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第八章:十一月 初霜と暖炉の火

 十一月。


 オカナガンの谷に、冬の最初の使者である霜が降りた。朝、アガサが窓の外を見ると、庭の草木や地面が、白い薄化粧を施したように、キラキラと輝いていた。空気は鋭く冷え込み、吐く息は白く染まる。庭の木々はすっかり葉を落とし、寒々とした枝を空に伸ばしていた。生命の活動が静まり、大地が長い眠りにつく季節が訪れたのだ。


 アガサは、ほとんどの時間を家の中で過ごすようになった。外出するのは、よほど天気の良い日の短い散歩か、メアリーが車で買い物に連れて行ってくれる時くらいになった。

 家の中では、暖炉に火が焚かれるようになった。パチパチと音を立てて燃える薪の炎と、その暖かさが、アガサにとって何よりの慰めとなった。彼女は、ロッキングチェアに深く腰掛け、毛布にくるまりながら、何時間も暖炉の揺らめく炎を見つめて過ごすことが多くなった。


 暖炉の火は、単に身体を温めるだけでなく、アガサの心を別世界へと誘う入り口のようでもあった。炎の揺らめきの中に、様々なイメージが浮かび上がっては消えていく。若い頃のアーサーとの思い出、娘のキャサリンの笑顔、そして、光に満ちた穏やかな場所で、アーサーが両手を広げて待っている情景……。


 現実と夢、過去と未来が、炎の熱の中で溶け合い、アガサの意識を優しく包み込んだ。


 動物たちとの会話も、主に室内での静かなものになった。彼らは、アガサの体調の変化を敏感に察知し、寄り添い、気遣う言葉をかけてくれた。


「アガサ、今日は少し顔色が良くないね。無理しないで、ゆっくり休むんだよ」


 ゴールデンレトリバーのマックスが、心配そうにアガサの顔を覗き込んだ。


「ありがとう、マックス。大丈夫よ。ただ、少し眠いだけ……」


 アガサは、彼の大きな頭を優しく撫でた。


「僕たちがそばにいるから、安心して眠るといい」


 マックスは、アガサの足元にそっと身を横たえた。他の犬たち、猫たちも、まるで彼女を守るかのように、その周りに集まってきた。彼らの温かい体温と、静かな愛情が、アガサの心を穏やかに満たした。


 この頃になると、アガサは昼間でも、うとうとと眠ってしまうことが増えた。そして、その眠りの中で見る夢は、ますます鮮明で、現実味を帯びていた。


 夢の中では、彼女は若く、健康で、愛するアーサーと一緒に、光り輝く美しい庭園を散策していた。そこには、地上では見たこともないような、色とりどりの花々が咲き乱れ、小鳥たちが楽しげに歌い、優しい光がすべてを包み込んでいた。


「ここは、どこなの?  アーサー」


 夢の中で、アガサが尋ねると、アーサーは穏やかに微笑んで答えた。


「ここは、私たちの還る場所だよ、アガサ。もうすぐ、君もずっとここにいられるようになる」


 目覚めると、アガサは現実の、古びた家のリビングにいた。身体は重く、窓の外は曇り空が広がっている。しかし、夢の記憶は鮮やかに残り、彼女の心に言いようのない平安と、未来への静かな期待をもたらした。現実と夢の境界は、もはや彼女の中ではほとんど意味をなさなくなっていた。どちらもが、彼女にとっての真実の世界だった。


 メアリーは、アガサの衰えが日に日に進んでいることを感じ、心配を募らせていた。以前よりも頻繁にアガサの家を訪れ、食事の準備や身の回りの世話をするようになった。


「アガサさん、本当に大丈夫?  一人で暮らすのは、もう限界なんじゃないかしら……。リリーさんに連絡して、一度こちらに来てもらった方がいいかもしれないわ」


 メアリーは、思い切って提案した。


「ありがとう、メアリーさん。でも、大丈夫よ。私には、この子たちがいてくれるから」


 アガサは、足元に集まる犬や猫たちを指して、穏やかに言った。


「それにね、アーサーも、いつもそばにいてくれるのよ」


 その言葉を聞いて、メアリーは反論することができなかった。アガサの瞳は、一点の曇りもなく澄み渡り、深い確信に満ちていたからだ。


 この老婆は、自分たちには見えない世界と確かに繋がり、そこで安らぎを得ているのだ。メアリーは、医者やソーシャルワーカーに相談することも考えたが、アガサのこの静かな幸福を、外部の力で壊してしまうことを躊躇した。


 近所の人々の噂は、相変わらずだったが、以前のような好奇心や批判的な響きは薄れ、むしろ一種の諦観や、敬意のようなものが混じるようになっていた。


「マーティンさん、もう、あちらの世界に半分足を踏み入れているのかもしれないね……」


「うん、なんだか、見ていると、こっちまで心が洗われるような気がする時があるよ」


「無理に現実に引き戻すよりも、あのまま、穏やかに過ごさせてあげるのが一番なのかもしれないね……」


 メアリーもまた、そう思うようになっていた。自分にできることは、アガサが望む限り、この家で、彼女の愛する者たちに囲まれて、穏やかに過ごせるように、そっと支えてあげることだけなのかもしれない、と。


 十一月の末、オカナガンの谷に最初の本格的な雪が降った。朝、目覚めると、世界は一面の銀世界に変わっていた。庭の木々の枝には雪が積もり、地面は厚い白い絨毯で覆われていた。静寂が支配する、美しい冬の景色だった。


 アガサは、窓辺からその景色を眺めていた。暖炉の火が、部屋を暖かく照らしている。犬たちは、珍しい雪景色に少し興奮しているようだったが、アガサのそばを離れようとはしなかった。猫たちは、暖炉の前の最も暖かい場所で、気持ちよさそうに眠っている。


 アガサは、言いようのないほどの静けさと、深い安らぎを感じていた。身体はますます弱り、起きている時間よりも眠っている時間の方が長くなっていた。しかし、心は澄み渡り、一点の不安もなかった。


 暖炉の炎を見つめていると、その中に、再びアーサーの優しい笑顔が見えた。彼は、手を差し伸べている。


「アガサ、もうすぐだよ。もう少しだけ、待っていておくれ」


 アガサは、静かに頷いた。はい、アーサー。待っていますわ。あなたと、また一緒にいられる日を。


 十一月の庭は、雪に覆われ、静寂に包まれていた。しかし、その静寂の下で、生命は眠り、春を待っている。アガサの魂もまた、この地上での役割を終え、次の世界への旅立ちの時を、暖炉の火の温もりの中で、静かに待っていた。



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