「小さな光のそばで」
翌日、夕嬢はいつも通り学校にやって来ると、休み時間に鈴木太白の机の前へと歩み寄った。昨夜、彼の沈んだ様子については特に触れず、彼女は温かいコーヒーを一杯差し出した。
「今日は少し冷えるね。これ、飲んで温まって。」
太白は顔を上げ、彼女の優しい眼差しに気づくと、心の中が少しだけ温かくなるのを感じた。彼は小さな声で「ありがとう」と言いながらコーヒーを受け取った。
「まだ彼女のことを考えているの?」夕嬢は隣の机に寄りかかりながら尋ねた。声のトーンは穏やかだったが、どこか慎重さがにじんでいた。
太白はしばらく下を向いて沈黙した後、軽くうなずいた。
「彼女が今どうしているのか気になるけど……僕にはもう彼女を困らせる権利なんてないと思う。」
「どうしてそんなことを言うの?」夕嬢は眉をひそめた。「気持ちの問題に“権利”なんてないでしょう?たとえ離れてしまっても、あなたの気遣いが間違いだとは思えないけど。」
太白は苦笑いを浮かべ、カップのふたを指先で軽く回しながら言った。
「彼女にどう向き合えばいいのか、自分にどう向き合えばいいのか……それが全然わからないんだ。」
夕嬢はそれ以上問い詰めることはせず、話題を変えた。
「今週末、時間ある?図書館に行こうよ。ちょうど調べたい資料があるし、環境を変えたら気分転換になるかもしれないよ。」
太白は少し迷ったが、やがて静かにうなずいた。
「……わかった。」
その週末の午後、夕嬢と太白は約束通り市立図書館を訪れた。高いガラス窓から陽光が木の床に差し込み、本棚の間には紙とインクの淡い香りが漂っていた。夕嬢は窓際の席を選び、参考書を数冊並べてノートを広げると、メモを取り始めた。
一方の太白は椅子にもたれながら小説を抱えていたが、内容がまったく頭に入らなかった。彼の視線は窓の外に向けられ、まるで外の景色に心の迷いを解決する答えが隠されているかのようだった。
夕嬢は彼が心ここにあらずの様子に気づくと、そっとため息をつき、ノートを閉じた。そして彼のほうへ身を寄せて、小さな声で話しかけた。
「何か話したいこと、ある?」
太白は手元の本に目を落とし、それから夕嬢の顔を見上げて、疲れたような微笑みを浮かべた。
「何から話せばいいのか、わからないよ。」
「じゃあ、今の気持ちから始めればいいんじゃない?」夕嬢の声は柔らかく、その瞳には彼を励ますような光が宿っていた。「話したくないことは無理に言わなくていい。でもね、ずっと心にしまっておくと、もっと苦しくなるよ。自分のためにも、あなたを大切に思う人のためにも、少しだけでも楽になってみよう?」
太白はその言葉に動揺した表情を見せた。しばらくして、彼はぽつりと尋ねた。
「どうして君はいつもそんなに僕のことを気にかけてくれるの?」
夕嬢は一瞬黙り込み、それから優しく微笑んだ。
「あなたがずっとこんな状態でいるのを見たくないから。何があっても、私はあなたのそばにいるよって、知ってほしいから。」
その一言は太白の心に深く響いた。彼はしばらく黙り込んで考え込んだ後、低い声で言った。
「ありがとう、夕嬢。僕はきっといい友達とは言えないけど……変わる努力はしてみる。」
その言葉を聞いた夕嬢の瞳に、一瞬安堵の色が浮かんだ。それでも同時に、何とも言えない切なさも胸にこみ上げてきた。彼が変わる理由が自分のためではないことを、彼女は分かっていたからだ。しかし、太白が前を向くきっかけになれるのなら、それで十分だとも思った。
夕嬢の支えのおかげで、鈴木太白の生活は少しずつ秩序を取り戻していった。彼は宿題を期限内に終わらせるようになり、授業中も依然として物静かではあったが、以前のような心ここにあらずの様子は見られなくなった。
ある穏やかな午後、太白は本棚から沖田玉妃からもらった数冊の本を取り出し、机の上に並べて開き始めた。それらの本の表紙は少し色あせており、空白の余白には玉妃の手書きのメモがいくつか残されていた。簡潔な感想、拙いイラスト、そして意味深な一言二言が書かれていることもあった。
「こんなこと、きっと彼女はもう覚えていないんだろうな……」太白はその文字をじっと見つめながら、複雑な感情が胸に込み上げるのを感じた。
最後に手に取ったのは、二人で撮った一枚の写真だった。写真の中、玉妃は秋の紅葉の木の下で微笑みながらわずかに顔を上げていた。その隣に立つ太白は、どこかぎこちない表情を浮かべていた。それは学校の課外活動中に撮影した写真で、玉妃が「この日は忘れないように」と言って現像してくれたものだった。
改めてその写真を見ると、太白の心はどこか遠い過去へと引き戻されたようだった。彼はしばらくその笑顔を見つめた後、小さく息をついて、その写真を古びた箱の中にしまい込んだ。
そのとき、部屋の扉がそっと開き、母親が入ってきた。机の上に広げられた品々を見ると、母は少し驚いた表情を見せた。
「これ、玉妃さんのもの?」
太白は無言でうなずいた。
母親は彼のそばまで歩み寄り、肩にそっと手を置いた。
「太白、今はまだ整理できないこともあるかもしれない。でもね、時間が経てば、きっとその記憶も少しずつ穏やかに受け入れられるようになるわ。」
「……わかってる。」太白は小さな声で答えた。母親を見上げる彼の瞳には、まだ少し迷いが残っていたものの、どこか決意の色も感じられた。
その夜、太白は思い出の詰まった箱を棚の奥にしまい込むと、机に向かい、ノートを開いて久しぶりに勉強を始めた。ページをめくる音と、鉛筆が紙の上を走る音が静かな部屋を満たした。それは、彼にとって久々に訪れた平穏な夜だった。




