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第十章:一月 真冬の静寂と魂の対話

 一月。


 一年で最も寒い季節が訪れた。オカナガンの谷は、凍てつくような寒気に支配され、雪はさらに深く積もり、湖面は厚い氷で覆われた。アガサの家は、雪の中に埋もれるようにして静かに佇んでいた。煙突からは、か細い煙が立ち上り、この家にかすかな生活の営みが残っていることを示していた。


 アガサは、ほとんどの時間をベッドの上で過ごしていた。目を開けている時間も短くなり、意識はますます内なる世界へと深く沈潜していった。彼女の周りには、もはや現実の部屋の風景よりも、夢の中で見る光景――光り輝く庭園、優しい笑顔のアーサー、そして柔らかな光を放つ天使たちの姿――が、よりリアルに感じられるようになっていた。


 彼女の口から言葉が発せられることは、ほとんどなくなった。しかし、時折、穏やかな微笑みを浮かべたり、誰かに向かってかすかに頷いたりする仕草が見られた。彼女の魂は、もはや言葉を必要としない、より深いレベルでの対話を行っているようだった。


「アガサ、聞こえるかい?  私たちはいつもそばにいるよ」


 アーサーの声が、常に彼女の耳元で囁いていた。


「怖がることは何もない。ただ、安らかに、流れに身を任せるだけでいいんだ」


 天使たちの声も、優しい音楽のように響いていた。


「あなたの魂は、もうすぐ自由になる。光の中へ、愛の中へ……」


 そして、驚くべきことに、雪に閉ざされた庭の花々もまた、彼女に語りかけてきた。


 物理的な形としては眠りについているはずの彼らが、魂の存在として、アガサの意識の中に現れるのだ。


「アガサ、私たちを忘れないでね。春になったら、またあなたのために咲くから」


 薔薇の魂が、甘い香りと共に囁いた。


「僕ら向日葵は、太陽の光をあなたに届けるよ。あちらの世界にも、きっと太陽はあるはずだから」


 向日葵の魂が、力強く語りかけた。


「私たち忘れな草は、あなたの愛の記憶を、いつまでも大切に守っているわ」


 忘れな草の魂が、可憐な声で言った。


 アガサは、その一つ一つの声に、心の中で静かに頷き、感謝を送った。


 彼女の世界は、もはや孤独とは無縁だった。


 愛する夫、天使たち、そして庭のすべての生命たちが、彼女を取り囲み、支え、祝福してくれていた。


 メアリーは、ほぼ毎日、アガサの家を訪れた。彼女は、アガサの身体を清め、わずかばかりのスープや水分を口元に運び、そして何よりも、ただ静かにそばに座って、アガサの手を握り、温もりを伝えた。


 メアリーには、アガサが見ている幻視や聞いている声は、もちろん理解できなかった。しかし、アガサが深い安らぎの中にいることは、痛いほど伝わってきた。その穏やかな寝顔を見ていると、メアリー自身の心までが、不思議と静まっていくのを感じた。


 一度、町の医者が往診に来た。


 彼はアガサを診察し、メアリーにいくつかの指示を与えたが、積極的な治療はもはや意味がないことを示唆した。


「あとは、ご本人が安らかに過ごせるように、見守ってあげることですね」と、彼は静かに言った。アガサ自身も、延命のための措置は望んでいないことを、以前、メアリーに伝えていた。


 動物たちは、変わらずアガサの忠実な守護者だった。


 彼らは、ベッドの周りを離れようとせず、交代でアガサに寄り添い、その温もりと存在で彼女を支えた。彼らの目には、深い理解と、別れを予感する静かな悲しみが宿っているように見えた。しかし、彼らは決して騒ぎ立てたり、アガサの平安を乱したりすることはなかった。ただ、静かに、愛を込めて、彼女の最後の旅路を見守っていた。


「アガサの魂は、もうほとんど、あちらの世界に属しているようだね」


 マックスが、他の犬たちに囁いた。


「ああ。我々の役目も、もうすぐ終わるのかもしれない」


 バディが寂しそうに答えた。


「だが、我々は最後まで、彼女のそばにいよう。それが、我々にできる、最後の愛の証だ」


 チャーリーが、静かに、しかし力強く言った。


 リリーは、週に数回、電話をかけてきた。メアリーから祖母の様子を聞き、時には、眠っているアガサの耳元で、メアリーが受話器を当ててくれた。リリーは、祖母に愛していること、感謝していることを伝えた。アガサがそれを聞いているかはわからなかったが、リリーは、自分の言葉が祖母の魂に届いていると信じたかった。リリー自身もまた、祖母の静かな旅立ちを受け入れ、心を整え始めていた。祖母が教えてくれた死生観が、彼女の中で確かな支えとなっていた。


 近所の人々は、アガサの家を、敬意を持って遠巻きに見守っていた。以前のような好奇の噂は消え、代わりに、アガサの存在に対するある種の畏敬の念が漂っていた。彼女の家は、まるで俗世から切り離された聖域のように感じられた。


「マーティンさん、きっと、もうすぐ天使様がお迎えに来るんだろうね……」


「ああ、あんなに穏やかな顔をして逝けるなんて、幸せなことだよ……」


 そんな言葉が、静かに交わされるようになった。


 一月の終わり、厳しい寒さが続く中、アガサの呼吸はますます浅く、静かになっていった。彼女の意識は、もはやほとんどの時間、光に満ちたあちらの世界にあった。身体という殻から、魂がゆっくりと離れようとしているのを、彼女は安らかに感じていた。痛みも、苦しみも、恐れもなかった。ただ、深い静寂と、愛と、光があるだけだった。真冬の庭は、厚い雪の下で、春の再生の力を静かに蓄えていた。そして、アガサの魂もまた、地上での生を終え、永遠の春へと向かうための、最後の準備を整えていた。


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