第二章:五月 忘れな草の囁き
五月に入ると、オカナガンの谷は生命の色彩で一気に塗り替えられた。
アガサの庭も例外ではなく、まるで押さえつけられていたエネルギーが一斉に噴き出したかのように、花々が競い合うように咲き誇った。
四月にはまだ遠慮がちだったチューリップが、赤、黄、白、紫と、目も覚めるような鮮やかな色合いで風に揺れている。その足元では、水仙の黄色いラッパが空に向かって高らかに鳴り響き、ムスカリの青い葡萄のような花穂が密集して、地面に深い瑠璃色の絨毯を敷き詰めていた。そして、アーサーが特に愛した忘れな草が、可憐な空色の小さな花を無数につけ、庭のあちこちで柔らかな霞のように広がっていた。
アガサは、日の出と共に起き出し、朝食もそこそこに庭へ出るのが日課となっていた。空気はまだひんやりとしているが、日差しには確かな暖かさが含まれている。犬たちは、庭という広大な遊び場で、飽きることなく追いかけっこをしたり、土の匂いを嗅ぎまわったりしていた。猫たちも、家の中に閉じこもっている時間は短くなり、日中は庭の陽だまりで昼寝をしたり、蝶々を追いかけたりする姿が見られるようになった。
アガサは、古い麦わら帽子を目深にかぶり、膝当てをつけて地面に膝をついた。今日の仕事は、咲き終わった水仙の花がら摘みと、雑草取りだ。指先で土の湿り気を感じながら、黙々と作業を続ける。一つ一つの草花に愛情を込めて触れる時間は、彼女にとって瞑想にも似た静かな喜びを与えてくれた。
アーサーが隣にいた頃は、二人で他愛ない話をしながら作業したものだった。彼の大きな、節くれだった手が土を耕し、種を蒔く様子を、アガサはすぐそばで見守っていた。彼の笑顔、声、土に汚れた作業着の匂い……。そうした記憶が、ふとした瞬間に鮮やかに蘇り、アガサの胸を締め付ける。しかし、それはもう、涙を誘うほどの鋭い痛みではなかった。むしろ、温かな懐かしさとして、彼女の心を満たすようになっていた。
「アーサー、見てちょうだい。今年の忘れな草は、一段と綺麗に咲いたわよ」
アガサは、目の前に広がる空色の絨毯に向かって、そっと呟いた。声に出して夫に語りかけることは、もう癖のようになっていた。返事がないことはわかっている。それでも、そうせずにはいられなかった。まるで、庭の花々が、彼の代わりに彼女の言葉を聞いてくれているような気がしたからだ。
その時だった。風がさわりと吹き抜け、忘れな草の小さな花々が一斉に揺れた。まるで、アガサの言葉に応えるように。そして、彼女の耳に、微かな、本当に微かな囁きのようなものが聞こえた気がしたのだ。
――知ってるよ、アガサ。ちゃんと見ているよ――
アガサは、はっとして顔を上げた。辺りを見回すが、もちろん誰もいない。犬たちは少し離れた場所でじゃれ合っているし、猫のスノーウィはアガサの足元で丸くなって眠っている。空耳だろうか? 最近、少し耳が遠くなった気もするし、風の音をそう聞き間違えたのかもしれない。
しかし、その囁きは、不思議なほどはっきりと、そして優しく響いたように感じられた。アガサは、戸惑いながらも、もう一度、忘れな草に目を向けた。小さな青い花々は、ただ静かに風に揺れているだけだ。
気のせいだわ、と彼女は自分に言い聞かせた。年を取ると、いろいろなことが起こるものだ。それでも、心のどこかで、さっきの囁きがただの空耳ではなかったような、奇妙な確信のようなものが芽生え始めていた。
その日の午後、メアリーがスコーンを焼いて持ってきてくれた。
二人はポーチの椅子に腰掛け、庭を眺めながらお茶を飲んだ。
「まあ、見事な庭ねえ! アガサさん、本当に手入れが行き届いているわ」
メアリーは心から感嘆したように言った。
「ありがとう。でも、花たちが自分で頑張って咲いてくれるのよ」
アガサは微笑んで答えた。さっきの忘れな草の囁きのことは、メアリーには話さなかった。きっと心配させてしまうだろうし、自分でもまだ、あれが何だったのかよくわからなかったからだ。
「アーサーさんが見たら、きっと喜ぶでしょうねえ……」
メアリーがしみじみと言うと、アガサは静かに頷いた。
「ええ、本当に。あの人は、この庭が何よりの宝物だったから」
メアリーは、アガサの様子を注意深く見ているようだった。アガサが少し上の空であることに気づいたのかもしれない。
「アガサさん、疲れてない? 無理は禁物よ。何か手伝えることがあったら、いつでも言ってちょうだいね」
「ありがとう、メアリーさん。大丈夫よ。庭仕事は、私にとっては元気の源みたいなものだから」
アガサは努めて明るく答えた。メアリーの優しさはありがたかったが、自分の内側で起こり始めている微かな変化を、まだ言葉にすることはできなかった。
メアリーが帰った後、アガサは再び庭に出た。夕暮れが近づき、空気は少しひんやりとしてきた。バラの蕾が、硬く閉じたその先端をわずかにほころばせ始めている。アガサは一つ一つの蕾にそっと触れ、「綺麗に咲くのよ」と心の中で語りかけた。すると、またしても、風に乗って囁きが聞こえたような気がした。
――任せて、アガサ――
今度は、バラの茂みの方から聞こえたように感じた。アガサは、今度こそ聞き間違いではないかもしれない、と思い始めた。もしかしたら、本当に……? いや、そんなはずはない。疲れているのだ。孤独が、おかしな幻想を見せているのかもしれない。
その週末、バンクーバーから孫娘のリリーが訪ねてきた。
最後に会ったのはクリスマス休暇の時だったから、半年ぶりだ。リリーは大学で文学を専攻しており、聡明で感受性の強い娘だった。しかし、今日の彼女は、どこか影を帯びているように見えた。
「おばあちゃん、元気だった?」
リリーはアガサを抱きしめたが、その笑顔には力がなかった。
「ええ、元気よ。リリーこそ、どうしたの? なんだか疲れているみたいだけど」
アガサは孫娘の顔を覗き込んだ。
リリーは、リビングのソファに深く腰を下ろし、ため息をついた。
「うん……ちょっとね。最近、いろいろあって」
話を聞くと、リリーの親友が、少し前に突然の事故で亡くなったのだという。
若すぎる死を目の当たりにして、リリーは深く傷つき、生きることの意味さえ見失いかけているようだった。
「……何のために生きてるのか、わからなくなっちゃったんだ。あんなに元気だった子が、あっけなく死んじゃうなんて……。私たちの人生って、一体何なんだろうって」
リリーの声は震えていた。
アガサは、黙って孫娘の話を聞いていた。そして、しばらくの沈黙の後、静かに口を開いた。
「……死はね、リリー。確かに悲しいことよ。特に、あなたのように若い人が、友人を亡くすのは、本当に辛いことだと思うわ。でもね、死は終わりじゃないのよ。少なくとも、私はそう信じているわ」
「終わりじゃないって……どういうこと?」
リリーは訝しげに祖母を見つめた。
「あのね、おばあちゃんは、死ぬのが怖くないのよ」
アガサは穏やかな声で言った。
「むしろ、少し楽しみにしているくらいなの」
「えっ? 楽しみって……?」
リリーは目を丸くした。
「だって、死んだら、またアーサーに会えるんだもの。あちらの世界で、きっと待っていてくれるわ。そう思うとね、心が安らぐのよ」
アガサの顔には、何のてらいもない、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
その死生観は、混乱しているリリーにとっては、すぐには理解しがたいものだった。
死を恐れず、むしろ再会を楽しみにしているなんて……。
しかし、祖母の静かで確信に満ちた言葉と、その嘘のない笑顔は、リリーのささくれだった心を、不思議と少しだけ和らげてくれる気がした。祖母は、悲しみや孤独を受け入れながらも、何か大きなものに抱かれているような、深い安らぎの中にいるように見えた。
その夜、リリーが客間で眠りについた後、アガサは一人、夜の庭を眺めていた。月明かりが、庭の花々を銀色に照らし出している。忘れな草の青が、夜の闇の中で幻想的に浮かび上がっていた。
アガサは、そっと窓を開けた。夜の冷たい空気が流れ込んでくる。耳を澄ますと、虫の声、風の音、そして遠くの湖の微かな水音が聞こえる。
彼女は、昼間の囁きを思い出していた。忘れな草の声。バラの声。あれは本当に、ただの空耳だったのだろうか?
アガサは、庭に向かって、もう一度、小さく呟いた。
「アーサー……あなたも、そこにいるの?」
しばらくの間、静寂が続いた。しかし、やがて、夜風に乗って、今までにないほどはっきりとした、優しい声が、アガサの耳元で囁いた。
――ああ、アガサ。いつだってそばにいるよ――
それは、紛れもなく、アーサーの声だった。アガサは息を呑んだ。驚きと、信じられない気持ちと、そしてどうしようもないほどの喜びが、彼女の全身を駆け巡った。涙が、とめどなく頬を伝った。それは、悲しみの涙ではなかった。長い間、心の奥底で待ち望んでいたものが、ようやく訪れたことへの、安堵と歓喜の涙だった。
庭の忘れな草が、月明かりの下で、再び一斉に揺れた。まるで、アーサーの言葉を肯定するように。アガサは、震える手で窓枠を掴み、夜の庭を見つめ続けた。現実と幻想の境界線が、静かに、そして確実に、溶け始めているのを、彼女は感じていた。それは恐ろしいことではなく、むしろ、長い間閉ざされていた扉が、ゆっくりと開かれていくような、不思議な感覚だった。
五月の夜は更け、アガサの世界は、新しい次元へと、静かに移行し始めていた。