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第五章:八月 向日葵と午後の幻

 八月。


 オカナガンの夏は頂点を迎え、太陽は黄金色の光を惜しみなく大地に降り注いでいた。空気は乾き、草木はやや色褪せ始めていたが、アガサの庭の一角では、向日葵たちが空に向かって堂々とその大輪を掲げていた。


 アーサーが「太陽の花」と呼んで愛した向日葵だ。太い茎を真っ直ぐに伸ばし、子供の顔ほどもある大きな花は、まるで太陽そのものを地上に映したかのように、眩しい黄色で輝いていた。


 アガサは、日差しの強い日中は家の中で過ごすことが多くなった。ロッキングチェアに揺られながら編み物をしたり、古い写真アルバムを眺めたり、あるいはただ窓の外の景色をぼんやりと眺めたり。しかし、彼女の心は常に庭と共にあった。家の中にいても、庭の植物たちの声や、動物たちの言葉が、はっきりと聞こえてくるのだ。


「アガサ、今日の太陽は格別だね!  力がみなぎってくるよ!」


 庭の向日葵の一番背の高いものが、快活な声で言った。その声は、まるで太陽そのものが語りかけてくるように、力強く、陽気だった。


「ええ、本当に。あなたたちも、太陽の光をいっぱい浴びて、気持ちよさそうね」


 アガサは、窓辺から微笑みかけた。


「もちろんだとも!  僕らは太陽の子だからね。太陽がある限り、僕らは希望を失わないのさ!」


 向日葵の言葉は、アガサの心にも明るい光を灯した。老いと共に、身体の自由は少しずつ利かなくなってきている。時折、言いようのない不安や寂しさが胸をよぎることもある。しかし、庭の仲間たちの言葉に耳を傾けていると、そうした影はすぐに消え去り、内なる平和が戻ってくるのだった。


 動物たちとの関係も、さらに深まっていた。彼らはもはや、単なるペットではなく、アガサの感情や思考を深く理解し、適切な助言や慰めを与えてくれる、かけがえのない家族であり、友人だった。


 ある日の午後、アガサがウトウトと微睡んでいると、黒猫のシャドウが、静かに彼女の膝に乗ってきた。


「何を考えているんだい、アガサ?」


 シャドウの声は、いつもながら低く、思慮深かった。


「……少しね、昔のことを思い出していたのよ。キャサリンが小さかった頃のこと……」


 アガサの胸に、娘への複雑な思いが込み上げてきた。

 愛している。

 会いたい。

 しかし、同時に、自分を捨てて去っていった娘への、消えることのない小さな棘のような痛みも感じていた。


「過去は、今の君を形作る一部ではあるけれど、君自身ではないよ」


 シャドウは、哲学者のように言った。


「大切なのは、今、この瞬間、君が何を感じ、どう生きているかだ。過去の影に心を曇らせることはない」


「……そうね。ありがとう、シャドウ。あなたは本当に賢いわ」


 アガサは、シャドウの滑らかな黒い毛を撫でながら、その言葉を噛みしめた。猫の言葉が、不思議なほど的確に彼女の心の澱を溶かしてくれるのだった。


 八月も半ばを過ぎた頃、孫娘のリリーが夏休みを利用して、数日間、アガサの元に滞在しにやってきた。前回電話で話した時よりも、リリーの表情はさらに明るくなっていた。親友の死という深い悲しみを乗り越え、何か新しい視点を得たかのように、落ち着きと、前向きなエネルギーが感じられた。


「おばあちゃん!  わあ、向日葵がすごい!  こんなに大きくなるんだね!」


 リリーは、庭の向日葵を見て歓声を上げた。


「ええ、アーサーおじいちゃんが大好きだった花なのよ」


 アガサは、孫娘の元気な姿を見て、心から嬉しく思った。


 リリーは、祖母の家で過ごすうちに、アガサの中に起こっている変化に、よりはっきりと気づくようになった。祖母は、以前にも増して穏やかで、満ち足りているように見えた。そして、庭の花々や動物たちに対する接し方が、以前とは明らかに違っていた。まるで、対等な存在として、親密な対話を交わしているかのように見えるのだ。


 最初は、リリーも少し戸惑った。

 祖母は本当に大丈夫なのだろうか?

 近所の人たちが噂するように、少しずつ現実から離れていってしまっているのではないか?

 認知症……?

 ううん、そんなことない。

 そんなことない、はず……。


 しかし、アガサと話していると、その懸念はすぐに薄れていった。アガサの言葉は明晰で、ユーモアがあり、そして深い愛情に満ちていた。彼女が語る死生観――死は終わりではなく、愛する人との再会であり、魂の旅の続きであるという考え――は、以前よりもさらに確固たるものとなっており、リリーの心にも、不思議な説得力を持って響いた。


 ある午後のこと。アガサとリリーは、ポーチの椅子に座り、庭を眺めていた。強い日差しが和らぎ、心地よい風が吹き抜けていく。犬たちは木陰で昼寝をし、猫たちは思い思いの場所で寛いでいる。


 アガサは、ロッキングチェアに揺られながら、いつの間にかウトウトと眠りに落ちていた。リリーは、祖母の寝顔をそっと見守っていた。穏やかで、安らかで、まるで赤ん坊のような無垢な表情だった。


 ふと、リリーは奇妙な感覚に襲われた。目の前の庭の景色が、陽炎のように揺らめいているような気がしたのだ。そして、庭の向日葵や、色とりどりの夏の花々が、まるで意思を持っているかのように、生き生きと輝き、微かに囁き合っているような……。気のせいだろうか?  いや、しかし……。


 その時、リリーは、アガサの隣に、もう一人の人物の気配を感じた。半透明の、穏やかな微笑みを浮かべた老紳士。それは、写真でしか見たことのない、若き日の祖父アーサーの面影に、どこか似ているような気がした。その幻のような姿は、眠っているアガサの肩に、優しく手を置いているように見えた。


 リリーは息を呑み、目を凝らした。しかし、瞬きをすると、その幻の姿は、夏の午後の光の中に溶けるように消えていた。後には、穏やかに眠る祖母と、静かな庭の景色が残るだけだった。


 あれは、一体何だったのだろう?  暑さのせいが見せた幻覚だろうか?  それとも……?


 リリーは、混乱しながらも、心の奥底で、何か大切なものに触れたような気がした。祖母の世界では、もしかしたら、本当に、目に見えない存在たちとの交流が、日常的に行われているのかもしれない。死んだはずの祖父が、今も祖母のそばにいて、彼女を見守っているのかもしれない。それは、常識では考えられないことだったが、この庭の持つ不思議な空気と、祖母の深い安らぎを見ていると、それが真実であるような気がしてくるのだった。


「……あら、少し眠ってしまったようね」


 しばらくして、アガサが目を覚ました。


「おばあちゃん、なんだか、とても幸せそうな顔で眠ってたよ」


 リリーは、努めて平静を装って言った。さっき見た幻のことは、まだ言葉にできなかった。


「そう?  ええ、とても素敵な夢を見ていたのよ」


 アガサは、にっこりと微笑んだ。その笑顔は、夢の続きをまだ見ているかのように、幸福感に満ち溢れていた。


「アーサーとね、若い頃みたいに、この庭を散歩していたの。向日葵たちが、私たちに歌を歌ってくれたわ」


 アガサは、何のてらいもなく言った。リリーは、その言葉を、もう以前のようには疑えなかった。祖母にとっては、それは夢ではなく、もう一つの現実なのかもしれない。そして、その現実は、悲しみや孤独ではなく、愛と喜びに満ちているのだ。


 リリーは、祖母のそばに座り、再び庭を眺めた。太陽に向かって咲き誇る向日葵たちが、風に揺れながら、まるで何かを語りかけてくるように見えた。リリーは、耳を澄ませてみた。まだ、その声を聞き取ることはできなかったけれど、いつか、自分にも聞こえる日が来るのかもしれない、と、そんな予感がした。


 八月の午後は、ゆっくりと傾いていく。アガサの世界では、現実と幻想、生と死、過去と現在が、向日葵の黄金色の光の中で、美しく溶け合い始めていた。


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