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第四章:七月 ラベンダーの夢

 七月。


 太陽は空の最も高い場所から容赦なく照りつけ、オカナガンの大地を乾いた熱気で包み込んだ。アガサの庭では、薔薇の季節が終わりを告げ、代わってラベンダーが紫色の絨毯を広げていた。アーサーが植えたイングリッシュラベンダーの株は、年月を経て大きく育ち、無数の花穂を風に揺らしている。その濃厚で、心を鎮めるような香りが、庭全体に、そして開け放たれた窓から家の中まで漂っていた。


 アガサの世界では、現実と幻想の境界は、もはや曖昧というよりも、心地よく溶け合っていると言った方がよかった。


 花々や動物たちとの対話は、すっかり日常の一部となっていた。


 朝、目覚めると、まず窓辺に集まった小鳥たちの朝の挨拶に耳を傾ける。庭に出れば、それぞれの花が「おはよう、アガサ!」と声をかけてくる。犬のマックスは今日の天気について意見を述べ、猫のシャドウは哲学的な問いを投げかけてきたりする。アガサは、そのすべてを自然に受け入れ、彼らとの会話を楽しんでいた。孤独は、もはや彼女の辞書から消え去った言葉だった。


「アガサ、見てごらん。今日の空は、まるであなたの瞳の色と同じだよ」


 ボーダーコリーのバディが、尻尾を振りながら言った。彼はいつも詩的な表現を好んだ。


「あら、嬉しいことを言ってくれるのね、バディ」


 アガサは笑って、彼の頭を撫でた。


「本当のことさ!  ねえ、今日は湖まで散歩に行かない?  水が気持ちよさそうだよ」


「そうねえ、でも、今日は少し暑すぎるかもしれないわね。もう少し涼しくなってからにしましょう」


 そんな会話が、ごく普通に交わされる。傍から見れば、老婆が犬に一方的に話しかけているようにしか見えないだろう。しかし、アガサにとっては、それは紛れもない双方向のコミュニケーションだった。


 ラベンダーの香りは、アガサの感覚をさらに研ぎ澄ませ、時に彼女を夢うつつの状態へと誘った。ラベンダーの茂みのそばに座り、その香りに包まれていると、意識が現実からふわりと浮き上がり、過去の記憶や、未来の予感のようなものが、万華鏡のように目の前に現れては消えることがあった。


 アーサーの若い頃の笑顔、娘のキャサリンが幼かった頃の姿、そして、まだ見ぬ光景――穏やかな光に満ちた場所で、アーサーが手を差し伸べている情景など……。


「ラベンダーの香りはね、アガサ、魂の扉を開く鍵なのよ」


 ある日、ラベンダーの花穂の一つが、囁くように言った。その声は、まるで古くからの知恵を伝える賢者のようだった。


「魂の扉……?」


「そう。普段は固く閉ざされている、あなたの奥深くにある扉。そこを開けば、時間の流れを超えて、いろいろなものが見えたり、聞こえたりするようになるの」


「アーサーの声が聞こえたり、姿が見えたりするのも、そのせいなの?」


「ええ、そうよ。あなたの魂が、彼の魂と共鳴し始めている証拠。あたしたちラベンダーは、その手助けをしているだけ」


 アガサは、ラベンダーの言葉に深く頷いた。恐れはなかった。むしろ、自分の内なる世界が、宇宙の大きなリズムと繋がり始めているような、荘厳な感覚さえ覚えていた。


 そんなアガサの変化は、近所の人々の間でも、少しずつ噂になり始めていた。メアリーは、心配と戸惑いを抱えながらも、アガサの穏やかで幸せそうな様子を見て、強く口出しすることは控えていた。しかし、他の人々は、もっと直接的だった。


「マーティンさん、最近、ちょっと様子がおかしいんじゃないかしら?  庭で一人で喋ってるのを、よく見かけるわよ」


「ああ、うちの主人も言ってたわ。犬や猫に話しかけるだけじゃなくて、花にまで話しかけてるって……。やっぱり、認知症が始まったのかしらねえ」


「いやいや、うちのおばあちゃんが言ってたけど、ああいうのは、お迎えが近い印だって……」


「でも、見てごらんなさいよ、あの穏やかな顔。むしろ、神様に近づいているんじゃないかしら、なんて思う時もあるのよ」


 そんな噂話が、井戸端会議や、食料品店の店先で交わされるようになった。アガサの耳にも、断片的にそうした声は届いていたが、彼女は全く意に介さなかった。他人がどう思おうと、今の彼女の世界は、真実に満ち、愛に満ち、そして何よりも平和だったからだ。


 七月のある晴れた午後、一台の古いバイクがアガサの家の前に停まった。ヘルメットを取ったのは、二十歳くらいの、少し日焼けした青年だった。彼は、どこか途方に暮れたような表情で、庭でラベンダーの手入れをしているアガサに近づいてきた。


「あの……すみません。少し、お水をいただけませんか?  バイクがオーバーヒートしちゃって……」


 青年は、トムと名乗った。大学を休学して、あてもなくカナダを横断する旅をしているのだという。


「まあ、大変。どうぞ、上がって休んでいってちょうだい」


 アガサは快くトムを招き入れた。冷たいレモネードと、メアリーが昨日届けてくれたクッキーを出すと、トムは心から感謝して、それを口にした。


 トムは、どこか投げやりな雰囲気を漂わせていた。話を聞くと、彼は将来に何の希望も見いだせず、自分が何をしたいのかもわからず、ただ現実から逃げるように旅に出たのだという。


「……何をやっても、意味がないような気がするんです。勉強も、仕事も、恋愛も……。結局、最後はみんな死んじゃうじゃないですか。だったら、今、頑張ることに何の意味があるんだろうって」


 トムは、グラスを弄びながら、ぽつりぽつりと語った。その瞳には、若者特有の純粋さと、深い虚無感が同居していた。


 アガサは、黙って彼の言葉を聞いていた。そして、庭に咲き誇るラベンダーに目を向けた。


「トムさん、あのラベンダーを見てごらんなさい」


 アガサは、窓の外を指さした。


「綺麗ですね……。いい香りもする」


「ええ。あの子たちはね、自分がいつか枯れることを知っているわ。それでも、今、この瞬間、一生懸命に咲いて、美しい色と香りを放っているのよ」


「……」


「意味があるかないかなんて、誰にもわからないわ。でもね、命を与えられたことに感謝して、今を精一杯生きること。そのこと自体が、尊いんじゃないかしら。たとえ、それが短い時間だったとしてもね」


 アガサの言葉は、説教じみたものではなかった。

 ただ、静かに、しかし確信を持って語られたその言葉は、トムの心に沁み込むように響いた。


 アガサは、トムに自分の庭を案内した。花々が、まるでトムを歓迎するかのように、生き生きと輝いて見えた。犬たちが彼にじゃれつき、猫たちが好奇心旺盛に彼を観察した。トムは、最初は戸惑っていたが、次第にこの家の持つ不思議なほど穏やかで、生命力に満ちた空気に、心が解きほぐされていくのを感じた。


 アガサが、庭の花に優しく話しかけ、動物たちと親密に触れ合っている姿を見て、トムは最初は「少し変わったおばあさんだな」と思った。しかし、彼女の瞳の奥にある深い叡智と、存在全体から滲み出るような穏やかな幸福感に触れるうちに、トムは、自分が今まで考えていた「現実」や「常識」が、いかに狭いものだったかを思い知らされたような気がした。


「……なんだか、ここに来て、少しだけ……ほんの少しだけだけど、気持ちが軽くなった気がします」


 バイクのエンジンが冷え、再び出発する準備ができた時、トムはアガサに深々と頭を下げた。


「それはよかったわ。気をつけて旅を続けるのよ。あなたの道が、きっと見つかるはずだから」


 アガサは、トムの肩を優しく叩いた。トムは、もう一度アガサの庭と、そこに立つ穏やかな老婆の姿を目に焼き付け、バイクに跨って走り去った。彼の背中は、来た時よりも少しだけ、軽く見えた。


 トムが去った後、アガサは再びラベンダーのそばに座った。紫色の花穂が、夕暮れ前の風に優しく揺れている。


「あの子、大丈夫かしらね」


 アガサが呟くと、ラベンダーが答えた。


「大丈夫よ、アガサ。あなたは、あの子の心に、小さな光を灯してあげたわ。その光が、いつか彼自身の道を照らすことになるでしょう」


 アガサは、その言葉に安堵し、目を閉じた。ラベンダーの香りが、彼女を再び優しい夢の世界へと誘う。夢の中で、彼女はアーサーと手を取り合い、紫色のラベンダー畑を歩いていた。風が二人の髪を優しく撫で、遠くで湖がきらめいている。現実と夢の境界は、もはや存在しなかった。七月の庭は、香りと光と、そして愛に満ちた、アガサだけの聖域となっていた。


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