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雨に散る恋の傷、星影沈みて縁を嘆く  作者: 青井朔
第四章 「微かな光と影」
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「届かない距離の中で」

朝の最初の陽光が教室に差し込み、鈴木太白は早くから自分の席に座り、前日に書いたノートをめくっていた。だが彼の思いは教科書から離れ、隣の空席に漂っていた。


時間が一分一秒と過ぎていく中、沖田玉妃はなかなか姿を現さなかった。やがて朝礼が始まる直前、教室の扉がようやく開き、玉妃が湿った髪をなびかせて入ってきた。まるで慌てて雨に濡れたようだった。


彼女は一言も発さずに席に着き、その動作はとても静かで、まるで自分の存在を意図的に隠しているかのようだった。太白は彼女の額に残る数滴の雨粒に気づき、迷わず自分のハンカチを取り出して差し出した。

「雨に濡れたの?」


玉妃は少しだけ動きを止めたが、ハンカチを受け取らず、低い声で答えた。

「大丈夫。もうすぐ授業が始まるから。」


その口調にはどこかよそよそしい疎外感があり、太白の胸に不安を生じさせた。彼はハンカチをポケットにしまいながら、思わず彼女に目を向け続けてしまった。


1時間目は物理の授業だった。先生は講台で熱心に話していたが、太白の注意はずっと隣の玉妃に向けられていた。彼は、彼女のノートがほとんど何も記録されていないことに気づいた。ペン先は時折紙の上で止まり、または意味のない線を引いていた。


「手伝おうか?」彼は声を落として聞いた。


玉妃はノートを見つめ続け、数秒後に軽く首を振った。

「大丈夫。」


太白は無力感に襲われた。彼はこんな彼女を見たことがなかった。疲れきったようで、抗おうとするようで、まるで見えない壁を築き、周囲の人々、そして自分さえも遠ざけているようだった。


彼はそれ以上何も言わなかったが、心の中で密かに決意した。休み時間になったら、どうにかして彼女と話す機会を作ろう、と。


チャイムが鳴り、授業が終わると同時に、玉妃は教科書を片付け、席を立とうとした。しかし太白は一歩早く彼女の手首を掴み、柔らかい口調で言った。

「玉妃、少し話せないか?」


玉妃は少しだけ動きを止め、やがて静かに席に戻った。


「最近、悩み事があるんじゃないか?」太白は声を落として尋ねた。周りのクラスメートに聞かれたくないように、小声だった。


玉妃は下を向いたまま教科書の端をいじり、太白の質問には答えずに黙っていた。その様子に、太白は少し溜め息をつき、さらに柔らかい声で続けた。

「もし話したくないなら、それでもいい。ただ、俺はいつでも聞く準備ができてる。」


その言葉に、玉妃は僅かに反応した。彼女の手は微かに震え、やがて小さな声で言った。

「太白、君は……誰かに近づこうとすればするほど、その人を傷つけることになるって思ったことはない?」


太白は驚き、返答に詰まった。その言葉には深い意味が込められているようで、彼にはそれを完全に理解することができなかった。


「俺はそうは思わない。」彼は真剣な表情で答えた。「大事な人なら、近づくのは当然のことだと思う。」


玉妃はそれでも目を上げることなく、教科書の端をさらに強く握りしめた。彼女は深く息を吸い、何かを言おうとしたが、結局は立ち上がり、小さな声で「ありがとう」とだけ残して教室を出て行った。


授業中、千葉夕嬌は静かに二人のやり取りを見守っていた。彼女は教室の反対側の席に座り、表向きは授業に集中しているように見えたが、その視線の端は常に太白と玉妃に向けられていた。


夕嬌には気づいていた。玉妃は避けていて、太白はそれでも彼女に近づこうとしている。その二人の間に漂う緊張感は、張り詰めた糸のようで、いつ切れてもおかしくない。


放課後、雨がまた降り始めた。窓の外、途切れることのない雨音が世界を隔てるように聞こえた。教室の中、太白の視線は再び玉妃の背中に向けられていた。


その背中はいつもよりも静かで、まるで流れに逆らうことを諦めた葉のようだった。それでも太白は、離れていくその背中を追わずにはいられなかった。


午後の最後の授業が終わり、鈴木太白はまだ席に座ってノートを整理していた。急いで帰ることもなく、目線は時折隣の席に向けられた。二人は隣同士の席で、本来なら最も親しい間柄であるはずなのに、今の距離感は重苦しいものだった。


玉妃は教科書を片付ける手が早く、まるでここから逃げ出したいかのようだった。彼女が立ち上がった瞬間、太白が呼びかけた。

「玉妃。」


彼女の足が一瞬止まり、しかし振り返ることはなかった。


「今晩、時間ある?」太白は少し探るような口調で続けた。「少し話したいことがあって。」


玉妃の指は鞄のストラップを強く握りしめ、数秒の沈黙の後、小さな声で答えた。

「今晩はちょっと無理。ごめん。」


それだけ言い残して、玉妃は早足で教室を出て行った。太白にはそれ以上問い詰める隙さえ与えられなかった。


教室にはまだ数人の生徒が残っていたが、太白は机に伏せるようにして力なくため息をついた。その様子を見ていた千葉夕嬌が彼に近づき、声をかけた。

「話したくないって言うなら、少し時間をあげたら?」


太白は顔を上げ、眉間に軽くしわを寄せた。

「でも、彼女が何か隠しているように思えてならない。今、話しておかないと、もう二度と話せなくなる気がして……。」


夕嬌の表情が少しだけ揺れたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。彼女は太白のノートに目を落とし、優しい声で言った。

「太白。答えって、急いで聞いても見つかるものじゃないよ。物理の問題みたいに、時間をかけて解かなきゃいけない時もあるんだから。」


太白はその言葉にしばらく黙り込んだ後、苦笑しながらうなずいた。

「そうだな……でも、ただ……」


「ただ、心配なんだよね?」夕嬌は少し笑って答えたが、その目には隠しきれない複雑な感情が浮かんでいた。


「うん。」太白は否定せずに言った。彼の視線は再び窓の外に向けられた。そこには雨の中に消えかけた玉妃の姿があった。その背中は雨にぼやけ、ほとんど見えなくなっていた。


一方、沖田玉妃は一人で放課後の街道を歩いていた。雨粒が傘の表面に落ち、軽やかな音を立てている。彼女の歩みは遅く、まるで時間を引き延ばそうとしているかのようだった。


やがて彼女は道端のカフェの前で立ち止まった。扉を押して中に入ると、窓際の席を選んで座り、熱いコーヒーを注文した。店内には静かなピアノ曲が流れていたが、それでも彼女の心の中に渦巻く複雑な感情を静めることはできなかった。

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