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第九章:十二月 雪と聖夜の幻影

 十二月。


 オカナガンの谷は、深い雪に覆われ、静寂に包まれた。太陽は低い軌道を描き、日照時間は短く、灰色の雲が空を覆う日が多い。アガサの家も、屋根や庭が厚い雪の層で覆われ、まるで世界から切り離された孤島のようだった。しかし、家の中は暖炉の火が絶えず燃え、温かく、外界の厳しさとは対照的な、穏やかな空気が流れていた。


 アガサは、もうほとんどベッドか、窓辺のロッキングチェアで過ごすようになっていた。身体を動かすことはますます億劫になり、食事も少量しか喉を通らなくなっていた。


 しかし、彼女の表情は驚くほど穏やかで、時には子供のような無垢な微笑みを浮かべることさえあった。彼女の意識は、もはやこの地上の現実よりも、夢と幻が織りなす内なる世界に深く浸っているようだった。


 暖炉の火を見つめていると、揺らめく炎の中に、アーサーの姿だけでなく、これまでにはなかった、不思議な光の影が見えるようになった。それは、明確な形を持っているわけではない。金色や銀色の、柔らかな光の粒子が集まったような、あるいは、透き通るような羽を持つ存在の気配のような……。


「あれは、誰かしら……?  アーサー」


 アガサが、隣にいる(と感じる)アーサーに尋ねると、彼の優しい声が答えた。


「あれは、君を迎えに来てくれる天使たちだよ、アガサ。まだ少し早いから、遠くから見守ってくれているんだ」


「天使たち……? まあ……」


 アガサは、畏敬の念と、子供のような好奇心で、その光の影を見つめた。恐ろしさは全く感じなかった。むしろ、その光は温かく、心を安らげる力を持っているように感じられた。


 動物たちとの会話も、より深く、魂のレベルでの交感へと変化していた。彼らは、アガサの言葉にならない思いや、身体のかすかな痛みさえも理解し、寄り添い、慰めた。


「アガサ、寒くないかい?  僕の毛皮で温めてあげようか?」


 老犬チャーリーが、そっとアガサの足元に寄り添いながら言った。

 その声には、深い労りと愛情がこもっていた。


「ありがとう、チャーリー。あなたたちがそばにいてくれるだけで、十分温かいわ」


 アガサは、弱々しい手で、彼の頭を撫でた。


 猫たちも、代わる代わるアガサのベッドに上がり、彼女の身体に寄り添って眠った。彼らのゴロゴロという喉の音は、まるでヒーリング音楽のように、アガサの心を落ち着かせた。


「アガサの魂は、日に日に美しく輝きを増しているわね」


 シャム猫のジンジャーが、眠っているアガサの顔を見つめながら、他の猫たちに囁いた。


「ああ、まるで純粋な光のようだ」


 黒猫のシャドウが同意した。


「もうすぐ、お別れの時が来るのかもしれない……。寂しくなるけど、でも、アガサが幸せなら、それが一番だ」


 白猫のスノーウィが、小さなため息をついた。


 彼らは、アガサの旅立ちが近いことを、本能的に悟っているようだった。


 クリスマスが近づくと、メアリーは、アガサの家にもささやかなクリスマスの飾り付けをした。暖炉の上にはヒイラギのリースを掛け、窓辺には小さなクリスマスツリーを置いた。


「アガサさん、少しはクリスマスの気分を味わってほしくて」


 メアリーは、優しく微笑んだ。


「ありがとう、メアリーさん。綺麗ね……」


 アガサは、ツリーの小さな灯りを、ぼんやりと眺めていた。


 クリスマス休暇に入り、リリーがバンクーバーからやってきた。雪深い中、バスを乗り継いで祖母の家に着いた時、彼女はアガサの衰弱ぶりに胸を衝かれた。最後に会った夏とは比べ物にならないほど、祖母は痩せ、小さくなっていた。


「おばあちゃん……!」


 リリーは、思わず駆け寄り、ベッドに横たわる祖母の手を取った。その手は驚くほど冷たく、か細かった。


「……リリー?  よく来てくれたわね……」


 アガサは、ゆっくりと目を開け、孫娘を認識すると、かすかに微笑んだ。


 リリーは、数日間、祖母の家に滞在し、メアリーと一緒にアガサの世話をした。


 祖母は、起きている時間よりも眠っている時間の方が長く、目覚めている時も、意識はしばしば別の世界を彷徨っているようだった。時には、誰もいない空間に向かって、楽しそうに話しかけたり、穏やかに微笑んだりしていた。


 リリーは、最初は戸惑い、悲しみを感じた。祖母が、もう自分たちのいる現実から遠く離れていってしまうような気がして、怖かった。


 しかし、祖母のそばで過ごすうちに、リリーは、アガサが決して不幸ではないことに気づき始めた。むしろ、彼女は深い安らぎと、静かな喜びに満たされているように見えた。その穏やかな表情を見ていると、リリー自身の心もまた、不思議と落ち着いてくるのだった。


 クリスマスイブの夜。外は静かに雪が降り続き、世界はしんと静まり返っていた。暖炉の火がパチパチと音を立て、部屋を暖かく照らしている。アガサはベッドの上で、穏やかに眠っていた。


 リリーは、その傍らの椅子に座り、静かに祖母の寝顔を見守っていた。メアリーは、隣の部屋で仮眠をとっていた。犬たちと猫たちも、アガサのベッドの周りで静かに眠っていた。


 ふと、リリーは部屋の空気が変わったような気がした。暖炉の炎が、一瞬、明るく輝き、部屋全体が柔らかな金色こんじきの光に包まれたように感じられたのだ。そして、どこからともなく、美しい音楽のような、あるいは鈴の音のような、清らかな響きが聞こえてきた。


 リリーは息を呑んで、辺りを見回した。


 気のせいだろうか? しかし、その時、彼女は確かに見たのだ。眠っているアガサのベッドの周りに、淡い光を放つ、いくつかの人影のようなものが立っているのを。彼らは、穏やかな微笑みを浮かべ、アガサを優しく見守っているように見えた。その姿は、まるで古い宗教画に出てくる天使のようだった。


 リリーは、恐ろしさよりも、むしろ荘厳な、神聖な気持ちに打たれた。


 祖母は、本当に、あちらの世界の住人たちと交感しているのかもしれない。そして、今、この聖なる夜に、彼らが祖母を祝福しに訪れているのかもしれない……。


 リリーは、動くこともできず、ただその光景を見つめていた。光と音楽は、しばらくの間、部屋を満たしていたが、やがてゆっくりと薄れ、消えていった。後には、暖炉の火の音と、静かに降り続く雪の音だけが残った。アガサは、変わらず穏やかな寝息を立てていた。その顔には、夢の中で何か素晴らしいものを見ているかのように、至福の微笑みが浮かんでいた。


 リリーは、涙が頬を伝うのを感じた。それは、悲しみの涙ではなかった。祖母が、孤独や苦しみから解放され、愛と光に満たされた世界へと旅立とうとしていることへの、安堵と、畏敬の念から来る涙だった。


 クリスマスが過ぎ、リリーはバンクーバーへ帰っていった。別れ際、リリーは祖母の手をしっかりと握りしめた。


「おばあちゃん、ありがとう。また来るね」


「ええ、リリー……。あなたは、私の大切な宝物よ……」


 アガサは、かすれた声で言った。それが、二人が交わした最後の直接的な会話になることを、リリーは予感していた。


 十二月の終わり、アガサの世界は、もはや現実と幻想の区別なく、聖なる光と、愛する者たちの気配に満たされていた。彼女の魂は、地上での最後の時を、深い平安の中で静かに過ごしていた。雪に覆われた庭は、来るべき春の再生を待ちながら、今はただ静かに眠りについていた。


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