第三章:六月 薔薇と秘密の対話
六月。
オカナガンの太陽は力強さを増し、空は高く澄み渡り、湖面は眩いばかりの光を反射していた。
アガサの庭は、今、薔薇たちの饗宴の真っ只中にあった。アーサーが情熱を注いで育てた多種多様な薔薇たちが、その最も美しい瞬間を迎えていたのだ。
深紅のベルベットのような花弁を持つミスター・リンカーン、柔らかなピンク色のグラデーションが美しいクイーン・エリザベス、純白で清楚なアイスバーグ、そしてアプリコット色の優しい色合いのピース。甘く、時にスパイシーな芳香が庭全体に満ち溢れ、アガサの感覚を陶酔させた。
アガサは、日課となった早朝の庭仕事を終えると、ポーチのロッキングチェアに座り、薔薇の海を眺めるのを好んだ。手には、冷めたハーブティーのカップ。足元には、いつものように猫のスノーウィが丸くなり、傍らでは老犬チャーリーが静かに寝そべっている。
五月の終わりに聞いたアーサーの声は、あれ以来、直接的には聞こえてこなかった。しかし、アガサの中には、あの夜の確信が静かに息づいていた。夫は、見えなくても、聞こえなくても、いつもそばにいる。庭のそよ風の中に、花の香りの中に、動物たちの温もりの中に、彼の存在を感じることができた。
忘れな草やバラの囁きも、あれは気のせいだったのだろうか、とアガサは時折考えた。しかし、五月の終わり頃から、庭の様子が、そして家の中の動物たちの様子が、微妙に変化し始めていることに、彼女は気づいていた。それは、気のせいというには、あまりにも具体的で、継続的な変化だった。
例えば、ゴールデンレトリバーのマックス。アガサが庭で作業をしていると、彼はよく、口にお気に入りのボールを咥えてやってきて、アガサの足元にそれを置く。以前なら、ただ「遊んで!」と尻尾を振ってせがむだけだった。しかし最近は、ボールを置いた後、じっとアガサの顔を見上げ、まるでこう言っているかのように、低く、しかしはっきりとした響きで「クゥン」と鳴くのだ。
「アガサ、少し休んだらどうだい? 僕と遊ぶ時間だよ」
もちろん、犬が人間の言葉を話すわけではない。しかし、マックスの瞳の奥には、以前にはなかったような、深い理解の色が宿っているように見えた。そして、その鳴き声は、まるで意味を持った短いフレーズのように、アガサの耳には聞こえるのだった。
シャム猫のジンジャーもそうだ。彼女は元来、気位が高く、あまり人間に媚びるタイプではなかった。しかし最近、アガサがロッキングチェアで微睡んでいると、そっと膝の上に飛び乗ってきて、喉を鳴らしながら、小さな声で「ニャア…ニャア…」と繰り返すことが増えた。その声は、まるで子守唄のようにも聞こえ、時には、アガサの心の内の不安や寂しさを見透かしているかのように、慰めるような響きを帯びていた。
「心配いらないわ、アガサ。私がそばにいるもの」
そんな声が、猫の鳴き声の奥から聞こえてくるような気がするのだ。
アガサは、最初は自分の感覚を疑った。
年を取って、寂しさのあまり、動物たちに人間のような感情や言葉を投影しているだけなのかもしれない、と。
しかし、その確信めいた感覚は、日増しに強くなっていった。そして、それは決して不快なものではなかった。むしろ、孤独な彼女の世界が、思いがけない豊かさと温かさで満たされていくような、不思議な感覚だった。
その日も、アガサは薔薇の花がらを摘んでいた。指先が、咲き終わって萎れかけた花弁に触れる。アーサーは、「花がらを摘むのは、次の花への約束だ」と言っていた。古いものを手放すことで、新しいものが生まれる場所ができるのだ、と。
ふと、すぐそばで咲き誇る、深紅のミスター・リンカーンの花が、風もないのに微かに揺れたような気がした。アガサは、誘われるようにその花に顔を近づけた。甘く濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。
「あなたは、本当に立派ね。今年も見事に咲いてくれて、ありがとう」
アガサは、そっと囁きかけた。すると、どうだろう。まるで耳元で直接語りかけられたかのように、はっきりとした声が聞こえたのだ。それは、低く、落ち着いた、男性の声のようだった。
「どういたしまして、アガサ。私たちはあなたと、アーサーのために咲いているのだから」
アガサは息を呑んだ。今度こそ、聞き間違いではない。目の前の薔薇が、確かに彼女に話しかけてきたのだ。驚きで身体が固まった。しかし、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、長い間、心の奥底で予感していたことが、ついに現実になったというような、静かな納得感があった。
「……あなた、話せるの?」
アガサは、震える声で尋ねた。
「もちろんだとも。私たちは、ずっとあなたたちに語りかけていた。ただ、あなたたちの耳が、私たちの声を聞き取る準備ができていなかっただけさ」
薔薇の声は、穏やかで、威厳があった。
「アーサーは……アーサーは、私たちの声を聞いていたの?」
「彼は、心で聞いていた。だから、私たちの気持ちがよくわかっていた。どの花が水を欲しがり、どの花が陽の光を求めているか。彼は、私たちの言葉にならない言葉を、誰よりも深く理解していたよ」
アガサの目に、涙が滲んだ。アーサーが庭の花々をあれほど慈しみ、まるで我が子のように世話をしていた理由が、今、初めて腑に落ちた気がした。彼は、ただの植物としてではなく、対話のできる存在として、花々と心を通わせていたのかもしれない。
「私も……私も、あなたたちの声が聞きたいわ。もっと聞かせてちょうだい」
アガサは、懇願するように言った。
「いいとも、アガサ。あなたの心が、私たちに開かれている限り、いつでも語り合おう。私たちは、たくさんの物語を知っている。風の物語、土の物語、星の物語……そして、あなたとアーサーの愛の物語もね」
その日から、アガサの世界は一変した。庭は、ただ美しい花々が咲く場所ではなく、無数の声が満ちる、賑やかで神秘的な空間となった。薔薇だけでなく、隣で揺れるラベンダーの穂も、足元のパンジーも、木陰で静かに葉を茂らせるギボウシも、それぞれが個性的な声でアガサに語りかけてきた。ある花は陽気に冗談を言い、ある花は物憂げに詩を口ずさみ、またある花は、遠い昔からこの土地に伝わる古い伝説を教えてくれた。
犬たちや猫たちとの対話も、より明確になっていった。マックスは思慮深い相談相手となり、バディは遊び相手として無邪気な提案をし、老犬チャーリーは静かな叡智を秘めた言葉を時折口にした。猫たちは、気まぐれながらも、アガサの心の機微を鋭く察知し、慰めや共感の言葉を囁いた。
もちろん、アガサは、この秘密を誰にも話さなかった。メアリーが訪ねてきても、以前と同じように、当たり障りのない会話を交わした。しかし、メアリーは、アガサの変化に気づかないわけではなかった。以前よりも、アガサの表情が明るく、穏やかになったように見えた。時には、庭で一人、楽しそうに微笑んでいたり、動物たちに優しく話しかけている姿を目にすることもあった。
「アガサさん、最近、なんだかとてもお幸せそうね。何かいいことでもあったの?」
ある日、メアリーは、それとなく尋ねてみた。
「ええ、まあね」
アガサは、少しはにかみながら答えた。
「庭の花たちが、今年も綺麗に咲いてくれて……それだけで、十分幸せよ」
メアリーは、それ以上は深く詮索しなかった。アガサが幸せそうであるなら、それで良いのかもしれない、と彼女は思った。ただ、時折見せるアガサの上の空のような表情や、誰もいない空間に向かって何かを呟いているような仕草には、一抹の不安を感じずにはいられなかった。「もしかしたら、少しずつ……」という考えが、メアリーの頭をよぎったが、それを言葉にすることは憚られた。
六月の終わり、リリーから電話があった。声は、以前よりも少し落ち着いているようだった。
「おばあちゃん? 元気? 庭の薔薇、今が一番綺麗なんでしょう?」
「ええ、そうなのよ、リリー。見事なものよ。あなたにも見せてあげたいわ」
「うん、夏休みになったら、また行くね」
リリーの声には、以前のような絶望感は薄れていた。
「そういえば、この前おばあちゃんが話してくれたこと……死んだら、おじいちゃんに会えるって話。あれから、時々考えるんだ」
「そう……」
「うまく言えないけど……少しだけ、気持ちが楽になった気がする。友達の死は、やっぱり悲しいけど……でも、それが完全な終わりじゃないのかもしれないって思ったら、少しだけ……」
リリーは言葉を探しながら話した。
「そうよ、リリー。終わりじゃないのよ。形が変わるだけ。愛する人との繋がりは、決して消えたりしないわ」
アガサは、確信を持って言った。以前よりも、その確信は深まっていた。なぜなら、彼女は今、その繋がりを、日々、肌で感じているのだから。アーサーの声、花々の囁き、動物たちの言葉……それらはすべて、目に見えないけれど確かに存在する、愛と生命の繋がりそのものだった。
電話を切った後、アガサは再び庭に出た。夕暮れの光が、薔薇の花びらを透き通るように照らしている。アガサは、一番気に入っているピースの、アプリコット色の花に顔を寄せた。
「ねえ、ピース。あなたも、アーサーを知っているの?」
優しい、女性のような声が答えた。
「ええ、もちろんですわ、アガサ。あの方が、どれほど私たちを愛してくださったか。その温かい手の感触を、私たちは決して忘れません」
アガサは、そっとその花弁に触れた。まるで、アーサーの手に触れているかのような、温かい感覚が指先から伝わってきた。彼女は、秘密の対話者たちに囲まれて、満ち足りた気持ちで微笑んだ。六月の庭は、甘い香りと、愛と、そして言葉にならない(しかしアガサには聞こえる)囁きで満たされていた。