第六章:九月 林檎の収穫と移ろう季節
九月。
夏の猛威は過ぎ去り、オカナガンの空は高く澄み渡り、空気には爽やかで乾いた秋の気配が漂い始めた。アガサの庭では、季節の主役が交代し、豊かな実りの時を迎えていた。アーサーが丹精込めて育てた林檎の木々が、その枝をしならせるほどに、赤や黄色の実をつけていた。マッキントッシュ、ハニークリスプ、ゴールデンデリシャス……。太陽の光をたっぷりと浴びて熟した林檎たちは、甘酸っぱい香りを放ち、庭全体を豊穣の匂いで満たしていた。
アガサは、メアリーに手伝ってもらいながら、林檎の収穫作業にいそしんだ。高い枝の実はメアリーが梯子を使って採り、低い枝の実はアガサが一つ一つ丁寧に、まるで赤ん坊を扱うかのように優しく摘み取った。籠いっぱいに収穫された林檎を見ると、アガサの心は満ち足りた幸福感でいっぱいになった。それは、単なる収穫の喜びだけではなかった。種から芽吹き、花を咲かせ、実を結ぶという、生命の確かな循環を目の当たりにすることへの、深い感動があった。
「すごい量だね、アガサさん! 今年も豊作だわ」
メアリーは、額の汗を拭いながら、感嘆の声を上げた。
「ええ、本当に。アーサーが喜んでいるでしょうね」
アガサは、空を見上げながら穏やかに微笑んだ。彼女には、アーサーがすぐそばにいて、満足そうに頷いている姿が見えるような気がした。
収穫した林檎の一部は、メアリーや他の近所の人々にお裾分けした。残りは、アガサが時間をかけてアップルパイやアップルソース、保存用のジャムなどに加工していく。キッチンには、林檎とシナモンの甘い香りが立ち込め、それがまた、アガサに幸福な時間をもたらした。
庭の景色は、少しずつ秋の色合いを深めていた。夏の間、鮮やかな緑を誇っていた木々の葉が、黄色や赤みを帯び始め、朝晩の空気はひんやりと感じられるようになった。夏の花々は盛りを過ぎ、代わりにアスターや菊などが、落ち着いた色合いの花を咲かせ始めていた。
アガサの世界では、花々や動物たちとの会話も、季節の変化を反映したものになっていた。
「ああ、アガサ、少し肌寒くなってきたね。そろそろ冬支度を考えないと」
庭の隅で咲いていた遅咲きの薔薇が、少し寂しげな声で言った。その花弁は、夏の盛りの頃のような張りはなく、どこか儚げに見えた。
「そうね。あなたたちも、冬を越す準備をしないとね。でも、心配しないで。ちゃんと守ってあげるから」
アガサは、その薔薇に優しく語りかけた。
「ありがとう、アガサ。あなたの温かい心が、私たちにとっては何よりの毛布だよ」
薔薇は、感謝するように微かに揺れた。
犬たちも、夏の間のようにはしゃぎ回る時間は減り、日中は日当たりの良いポーチでうとうとしていることが多くなった。
「なあ、チャーリー。今年の冬は、雪が多いかなあ?」
マックスが、隣で寝そべっている老犬チャーリーに尋ねた。
「さあな。だが、どんな冬が来ようと、我々にはこの暖かい家と、アガサの愛情がある。それだけで十分ではないかな?」
チャーリーは、目を閉じたまま、静かに答えた。その言葉には、長い年月を生きてきた者だけが持つ、穏やかな諦念と叡智が感じられた。
猫たちは、ますます家の中で過ごす時間が長くなり、アガサの足元や膝の上、あるいは暖炉の前の特等席を占領していた。白猫のスノーウィは、アガサが編み物をしていると、その毛糸玉にじゃれつきながら、無邪気に話しかけてくる。
「ねえ、アガサ、その毛糸、あったかそうだね! それで、僕にも何か編んでくれる?」
「ふふ、あなたには毛皮があるでしょう? これはね、リリーに送るセーターなのよ」
アガサは、孫娘の顔を思い浮かべながら、編み棒を動かした。
近所の人々の間では、アガサに関する噂が、形を変えながらも続いていた。以前は「認知症」や「お迎え」といった言葉が多かったが、最近では、アガサの穏やかで満ち足りた様子を見て、少し違う見方をする人も出てきていた。
「マーティンさん、確かに一人で話しているようだけど……でも、見てると、すごく幸せそうじゃない?」
「そうなのよ。まるで、私たちには見えない誰かと、本当に楽しそうに会話しているみたいで……。もしかしたら、本当に、何か特別な力が……?」
「スピリチュアルな人って、いるじゃない? ああいう感じなのかしらね。私たち凡人には理解できないだけで」
もちろん、依然としてアガサの言動を奇異な目で見る人も多かったが、以前のような一方的な憐憫や不安だけでなく、畏敬や神秘性のようなものを感じる人も増えてきていた。
メアリーは、そんな近所の噂と、実際に目にするアガサの姿との間で、複雑な気持ちを抱えていた。アガサが、現実とは違う世界に生きているように見えるのは確かだった。花や動物と会話するなんて、常識的に考えればあり得ないことだ。しかし、アガサは決して混乱しているわけではなく、むしろ以前よりも精神的に安定し、幸福そうに見える。その事実を、メアリーはどう受け止めればいいのか、わからなかった。
「アガサさん、最近、本当に穏やかな顔をしているわね」
ある日、メアリーは、アガサと一緒にお茶を飲みながら、正直な気持ちを口にした。
「そう? ありがとう、メアリーさん」
アガサは、カップを手に、にっこりと微笑んだ。その笑顔には、一点の曇りもなかった。
「何か、特別なことでもあったのかしら? まるで、秘密の喜びでも抱えているみたいに見えるわ」
メアリーは、少し探るように尋ねた。
アガサは、しばらく窓の外の庭を眺めていた。赤く色づいた林檎の葉が、風に揺れている。
「特別なこと、というわけではないのよ」
アガサは、静かに言った。
「ただ……この世界が、以前よりもずっと豊かで、愛に満ちていることに気づいただけなの。目に見えるものだけが、すべてじゃないってことにね」
その言葉は、曖昧ではあったが、メアリーの心に深く響いた。アガサは、自分たちが見ている現実とは違う、もう一つの現実を生きているのかもしれない。そして、その現実は、アガサにとって、何よりも真実で、幸福なものなのだろう。
メアリーは、それ以上深く詮索するのをやめた。アガサが幸せなら、それでいい。たとえ、その幸せの形が、自分には理解できないものだったとしても。
九月の終わり、アガサは収穫した林檎で作ったアップルパイを焼き、メアリーと一緒に食べた。甘酸っぱい林檎と、シナモンの香りが口いっぱいに広がる。
「美味しいわ、アガサさん! お店のよりずっと美味しい!」
メアリーは絶賛した。
「ありがとう。アーサーも、このパイが大好きだったのよ」
アガサは、懐かしそうに目を細めた。彼女の隣の空席に、アーサーが座って、満足そうにパイを頬張っている姿が見えるような気がした。いや、気だけではない。確かに、彼の温かい気配を、すぐそこに感じていた。
季節は確実に移ろい、アガサの世界もまた、静かに、しかし確実に、次の段階へと移行しつつあった。庭の豊穣は、やがて来る冬の静寂を予感させ、アガサ自身の内なる世界も、目に見えない存在たちとの絆を深めながら、さらなる安らぎへと向かっていた。九月の庭は、収穫の喜びと、移ろう季節の哀愁と、そして見えない世界との交感が織りなす、不思議な光景を見せていた。