では、王女殿下が一昨日お持ちになられていた、赤い花が四隅に刺繍されたあちらも……」
「ええ、そうよ。私が自分でやったのよ。昔からそういったことは得意なのよ」
「さすがは美的センスに優れた王女殿下です。よろしければ今度、私にも教えてくださいませんか?」
ノアの言葉には一切の嘘がない。当然だ、なぜなら心の底からそう思っているのだから。
誉め言葉にすっかり気をよくしたミーアは、まんざらでもない顔で返事をしかけたものの、はっと我に返ると唇をわなわなと震わせた。
「くっ、私のセンスと腕を褒めてこちらの懐に入り込もうとするなんて、やるじゃない。だけど、これくらいじゃ私は引き下がらないんだから!」
また別の日には。
「きゃぁぁ、転んじゃう! アル、私を受けとめて♡」
いきなり立ち眩みがすると言って、狙いすましたようにミーアがアルシオンの胸に倒れ込みそうになるものの、受け止めたのはノアだった。
「ミーア王女殿下、大丈夫ですか?」
「な、なな、なんであなたがここにいるのよ!」
「たまたま通りかかったところで、王女殿下が倒れそうになられているところを見かけましたので、抱き止めにまいりました。体調が優れないのですか?」
「そ、そうよ! だからアルに保健室に運んでもらおうと……」
「でしたら私が運ばせていただきます。少し失礼いたしますね」
「え? あ、ちょっと────きゃぁぁっ!」
そう言うと、ノアは軽々とミーアの体を抱き上げる。予想外のことにミーアは暴れるものの、ノアは一切気にすることなく廊下を進む。
「暴れられると危ないですよ。もっとも私が王女殿下を落とすなんて無様な真似はいたしません。ですので安心して抱かれていてくださいませ」
するとその様子を見ていた女子生徒達からは歓声が上がる。
「ノア様に直接お姫様抱っこされるなんて……!」
「羨ましいですわぁ」
「ミーア王女殿下が動いてもびくともしないだなんて。その辺の殿方よりも凛々しくて惚れ惚れしてしまいます!」
後ろから念のためにとアルシオンもついていったが、ミーアはまるで借りてきた猫のようにおとなしく、ほのかに赤らんだ顔で抱かれていた。
またまた別の日。
「アルが好きだって聞いたから、蜂蜜入りのクッキーを焼いてきたの♡」
「……クッキー?」
アルシオンがミーアの手の中にある、炭と思しき塊を見つめる。そんな彼の視線を受け、ミーアは自身がアルシオンの視界に入っていることに喜ぶように体をくねらせると、一枚袋から取り出す。
「はい、あーん♡」
が、黒い物体が無理やりアルシオンの口に突っ込まれる寸前、誰かがミーアの手を掴み、指で挟まれていたミーアの自称クッキーを取り上げると口に入れる。
「これは、なかなか個性的なお味ですね」
もはやお馴染みとなったノアである。
「あ——っ! もう、またあなたなの!? 毎回毎回邪魔するのやめてよね! それにこれはアルにあげようと頑張って私が作ったもので」
「ところで味見はされましたか?」
「それは、その、してないけど」
「それはいけません。誰かに贈るつもりでしたら、きちんと味は確かめなければ」
「なによ、ちょっと色は悪いけど、味は多分美味しいと思うわよ!? あなただってさっき美味しいって言ってたじゃない!」
「個性的なお味、です。個人的な感想を申し上げるのでしたら、もう少し改良すべき点があるのではないでしょうか。よろしければお手伝いさせていただきますけれど」
「っ、絶対に美味しいに決まってるんだから!」
悔しそうにミーアが自分の作品を口に運ぶが、入れた瞬間すぐにハンカチに吐き出した。
「な、なにこれっ、苦っ、いえ、それ以前にまずい……」
けれどここで気付く。
ミーア本人ですらすぐに吐き出したそれを、ノアはしっかりと味わうように食べてくれていた。
その上、ミーアを気遣ってかはっきりとまずいと言わず、美味しくできるように手伝ってくれるとまで。
しかも、残してはもったいないと言わんばかりに自身の指に付いたクッキーの残りかすまでぱくりと口にした後、ハンカチで指と口元を拭う様は、何とも言えない色気が駄々洩れしていた。
当然見ていた観客は色めき立ち、ミーアもまた色香に当てられへなへなとその場に崩れ落ちた。
「ノア」
「なんでしょうか殿下」
「ミーア王女からは、俺が君を守るつもりでいたのだが、逆になってはいないか?」
「よろしいではありませんか。幸いとでも言いましょうか、王女殿下は育てられ方を間違えただけで、根は素直で可愛らしいお方です。このままいけばいずれ彼女とも仲良くなれるでしょう。……それとも、私の介入はご不満ですか?」
ノアのお陰でアルシオンはミーアの攻撃から守られているので、助かっていることは事実だ。
だから素直にアルシオンはノアへの感謝の意を伝えつつ、彼女を守り切れない自分の不甲斐なさに微かに項垂れる。
と、ノアは周りの生徒達にバレないよう彼の背中に腕を伸ばすと、後ろに回されていたアルシオンの手を軽く握る。
そして驚いたように目を丸くするアルシオンに、彼にしか見えない角度で、拗ねたように少しだけ唇を尖らせた。
「殿下が、ミーア王女殿下が私に害を加えないようにと頑張ってくださっていることは、嬉しく思っております。ですが私だって、好きな方はこの手で守りたいのです」
他の人には見せない、アルシオンにだけ見せるノアの姿に、ここが公衆の面前だということも忘れて腕の中に閉じ込めたい衝動に駆られるが、アルシオンは必死の思いで我慢をした。
相変わらずノアには敵わないなと思いながら。
○○○○
ミーアは、他の女子生徒と同様に、確実にノアに心を揺さぶられているのは傍目にも分かった。
数多くの乙女たちの心をかっさらっていくノアに複雑な心境ではあるが、彼女が傷付けられることがないなら、それに越したことはない。
しかし、それで事は終わらなかった。
「あなたはやっぱりひどい人だったのね!」
登校すると、隣のクラスであるノアの教室の方が騒がしい。
ジェルスを伴い向かえば、そこには涙ぐむミーアと、普段と変わらない表情を浮かべ、ピンと背筋を伸ばして立つノアの姿があった。
「ノア! 一体何があったんだ?」
見物客と化している生徒を押しのけ慌ててノアの元へ駆け寄ると、ミーアが待ってましたとばかりに上ずった声を上げる。
「ちょうどいいところに! ねえ、アル、このブローチを見て! お父様からもらったブローチがないって今朝からずっと探していたら、まさかのノアの机の中にあったの!」
彼女の言うように、ノアの机の上にはダルビアンの王家の紋章と思しきものが裏側に彫られたブローチがあった。
すると、普段からミーアの後ろに幽霊のように立っているだけで、彼女のストッパー役にもならない侍女たちの内の一人が、おずおずと声を上げた。
「わ、私は、確かに見ました。フローレンス様が王女殿下の鞄からこのブローチを盗み、ご自身の机の奥にしまい込むところを」
だが、しかし。
アーノルドは黙って腕を組んだまま、じっとブローチを見つめる。それだけで、これが全て作り話だと分かった。
なんて浅い手でノアを陥れようとしているんだ……。もはや呆れて言葉が出ない。
ノアの方を見ると、彼女は微かに微笑んだ。
ノアも分かっているのだ。これがミーアの自作自演であり、その証拠がまさに目の前にあるブローチだと。侍女の証言も虚偽だろう。
加えて、ノアは朝学園に足を踏み入れたその瞬間から授業が始まるまで、常に多くの生徒達に囲まれている。一人になる時間はなかったと証人もいくらでも出てくるはずだ。
実際によくノアと一緒にいる友人たちが、違うと言いたげに首を横に振ってアルシオンに訴えかけている。
アルシオンは額を押さえ、ため息を吐く。
再びノアに首を向けると、彼女の目は、このくらいは自分で対処いたしますのでご安心を、と言っていた。
けれどその時だった。
ミーアがいきなり強くノアの腕を掴んだのだ。それはアルシオンにすら見えないほどの速度で、気付いた時にはノアの白い腕が赤くなるほどに、ぎゅっと握られていた。
ミーアは勝ち誇った笑顔でノアを罵る。
「言い逃れはできないわよノア! さあ、さっさとその罪を白状して、自分のような愚かで卑劣な女はアルの婚約者にふさわしくないって認めなさいよ!」
その瞬間、アルシオンの視界が怒りで赤く染まる。
…………誰が愚かで卑劣だと?
アルシオンに突っ込んでくる分にはまだいい。
しかし、ノアを直接害そうとする行為には耐えられない。
「────おい、離せ」
父親である陛下と同じく、滅多に怒ることのないアルシオンから落とされた地の底を這うような低い声に、教室全体が凍り付く。
あまりの迫力に思わずミーアの手がノアから離れ、その隙にノアを自身に引き寄せたアルシオンは、手の痕がうっすらと残ったノアの腕を、優しくなぞる。
「大丈夫かノア。痛みは?」
「ございません。このくらい平気です」
その答えに僅かに安堵した表情になったが、すぐに彼はミーアへと視線を戻す。
普段は穏やかな青の瞳は怒りを示すように黒く陰り、ミーアだけでなく、彼の視線をもろに喰らった侍女たちも、青褪めて震えだした。
アルシオンは一歩前に出ると、机上のブローチを手に取り、細部まで確認を終えたら鼻で笑った。
「な、なにがおかしいのよアル」
「これが笑わずにいられるものか。王女殿下、これは本当に陛下から贈られたブローチに間違いはないと?」
「ええそうよ!」
「では、王家の紋章が偽物なのはどう説明をされるおつもりで?」
「!? に、偽物? そんなわけ」
「ダルビアンの紋章にある獅子は右向きのはずだが、これは左向きになっている」
「あっ……」
「それにこの中央に嵌められた宝石も、偽物だ。本物ならば太陽光が当たると中の色合いがわずかに変化するが、これはそれが見られない。素人でも見分けられるほどの粗悪品だ」
ミーアの顔色が途端に更に青くなる。
だが構わず、アルシオンは先ほど証言をした侍女をじっと見つめる。強烈な怒りのオーラを放つ姿に、侍女は耐え切れなくなったのかあっさりと口を割った。
「も、もも、申し訳ございません! 王女殿下のご命令で、似たようなものを探し、紋章を彫り、フローレンス様の机の中に入れました……!」
「私の侍女でありながら裏切るつもり!?」
侍女たちはミーアに逆らえないのだろう。そんなことをすれば本国に戻った際、手厳しい仕置きでもされるといったところか。
けれど、アルシオンの怒りを前にしては、嘘をつき通すことはできなかったようだ。
愕然とその場に座り込むミーアに、アルシオンは冷たい声を浴びせる。
「王女殿下。王族の威光を盾に、無理やり侍女に犯罪に加担させ、罪なき人間を貶めようとする────民の模範となるべき王族として、これは最も恥ずべき行為だ」
「そ、そんな、私そこまで大事にするつもりじゃなくて、ただアルに私だけを見てほしくて」
「その稚拙な考えがこの状況を生み出したんだ。今の王女殿下はあまりにも滑稽で見苦しい。祖国の恥を晒しているようなものだ。ましてノアは次期国王となる俺の婚約者だ。ノアを陥れようとしたことは、未遂とはいえ、我が国の王冠を汚すことに等しい。意味が分かるか? 君は今、このエルディア国を侮辱したんだ」
アルシオンの声は静かだったが、その静けさは嵐の前の海よりも恐ろしいものだった。
そして彼は怒りを解くことなく、己の拳を固く握りしめ、一切の迷いのない声で続けた。
「この行いを許すことはできない。よって俺はダルビアン国に正式に抗議し、愚かな真似をした王女殿下に厳罰を望む旨を伝える」
ミーアがはっと顔を上げる。ノアも驚いたように目を見張った。
もし抗議をすれば、この一件が記録として残ってしまう。それはつまり、ダルビアン王国が王族教育に失敗したと、暗に諸外国に知らしめるようなものだ。
それを受けたダルビアン国王の怒りを買うことは必至だ。たとえそれが事実であろうとも。
ということは外交問題に発展し、両国の関係が悪化する可能性が極めて高くなる。
アルシオンならばもっと穏便に事を済ませる方法も思い付くはずだ。
けれどそれを望まないほどに、ノアを傷付けられたことに彼はキレていた。彼女を愛する者としても、この国の王族としても。
ジェルスがなんとか怒りを押しとどめるようにと目線で抗議してきたが、アルシオンはそれを無視した。
しかし、アルシオンの怒りに呑まれ、誰も何も言えず緊迫した空気が流れる中、ただ一人それに動じることなく動きを見せた。
「アルシオン殿下」
ゆるやかに声を上げたのは、ノアだった。
その声は澄んでいて、まるでアルシオンの怒りの熱を和らげるようだった。
彼女の声は湖にぽつりと落ちた一滴の雫のようにその場に波紋のように響き渡る。
「もう、よろしいのです」
「ノア……」
隣に佇むノアの表情は穏やかだった。その瞳には、怒りも悲しみもなく、ただアルシオンへの感謝の気持ちだけが浮かんでいた。
「王太子のお立場として、そしてアルシオン殿下個人として私のために怒ってくださったこと、感謝しております。ですが────公式に抗議してしまえば、国の争いの火種になりかねません。王族として誇りを守られるのであれば、赦しこそが正しい道だと私は考えております」
「だが君が傷付けられそうになった事実に変わりはない」
「ええ。それでも私はミーア王女殿下を赦したいのです」
アルシオンの怒りを正面から受け止め、ノアはまっすぐに己の想いを告げた。
「以前にも申し上げましたが、ミーア王女殿下は、根は素直で可愛いお方です。正しく導けば、王女殿下はきっと立派な女性になることでしょう。それに、王女殿下は自分のした行いについて十分に反省しているように見受けられます。これ以上の罰は不要かと。────そうですよね、王女殿下」
「っ、ひっく、ご、ごめん、なさい、わた、私が悪かったんです……!」
「…………」
ミーアが涙を流して泣く姿など、アルシオンは初めて見た。まるで小さな子供のようで、とても十六には見えない。
けれどそうさせたのは、父親からの過剰なまでの愛情なのだろう。導く者も叱る者もたしなめる者もいなければ、ミーアのように育つのはある意味当然と言える。
だが、彼女は今、きちんと己の非を理解しているようだった。ならばノアの言うように、更生の余地がある。
それならばこの場では穏便に済ませる方がいい。ましてノア本人がそれを望むのであれば。
……それに、公式には抗議せずとも、方法はいくらでもある。
アルシオンの握られた拳がゆっくりと緩む。怒りの熱が、胸の中でゆっくりと形を変えていくのを感じた。
アルシオンは深く息を吐き、静かに頷いた。
「分かった。抗議はしない。だが────俺の中で君がノアを傷付けた事実は消えない。二度目はない。その時は一切の容赦はしないからな」
アルシオンから赦しの言葉を得て、ミーアは涙ぐみながら何度もアルシオンとノアに頭を下げた。
そんなミーアにノアは緩やかに歩み寄る。
その姿は気高くも美しく、なにより慈悲に溢れていた。ノアはミーアの前で膝を折ると、視線を合わせる。
「ミーア王女殿下、人は間違える生き物です。けれど大事なのはその後どう生きるかだと、私は思います」
「ノア、本当に、ひっぐ、ごめんなさいっ、わたし、あなたになんてひどいことを」
「ええ。けれど私は王女殿下を憎んでおりません」
ノアは微笑んだ。しかしそれはアルシオンの婚約者という立場を守り切った勝者としての喜びを表すものではなく、誰かを支え導く者の笑みだ。
「きっと王女殿下は今までたくさんの愛情を受けて育ってきたのでしょう。しかし、王女である以上国を背負う立場にあります。軽率な発言も過ちも、たとえ小さなものであってもそれが命取りになる、そんなお立場です」
「ノア、私、ひっく、これまで間違っていたのね。今になって、ようやく分かったわ。私は、王女としても人としても、み、未熟だったって……」
「大丈夫です、間違いに気づける人は必ず変われます」
ここでノアは言葉を区切ると、ふっと柔らかく笑った。
「王女殿下。もしよろしければ、私とお友達になりませんか? そして王女殿下が再び過ちを犯しそうになれば、この私が友人として必ず止めてみせます」
「っ、あ、あんなことをしたのに、なんでそんなに、優しいことを言ってくれるの?」
「同じ人を好きになった同士ですから。それに、私はミーア王女殿下のことは好ましく思っているんですよ? ですから────私と友人になってください」
そう言ってノアから手を差し出され、ミーアの涙腺は完全に崩壊した。
「ノ、ノア……ノアお姉様ぁぁぁっ!」
可愛い顔を全て台無しにするほどに号泣するミーアを、ノアは優しく胸に抱き止め頭を撫でる。
その様子を、また一人ノアの手に落ちたなと思いながらアルシオンは眺めていた。
「相変わらずノアの魅力はすさまじいな。まさかあのミーア王女殿下まで陥落させるとは」
するといつの間に背後に回っていたジェルスが、耳元で小さく呟く。
「これが今回の最良だったと思われます」
「頭では分かっているんだがな。……しかし複雑な心境ではある」
「おや、殿下を好いていた異性がフローレンス嬢に寝返った嫉妬ですか?」
「俺とノアとの時間がまた減りそうだという話だ」
「ただでさえフローレンス嬢が多くの生徒に取り巻かれているせいで、学園ではなかなか二人きりになれていないですからね」
それでも、己の下した選択はきっと間違っていなかったと、アルシオンはそう確信していた。
○○○○
────事件の起きたその日の夕方。
執務室に入ると、アルシオンは潔く頭を垂れる。
ミーア来日を聞かされた前回同様、中にいたのはザルスとナターシャだけだったが、部屋の空気感はまるで違っていた。
「かけなさい、アルシオン」
ナターシャの固い声に、失礼しますと小さく声を出すと二人の正面へと腰を下ろす。
着席して早々、ザルスはすぐに本題へと入った。
「……フローレンス嬢とミーア王女殿下の件についてだが、既に報告は受けている」
「はい」
「ミーア王女殿下が我が国の次期王妃であるフローレンス嬢を陥れようとしたと聞いた。アルシオン────お前はそれを『見逃した』そうだな」
アルシオンは姿勢を正す。ザルスの声音は静かだが、底に怒りがあった。
だが、それを受けてもアルシオンは臆することなく答える。
「はい、間違いありません。ノアが赦してほしいと。王女殿下から直接害されそうになった本人が俺にそう言いましたので」
「赦す、か」
しばしの沈黙が場を制す。やがて、ザルスの目がアルシオンを鋭く射抜いた。
「お前はそれでいいのか。学園内とはいえ、王太子として、お前自身の気持ちとして婚約者を侮辱した者を簡単に赦すなどと」
「怒りは見せました。あの場にいた者は、我が国は隣国には屈しないと理解できたはずです。俺のノアへの愛情も同様に示せたかと」
息子の言葉に、陛下は目を細める。
「ほう、随分と自信があるな」
「ノアが止めなければ本気で正式に抗議をするつもりでした。ですがノアは、赦すことこそ最も効果的だと考えたようです」
「で、結果は?」
「ミーアは慈悲深いノアの言葉に心を打たれ、二度と愚かな真似はしないと誓いました。あの言葉に嘘はないでしょう」
「それだけか」
「ノアがミーア王女殿下の非を咎めず抗議は見送った、という行為は、形式上ダルビアンに貸しを作ったことになると俺は考えます。これは国交や貿易の交渉で優位に立つための材料になるかと」
「なるほど。他にはないか」
「……ミーア王女殿下ですが。これはノアの魅力を考えれば大いに予想できたことではありますが、今日の昼休みに早速ノアに花束を贈っていました」
「……花束?」
「はい。『ノアお姉様への親愛の証』とかなんとか叫んでいました」
「……親愛の、証?」
「詳しくはこちらの報告書を」
アルシオンが手にした冊子をテーブルに置く。半日の間でまとめたものだ。
ナターシャはそれを手にするとパラパラとめくり、まあ、と微かに笑っていた。
そして隣からそれを覗いていたザルスは、纏っていた重い空気を霧散させ、おもむろに眉間を押さえる。
「お前の婚約者は、なかなかに恐ろしい娘だ」
「ノアは人たらしの才がありますので」
「お前も苦労しているようだな」
アルシオンに苦笑が漏れる。しかしその顔は幸せそうでもあった。
けれど、
「して、本当にこのまま、ダルビアンには一切の抗議はしないのか?」
とザルスから質問されると、その笑みが形を変える。
「公式な抗議は行いません。ですが」
そしてアルシオンは懐から一枚の封書を取り出す。
「現在はダルビアン王都郊外に居を構えるレイス大叔父上宛に、あくまでも個人的に、今回の件について認めた手紙を送ります」
レイス────それはつまり、ダルビアンの現陛下バレッドの父親である。
アルシオンはレイスとは個人的に何度も会ったことがあり、手紙もたまにやり取りしている。
そしてレイスの影響力は前女王陛下が亡くなって尚未だに衰えず、ダルビアンの要人たちが密かに頭を下げる存在だ。一人息子であるバレッドも同様に頭が上がらない。何らかの動きは見られるだろう。
「表向きには赦します。けれど裏では筋を通させてもらいます。それが次代の国を背負う俺の責任ですから」
アルシオンの言葉に、ザルスは深く頷いた。
「そうか。お前たち二人が導いてくれるのならば、この国も安泰だろう」
「ありがとうございます」
そう言うと、話は終わったとばかりにアルシオンは立ち上がり、頭を下げると扉を出る。
その背に王の声が届いた。
「アルシオン……いい相手を伴侶として選んだな」
アルシオンは振り向き微笑みでその言葉に答えると、同時に扉が静かに閉じる。
そして彼の迷いない足音が、静かな回廊に響いて消えた。
○○○○
王立学園の中庭には、もう間もなく冬の始まりを告げる風が吹いていた。
花壇に植えられたこの季節にだけ咲く白い花の花弁が揺れる中、木陰のベンチに腰かけているのは二つの影。
一つはいつものように穏やかな表情を浮かべ、金の髪を揺らす端正な顔立ちの青年。
もう一つはミーア王女がやってきた頃よりもわずかに伸びた銀の髪をさらりとなびかせ、今日も凛とした横顔を見せる中性的な美貌の女子生徒だ。
「殿下。手紙の件、聞きました」
久しぶりに学園で過ごす二人の時間を噛みしめていると、聞こえてきたノアからの言葉に、アルシオンは軽く肩をすくめる。
「悪く思わないでくれ。約束通りダルビアンに正式な抗議はしていない。ただ俺は尊敬する大叔父上殿に、世間話を交えて起こったことを認めて送っただけだ」
「ええ、分かっております」
ノアは小さく笑った。
「それで、どのような結果になったのですか?」
「ああ。……大叔父上は俺からの手紙を読んだあと、怒り心頭で城に乗り込んだらしい」
「あら、それはまた、大変な騒ぎになったでしょうね」
「前王配であるレイス殿の襲撃……いや、来訪だとバレッド陛下が青褪める中、威圧感たっぷりの大叔父上が『お前、娘の教育を間違えたな?』と言って、それから三時間ほどみっちり説教をしたと」
その説教の後、ミーアがあのように育ってしまったのは、全て父親であるバレッドの過度なまでの甘やかしが原因だからということで、レイスは息子に『娘断ち』を命じた。
具体的にはミーアの留学期間を、彼女がこの学園を卒業するまでの二年半に延長すること、その間のミーアの帰国禁止、面会禁止。
ミーアはその二年半、彼女を甘やかす者のいない他国で世間を学ぶ必要があると、レイスが判断したのだ。
このことは事前にレイスからこの国に話があったので、問題はない。
その間にミーアからは定期報告書が送られてくることになったが、読むのはレイスであり、バレッドは手紙に触れることも、当然直接のやり取りも許可されない。
徹底的なまでの娘断ちである。
しかしバレッドは、今回の件は全て自分の娘への接し方が原因だと分かっていたので、泣く泣くすべて受け入れたと。
「大叔父上曰く、娘断ちは相当効いてるみたいでな」
「あのお方にはそれが一番堪えることでしょうね」
「加えて、ミーア王女殿下が留学を終えて帰ってきた際、甘やかせて娘をダメにしないようにと、大叔父上が一からバレッド陛下を、良き父親になるために教育をし直すのだそうだ。……陛下が娘に甘くなってしまったのは、亡き妻の忘れ形見だからな。心情的には理解できるが、それだと娘の為にもならないからと」
レイスが息子にスパルタだったのは有名な話だ。故に未だに父親に頭が上がらない。
ノアを苦しめた罰としては生ぬるいと思わなくもないが、今回は未遂で済んだので、鬼教官のようなレイスにビシバシとしごかれるバレッドの様子が書かれた手紙を読んで、溜飲を下げることにした。
一方で娘のミーアはというと。
「ノアお姉様ぁぁぁっ!」
ちょうど手紙の内容を話し終えたタイミングで、遠くから小さな影が、全力で駆け寄ってくる。誰がやってきたのか、はっきり姿が見えなくとも明白である。
アルシオンがわずかに口角を上げると、ノアは軽くため息をついたものの、同じように彼女の口元も微笑んでいた。
ノアはその場で立ち上がると、優雅にスカートの裾を持ち、手本を見せるように完璧な礼をとって見せる。
「ごきげんよう、ミーア王女殿下」
すると、目の前にやってきて今にもノアに飛びつきそうになっていたミーアは、何かに気付いたようにぴたっと止まる。
「はっ……そ、そうでした!」
そして背筋を伸ばし、スカートの裾を美しく摘まむと、今度は打って変わって落ち着いた声色で言った。
「ごきげんよう、ノアお姉様、アルシオン殿下」
まだまだ完璧とは言えないが、ノアはミーアの姿を見て目を細め、優しい口調で褒める。
「とてもお上手ですよ、ミーア王女殿下。昨日よりも格段に美しくなりました」
「っ! やった、ノアお姉さまに褒められた……!」
ミーアの顔が、ぱっと花が咲いたように明るくなる。
その様子を見ながら、アルシオンは、本当に変わったものだなと心の中で感慨深げに呟く。
かつては我儘放題で誰の手にも負えず、周囲に迷惑をかけてばかりだった王女は、今では、赦してくれたノアとアルシオンの顔に泥を塗りたくない、という理由で、他国での学園生活を誰よりも真面目に送っている。
特にノアに対しては、忠誠とも恋慕ともつかない親愛の情を抱いており、一言で表すと非常に懐いている。
そしてアルシオンには以前のような感情は持たず、助けられた感謝と尊敬を寄せてくれている。
もしもあのままアルシオンが抗議をしていれば、こんな未来はなかっただろう。赦しを得たミーアは確かに更正しつつある。
「ところでミーア王女殿下。私に何か用があったのではありませんか?」
と、ノアがミーアの手に握られた教科書に視線を落としながらそう尋ねると、ミーアは少しばつの悪そうな表情を浮かべる。
「あ、ええっと、実は分からない問題があって、ノアお姉さまに、その、教えてほしいなって思ったんだけど……私、お邪魔だよね?」
ちらりと蜂蜜色の瞳をアルシオンに向けた後、しゅんと肩を落とすミーア。
アルシオンの予想通り、ただでさえ二人で過ごせる時間は大幅に削られている。
だがアルシオンは微かに首を振り、ノアに視線を送ると、ノアは応えるように小さく頷き、ミーアに声をかけた。
「構いませんよ。向上心があるのはいいことですから。私で良ければ力になります」
「本当に!?」
「ええ」
「だけど、ノアお姉様を取り上げたらアルシオン殿下が嫌なんじゃ」
「このようなことで目くじらを立てるようなお方ではありません」
ノアがそう言うと、ミーアは途端に笑顔になる。
そして二人に深々とお辞儀をすると、図書室で先に待ってるねと言いながらそちらの方へ去っていった。
「……本当に、あのお方は変わられましたね」
「ノアのお陰だろう」
「いいえ。私の我儘を聞き届けてくれた、殿下の────アルのお陰です」
そう言うとノアは柔らかく微笑んだ。
皆に囲まれている時の彼女ではない、アルシオンの前でだけ見せる特別な笑顔。
アルシオンはその笑顔と言葉に胸がくすぐられ、少し言葉に詰まる。
「……君は本当にずるい人だ。何でもない時に俺の名をアルと呼び、こうして無邪気に笑いかけてくる」
「あら、ずるい女はお嫌いですか?」
「分かっていて聞いているだろう」
答える代わりに、悪戯っ子のような笑みを浮かべたノアの手が、そっとアルシオンの手に触れる。
その瞬間、アルシオンの中に、以前ノアに奪われたキスの記憶が蘇る。ジェルスの目を盗んで不意打ちのキスをしていった、あの男前なノア。
ノアに振り回されるのは嫌いではない。だが、たまには動揺する彼女を見たい。
いつかあの仕返しをしたいと思っていたアルシオンは、ノアの手を強く握ると、歩みを止めてノアを引き寄せる。
「ノア」
「はい?」
ゆっくりと顔を上げたノア。誰よりも凛として美しい、恋しい人の顔。
アルシオンはその頬にそっと触れると、今度は自分から、迷いなく唇を重ねた。
時間にしてほんの数秒ほどだが、何をされたか分かったノアは、驚いたように目を見開き、珍しく頬を真っ赤に染めた。
「アル……?」
「この前の仕返しだ」
仕掛けた本人もわずかに照れながらも、アルシオンはノアにしか見せない顔で微笑む。
「こんなに照れた顔を見られたのは初めてだな。これからもそういう顔を見せるのは俺だけにしてくれ、ノア」
ノアは恥ずかしそうに視線を逸らし、けれどその口元は微かに笑みを浮かべながら答えた。
「……アルはずるい方ですね。こんな顔を見せるのは、アルの前だけに決まっています」
「ずるいのはお互い様だ」
「それもそうですね」
そう言った後、互いに小さく笑い合いながら、二人の距離が再びそっと縮まった。
────その少し離れた場所では。
「あ——っ、見てみて! まるで一枚の絵画みたい!
美しすぎる……」
「ミーア王女殿下、あまり大きな声を出さないで下さい。二人に気付かれます」
「というかどうしてジェルス様がここにいるの?」
「殿下を呼びに来たらたまたま出くわしてしまったんですよ。以前うっかり邪魔してしまったら後でものすごい顔で睨まれましたから。今日は邪魔をしないようにしようと思いまして。あなたこそどうしてここに?」
「ペンを落したから拾いに戻ったの。でも落としてよかった。……はぁ、二人のキスシーン、尊いわ」
という会話をしながら二人が覗き見していたのだが。
そのことに気付き、アルシオンが悲鳴を上げながら真っ赤な顔になるのは、もう少し後の話である。




