第十一章:二月 雪解けの予感と光の訪れ
二月。
長く厳しい冬にも、ようやく終わりの兆しが見え始めた。太陽は日ごとに力を増し、日照時間も少しずつ長くなってきた。まだ気温は低く、雪は深く残っていたが、日中の陽射しには、確かな暖かさが感じられるようになった。南向きの軒下などでは、雪が解けて滴り落ちる音が、かすかに聞こえる日もあった。それは、春の訪れを告げる、まだ微かだが確かな予感だった。
アガサは、ほとんどの時間を眠って過ごしていた。目覚めている時も、その瞳はもはや現実の部屋を映してはおらず、遠いどこか、光に満ちた世界を見つめているかのようだった。彼女の呼吸は浅く、静かで、まるで存在しているのかどうかさえ不確かになるほどだった。しかし、その顔には、深い安らぎと、言葉では言い表せないほどの穏やかな幸福感が漂っていた。
彼女の世界は、もはや完全に、あちら側の光景と一体化していた。アーサーの優しい笑顔、天使たちの柔らかな光、色とりどりの花々が咲き乱れる永遠の庭園……。それらが、途切れることのない映像のように、彼女の意識を満たしていた。地上の音や出来事は、遠い岸辺の囁きのように、かすかにしか届かなくなっていた。
「もう、何も心配することはないよ、アガサ」
アーサーの声が、常に彼女を包み込んでいた。
「ただ、この光の中に、安らかにいればいい」
天使たちの歌声が、子守唄のように響いていた。
「あなたは、愛されている。あなたは、光そのものだ」
花々や動物たちの魂も、彼女の周りに集い、静かなエールを送っていた。
「アガサ、あなたの愛は、この庭に永遠に生き続けるよ」
「あなたの優しさを、私たちは決して忘れない」
「安心して、光の中へ……」
アガサの魂は、この地上での最後の絆を一つ一つ解き放ち、軽やかに、自由に、光の世界へと上昇していく準備を整えていた。もはや、何の未練も、後悔も、恐れもなかった。ただ、感謝と、愛と、そして静かな期待があるだけだった。
メアリーは、毎日欠かさずアガサの家を訪れ、献身的に世話を続けた。
アガサが言葉を発することはもうなかったが、メアリーは一方的に話しかけた。町の出来事、天気のこと、庭の様子……。そして、アガサの手を握り、温もりを伝えた。メアリーは、アガサの旅立ちが間近に迫っていることを感じていた。悲しみはあったが、それ以上に、アガサがこれほどまでに穏やかに、満たされた表情で最期の時を迎えようとしていることに、深い感動と畏敬の念を覚えていた。
動物たちは、アガサのベッドの周りから離れようとしなかった。
彼らは、まるで最後の瞬間まで彼女を守り抜こうとするかのように、静かに、しかし警戒するように、アガサのそばに寄り添っていた。彼らの目には、深い悲しみと同時に、アガサの魂の平安を理解しているかのような、賢明な光が宿っていた。彼らは、アガサが痛みや苦しみを感じていないことを知っていた。そして、彼女が向かおうとしている場所が、温かく、光に満ちた場所であることも、本能的に感じ取っているようだった。
リリーは、メアリーからの連絡で、祖母の状態が予断を許さないことを知っていた。彼女は、バンクーバーからすぐにでも駆けつけたい気持ちを抑え、祖母の平安を祈り続けた。祖母が望んでいるのは、おそらく、静かで穏やかな、愛する者たち(人間だけでなく、動物や植物、そして目に見えない存在たちも含む)に見守られての旅立ちだろう、とリリーは理解していた。彼女は、心の中で祖母に語りかけ、感謝と愛を送り続けた。
近所の人々も、アガサの家の周りを、静かに見守っていた。彼女の存在は、もはや単なる隣人ではなく、このコミュニティにとって、何か特別な、聖なる象徴のようなものになっていた。誰もが、彼女の魂が安らかであることを祈っていた。
二月の終わりが近づく頃、アガサの呼吸はさらに浅く、かすかになった。まるで、羽のように軽く、いつ止まってもおかしくないほどだった。しかし、その表情は、かつてないほどに穏やかで、美しく、輝いてさえ見えた。彼女の顔には、内なる光が溢れ出ているかのように、神々しいまでの輝きが宿っていた。
部屋の中は、不思議なほどの静寂と、同時に、目には見えないが確かに感じられる、温かく、優しいエネルギーで満たされていた。それは、愛と、光と、そして感謝のエネルギーだった。アガサの魂が、地上での最後の時を、これ以上ないほどの平安の中で迎えようとしていることを、そこにいるすべての存在(メアリーも、動物たちも、そしておそらくは家そのものも)が、感じ取っていた。
雪解けの予感が漂う二月の終わり。アガサの魂は、地上での経験をすべて終え、愛と光に満ちた永遠の世界への扉が開かれるのを、静かに待っていた。彼女の周りには、先に旅立った愛する夫、彼女を導く天使たち、そして地上で彼女を愛し、支えたすべての生命たちの魂が集い、その瞬間を祝福しようとしていた。