第七章:十月 紅葉と語りかける風
十月。
オカナガンの谷は、燃えるような紅葉の季節を迎えた。アガサの庭の木々も、メープルが深紅に、オークが黄金色に、そしてアスペンが鮮やかな黄色にと、見事な色彩で染め上げられていた。澄み切った秋空の青とのコントラストが、息をのむほど美しい。しかし、その美しさは、どこか儚さを伴っていた。鮮やかに燃え上がった葉は、やがて来る風に吹かれて散り、大地へと還っていく運命にあることを、誰もが知っていたからだ。
アガサは、ポーチのロッキングチェアに毛布を掛けて座り、この季節ならではの庭の絶景を眺めるのを好んだ。空気は日に日に冷たさを増し、時には鋭い風が吹き抜けて、木々の葉をざわめかせた。しかし、アガサにとって、その風は単なる自然現象ではなかった。それは、様々な場所からの便りを運び、目に見えない世界のメッセージを伝える、意思を持った存在の声のように聞こえたのだ。
「アガサ、アガサ……」
風が、彼女の名前を呼ぶように囁きかける。
「遠い山の向こうでは、もうすぐ初雪が降るだろう……」
「湖の水鳥たちは、南へ旅立つ準備を始めたよ……」
「そして、アガサ、あなたの魂もまた、新たな旅立ちの時が近づいている……」
風の声は、時に優しく、時に厳かに、アガサに語りかけた。それは、世界の様々な出来事を伝えるだけでなく、彼女自身の内なる変化や、迫り来る運命についても、示唆を与えてくれるかのようだった。アガサは、恐れることなく、その声に耳を傾けた。風は、まるで旧い友人のように、彼女の魂と対話していた。
アーサーの気配は、この頃になると、さらに強く、身近に感じられるようになっていた。以前は、ふとした瞬間に感じる程度だった彼の存在が、今は常にアガサのそばにあるように感じられた。時には、はっきりと彼の声が聞こえ、時には、彼の温かい手が自分の肩に触れるのを感じた。それは幻覚なのかもしれないが、アガサにとっては、何よりも確かな現実だった。
「アーサー、見て。今年の紅葉も素晴らしいわ」
アガサが、隣の空席に向かって話しかけると、
「ああ、本当に綺麗だね、アガサ。君と一緒に、こうして見られることが、何よりの幸せだよ」
という、優しい返事が聞こえてくる。二人の対話は、もはや心の中だけでなく、声に出して行われるのが普通になっていた。
花々や動物たちとの会話も、秋の深まりと共に、少しずつ変化していた。
「ああ、葉っぱが散ってしまうのは寂しいなあ……」
庭のメープルの木が、ため息をつくように言った。その声には、秋特有のメランコリーが漂っていた。
「でも、また春には新しい葉が出てくるのでしょう? 終わりは、新しい始まりでもあるのよ」
アガサは、慰めるように答えた。
「そうだといいね、アガサ。あなたの言葉は、いつも私たちに希望を与えてくれる」
メープルは、感謝するように枝を揺らした。
猫のジンジャーは、窓辺で外の景色を眺めながら、物憂げに呟いた。
「風が冷たくなると、なんだか昔のことを思い出すわ……。私がまだ小さかった頃のこと……」
「どんなことを思い出すの?」
アガサが尋ねると、ジンジャーはしばらく黙っていたが、やがて静かに語り始めた。
それは、彼女がまだ野良猫だった頃の、孤独で不安だった日々の記憶だった。
アガサは、黙ってジンジャーの話に耳を傾け、その小さな身体を優しく撫でてやった。
彼らの間には、言葉を超えた深い共感と信頼関係が築かれていた。
十月も半ばになった頃、リリーから電話があった。声は落ち着いており、大学の勉強も順調に進んでいるようだった。
「おばあちゃん、元気にしてる? 寒くなってきたでしょう」
「ええ、元気よ、リリー。ありがとう。そちらはどう?」
「うん、私も元気だよ。……ねえ、おばあちゃん。最近、時々、不思議なことがあるんだ」
「不思議なこと?」
「うん。なんていうか……おばあちゃんが言ってたみたいに、目に見えないものの気配を感じるような……。亡くなった友達のことを考えると、悲しいだけじゃなくて、なんだか温かい気持ちになる時があるんだ。そばにいてくれるような気がして……」
リリーは、少し戸惑いながらも、正直な気持ちを打ち明けた。
アガサは、静かに微笑んだ。
「そうでしょう、リリー。愛する人との繋がりは、目に見えなくても、決して消えたりしないのよ。あなたの心が、それを感じ始めているのね」
「……うん。おばあちゃんの話を聞いてから、少しずつ、そういう風に考えられるようになってきたのかもしれない」
リリーの声には、以前のような混乱はなく、むしろ静かな受容のような響きがあった。アガサの生き方や死生観が、知らず知らずのうちに、孫娘の心にも影響を与え始めているようだった。
アガサ自身の身体は、季節が進むにつれて、少しずつ衰えを見せ始めていた。
庭仕事をする時間は短くなり、家の中で座っていたり、横になったりする時間が増えた。関節の痛みを感じることも多くなり、立ち上がるのにも時間がかかるようになった。
しかし、身体的な衰えとは裏腹に、彼女の精神的な充足感は、ますます深まっていた。
内なる世界は、かつてないほど豊かで、平和だった。目に見えない存在たちとの交感は、彼女に孤独を感じさせる暇を与えず、常に愛と喜びに満たされた感覚をもたらしていた。
メアリーは、週に数回、アガサの家を訪れ、買い物や掃除などの手伝いをしていた。彼女は、アガサの身体的な衰えを心配しながらも、その精神的な輝きに、ある種の畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
「アガサさん、本当に……なんだか、聖母様みたいに見える時があるわ」
ある日、メアリーは思わず口にした。
「まあ、メアリーさんったら、大げさよ」
アガサは笑ったが、その表情は、確かにこの世のものとは思えないような、穏やかさと慈愛に満ちていた。
メアリーは、アガサが一人でいる時に、楽しそうに誰かと会話しているのを、何度も目撃していた。最初は心配で仕方がなかったが、今は、アガサが彼女自身の真実の世界を生きているのだと、受け入れ始めていた。それは、メアリー自身の常識や理解を超えた世界だったが、アガサがそこで深い幸福を感じていることは、疑いようがなかった。
十月の終わり、庭の木々は最後の輝きを放ち、葉を散らし始めていた。色とりどりの葉が、風に舞い、地面を覆い尽くす。それは、終わりの風景であると同時に、次の春への準備の始まりでもあった。
アガサは、窓辺からその光景を眺めていた。隣には、アーサーの温かい気配がある。足元には、猫たちが丸くなり、犬たちは静かに寝そべっている。風が、窓の隙間から囁きかける。
「すべては移ろい、すべては巡る……。アガサ、あなたもまた、大いなる流れの一部なのだよ……」
アガサは、静かに目を閉じた。
身体は重く、痛みも感じる。
しかし、心は軽く、どこまでも自由だった。紅葉が散りゆくように、自分もまた、この地上での生を終え、次の世界へと旅立つ日が近づいていることを、彼女は穏やかに受け入れていた。十月の庭は、美しさと儚さ、そして魂の静かな覚醒を映し出していた。