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青龍陛下の恋の精霊 〜青龍様に恋をさせろ!?ただの泉の精にむちゃぶりです!〜

作者: 日室千種

 美洲稚(みずち)は泉の底で両膝を抱えて座り込み、ぷくぷくと自分の口から昇っていく泡をぼんやりと見上げていた。


 美洲稚(みずち)は泉の精霊だ。清涼な水を保つためにそこに棲む、他愛ない力しか持たない普通の精霊の女の子。

 泉のように透ける白い髪と、水面に咲く蓮のように淡い赤味のさした瞳を持つ。


 別に人の心を操ったりできるわけではないし、恋のまじないもできないし、未来がわかるわけでもない。

 なのに、たまたま恋の泉と名の付いた由緒ある泉を引き継いだせいで、まるで恋の願いを何でも叶えてくれる神様みたいに期待されるようになってしまった。

 そして勝手に落胆されるのだ。


「恋の精霊なんていっても、役に立たないわね」

 と暴言を吐かれることが増えた。


 美洲稚(みずち)は何もしていない。ただ泉を綺麗にしているだけなのに。


 そもそも、いもしない恋の神様に期待してやってくる彼女たちは、なぜ泉の中に貨幣や貴金属を投げ込むのだろう。金属は水を嫌な匂いにするからダメなのに。

 それをされると美洲稚(みずち)は水の浄化にかかりきりになるし、投げ込んだ娘を恨みすらする。恋の成就? 祈るはずがない!


「相手が望むことをしているかどうか考えようともしてないってことでしょう? なのに、誰かと両思いになりたいとか、結婚できますようにとか、どの口が言うのかってのよ。まずその心根を治して出直してこいっていうの! それに、まずは相手と知り合ったり語り合ったりして相互理解を深めていくのが手順よね? あと、勝手に忖度して身を引きたい相手の幸せを祈りたいなんて心にもないことを頼む前に、まず玉砕してから来なさいよお!」


 普段は人と顔を合わせるのも苦手で、誰か来ると泉の底で息を潜めている美洲稚(みずち)は、そんなこと、誰にも言ったことはない。せいぜいこうして、あぶくに閉じ込めて愚痴を吐き出すのがせいぜいだ。


 あぶくは泉の表に出ると弾けて靄となり、寄り集まって雲を成し、泉一帯に霧のような雨を降らせた。

 山や森に降った雨は土に染み、やがて土中を通って泉に湧き出してくる。

 泉底の中央から噴き出す透明な湧水が、細かな砂を巻き上げて螺旋を描く。

 美洲稚(みずち)が触れている水が、ほんのりと白金に光りを宿し、水の中へと遊離していく。


 ゆうるりと巡る白金の帯がちらりちらりと、泉の底の真白の砂や、ところどころに転がる岩、その影に張り付くような濃い色の水草や、あたりをかすめるように素早く泳ぐ銀の魚たちの間をたゆたう。

 透明な水に差し込む日の光が縦糸、細くたなびく白金の帯が横糸となり、静謐な泉の底の安寧を織り上げていくのを、美洲稚(みずち)はずっと眺めていた。



 *



 睡花と呼ばれるこの世は、要玉の上に乗る不安定な盆。

 盆の上には水があり土があり、天蓋を規則正しく動く太陽の恩恵で火があり風があり木があり、多種多様な精霊と人間が混じり合って生きている。

 盆の四方に聳える高山に朝廷を築き、地方の行政を取り仕切るのは最も神に近いと言われる最強の精霊、龍だ。かれらは概ね生真面目で、丁寧な目配りをする理想的な君主で、彼らが忠義を誓う女真皇は盆の中央、いにしえの地において、半ば神界へと存在を移しているという。


 そんな睡花の世が、今危機に瀕しているという。



 *



 神と精霊と人は、隔絶した力の差がありながら、その境界は曖昧で、神より強い精霊もいれば、精霊のごとき技をあやつる人間もいる。


 美洲稚(みずち)は泉に潜っていないときには食事も睡眠も必要とする、かなり人に近い精霊で、そんな世の情勢など知らず泉のほとりに小さな小屋を持ち、そこで暮らしていた。


 必要な食料や日用品などは、決まった日付に決まった量が小屋に送られてくる。

 この東の地を治める青龍陛下のおわす蒼宮からだ。

 贈り物ではない。土地を任される精霊は皆、青龍を頂点とする東の蒼宮に地方官吏として仕えているから、これは俸給である。


 美洲稚(みずち)をこの泉の後継に選んでくれた先代は、しばらくは精霊としての余生を楽しみたいから各地を旅して回ると言い残していなくなってしまった。

 それから、美洲稚(みずち)はずっとひとりで、時に迷惑な客に頭を痛め、ほんの稀に小さな恋を応援しながら、静かに平穏に暮らしている。




 そんな美洲稚(みずち)を、ある日立派な輿が迎えに来た。

 キラキラした鎧の大きな男と、ひらひらした衣を幾重にも重ねた女たちが、美洲稚(みずち)を泉そばの小屋から引っ張り出し、輿の上に押し上げると、そのまま、走るような速度で泉を後にした。


「え、え、なに?」


 仮にも精霊を、その定着している場所から無理矢理引き離すとは、鬼畜の所業だ。官吏としてのお勤めとは別に、任された土地とは分かちがたく結びついているのが精霊である。


 輿から転がるように降りようとすると、美洲稚(みずち)は柔らかく弾かれた。輿の四方にまるで飾りのような顔をして取り付けられている細く繊細な金の鎖に、何か力を感じる。これが、結界を張っているらしい。

 美洲稚(みずち)程度の精霊では、取り除くことなどできそうもない。

 

「どうして、なんなの! だれか! だれかー! 人さらいですよぉ」


 輿が街道に出るや見かける人や精霊に助けを求めて大騒ぎをすると、辟易した様子の鎧の男が簡単に事情を説明すると言ってきた。説明する気があるなら、初めにしてほしい。


 輿を下ろし、茶を用意する者、輿を担いでいた肩をほぐす者、あたりに咲く花の精に挨拶する者とそれぞれが動く。もとより、ここで小休憩を取る予定だったのかもしれない。


 美洲稚(みずち)は輿から降りることは許されず、しかたなくそこで凝った肩と腰を地味に動かしてみた。


「さる予言をよくする高名な精霊が、青龍陛下が恋に目覚めることが世界を救うために必要だ、とおっしゃったのです」


「へあ? コイ? あ、あちっ」


 驚きすぎて、素の反応が出てしまった。

 男の切れ長の目が冷たく見てくるのをさっと俯いて避けたが、美洲稚(みずち)の手から茶碗を取り上げて赤くなったところを癒してくれたので、少なくとも塵か虫のように蔑まれたわけではなさそうだ。


 しかし、青龍陛下!

 官吏としての美洲稚(みずち)にとっては最上位の上司だ。女真皇から東の地を預かっている形とはいえ、その地に住まうものにとっては王と呼んでもよい存在である。数多の官吏が詰める蒼宮の、物理的に一番高いところに住まわれ、美洲稚(みずち)などお顔を拝したことすらない遠いお方だが。


 けれど同時に、美洲稚(みずち)も一応龍の端くれだ。いや本物の龍から見れば、トカゲだろ、と鼻で笑われるかもしれないが、一応眷属なのだ。

 そういう意味で、親愛や敬愛といった情はある。親もなく生まれ出でる精霊にとって、心の親のようなものだ。


 ただ。

 青龍陛下は、その気性、冷であり烈。

 登極以来、どれほどの美男美女に恋い慕われようと心動かさず、一度懐に迎え入れた者でも意に沿わねば燃やし尽くす、と言われている。

 青龍陛下の朝廷は他の三龍のそれより清廉かつ公正な政を敷き、爛れたところも歪んだところもない、と。


 つまり青龍陛下は間違いなく名君ではあるが、官吏にも龍の眷属にも、つまりは美洲稚(みずち)にとっても、近寄りがたいお方だ。


 その青龍陛下が……なんだって?


「陛下に恋をしていただかなくてはなりませんので、朝廷を上げてあらゆる手段を講じているのです。東国で名高い美男美女……には見向きもなされませんので、それはもう、醜女から老女まで拝謁させてみたものの、芳しくなく」


「そ、その流れでなぜ私が……」


「恋の精霊のお力に頼るためですよ、もちろん」


 男がかすかに笑いを含んだのは、それ以外に美洲稚(みずち)に何の価値があるのかと言いたかったのかもしれない。余計なお世話と怒ってもよいことだが、それどころではない。


 言葉を交わす時によく顔を見れば、男は理知的で品のいい顔立ちをしている。鎧も美しく磨かれているところを見れば、やはりならず者では有り得ない。同行の女性たちも、皆目の覚める美しさ。そして皆が、力ある精霊だ。美しくも優しい淡色の霊力に満ちている。


 霊力の質が近いと親しみやすいというのは、精霊たちの持つ暗黙の了解だ。

 彼らの優しい色合いは苛烈な感情が薄く、穏やかな質だと言うこと。

 しがない精霊の美洲稚(みずち)を慮ってのわけではないだろうが、やはりぎらぎらした色の皆さんでなくて良かったと思う。こんな信じがたい話を聞くには特に。


 彼らは、確かに蒼宮から来たのだろう。おそらくは一地方官吏の美洲稚(みずち)が会う機会などない、武将や女官といった高位の立場の者たちだ。

 目の前の鎧の彼の話にも、おそらく嘘はない。


 美洲稚(みずち)の手がガタガタと震え出して、男が再び茶碗を取り上げてくれた。

 恋の精霊だという噂を信じて頼られたものの、その実は人にすら役に立たないと唾棄される木っ端精霊であるとばれたら。

 青龍陛下に一睨みされて、存在が消し飛ぶ未来がありありと見えた。

 

 だめだ、無理、おしまいだ。


「誰よ、そんな迷惑な予言をした精霊はぁ」


 輿の上で叫んだ美洲稚(みずち)に、男が穏やかそうな声で教えてくれた。


「霊亀の爺様ですね」


 霊亀。その知性と霊力で龍をも凌ぐと言われる、大精霊だ。

 その名を聞いた途端、頭の中でガーンと大きな音がした気がする。

 美洲稚(みずち)は両手で頭を抱えて、輿に敷かれた柔らかな絹に突っ伏した。






 案の定、連れてこられた美洲稚(みずち)をちらと見て、青龍はくゎっと大口を開けて欠伸をしてから、わざとらしい息をついた。


 それはもう、恐ろしいほどに美しい男だ。

 美洲稚(みずち)はちんまりと玉座の前で控えながら、ちらちらとその顔を観察した。なにしろ、よってたかって今風の宮廷衣装を着せ付けられ、髪も複雑な形に結い上げられた。その額には重たい金の飾りが垂れていて、いい感じに美洲稚(みずち)の視線を隠してくれる。


 流れ落ちる滝水のように真っ直ぐな青銀の髪、蒼穹の向こうに横たわる夜のような濃青の目。一見優しげな優美な眉は、欠伸をしたとき以外はずっと鋭角を描いているが、睫も頬も鼻筋も唇も、どこも完璧すぎて、作り物めいている。

 けれど彼が背に追う彼の霊力は、天から落ちる瀑布の飛沫のごとき銀白に輝き、生き生きと燃え盛っているのだ。


 冷にして烈。これがそうか、と美洲稚(みずち)は納得した。


「恋ごときで、世を救えるはずがない」


 声すら、美しい。慈雨を浴びるような心地よさだ。

 美洲稚(みずち)はひっそりと、聞き入った。


「俺は何度もそう言ったぞ。一体お前たちの思考はどうなってる? 恋愛至上主義が高じて頭の中身が溶けて崩れたか? 土地付きの精霊を無理矢理連れてくるなど、野蛮極まりない。何を考えてる? 何も考えてないのだろう。今すぐに、戻してこい」


「陛下、われらとて色惚けした陛下を一度は見てみたいというだけでこんなことをしているわけではありません。事実、陛下はあの桃色の源に近寄ることがいまだ、できておられない」


「おい、今、しれっと無礼なことを言ったな」


「陛下が近づけなければ、他のどなたも近づけませんし、近づけたとしてもあれほどの力の噴出を抑える力が足りないと、先日中央での会議でそう結論付けられたと伺っております。陛下が、あのおかしな力に近づけなくては、この世は救われないのです。そこへ、かの亀爺様の予言ですよ。やれることはすべてやらなければ」


 この武将殿は、意外と陛下と近しいのかもしれない。

 遠慮や躊躇なく、ずけずけと意見を言っている。それにつれて、青龍の眉間の縦皺がぐぐっと深くなる。

 怒っている。


 ここは天下の青龍陛下のやや私的な謁見の間だそうだ。蒼宮の最上階にある。

 輿ごと転移して連れて来られてそう教えられ、もはや気絶することもできず人形のように言いなりになっていた美洲稚(みずち)は、主従の言い合いを片耳に入れながら、青龍に同情していた。


 そうですよね~。


 恋とは、しごく私的なものだ。人それぞれ、感じ方も考え方も違うだろう。

 一般に恋は激情であり、尊いものであり、人を変化させる力を持つ。だが己の恋とこの世の危機を勝手に結びつけられては、戸惑うのも当然だ。


 でも、美洲稚(みずち)は知っている。

 誰でも、恋をすると帯びる霊力の色が変わるのだ。相手の霊力の色を乗せて。

 青龍の美しい銀白の霊力に赤味を足せば、まあ、桃色になる可能性はあるだろう。


 今この睡花の世を脅かしている脅威は、正体不明の桃色の霊力だそうだ。地から染み出すように噴き出して、あたりの生き物を魅了してしまう。

 そして同時に、誰の霊力も弾いてしまうのだという。

 でももし、同じ桃色の霊力なら。弾く力も弱くなるかもしれない。そんなことあるのか誰も知らないから、あるかもしれない。


 冷にして烈と言われる青龍は、実際に見る限り、怒ってはいるが冷たくは感じない。ここまで拗れて、素直に恋をするという展開もあり得ない気がするが。

 けれど万が一、青龍が赤い霊力を持つ誰かと恋をしたら。その霊力は銀白に赤みを加えた桃色になって、脅威の霊力に弾かれずに近づいて、押さえ込めるかもしれない。


 霊力の色で相性を見る。これが、恋の泉に相応しいと判じられることになった美洲稚(みずち)の特別な力だ。

 だがしかし、相手は正体不明の人でも精霊でもない謎の霊力。

 これは恋でも相性占いでもないのだと、美洲稚(みずち)は我に返った。


「予言と言いながら、口にするのは妄言ばかりだ、あの亀は」


 青龍はもう一度、はああ、と大きな息をどっと吐き出して、立ち上がった。びっしりと刺繍で埋め尽くされた青い絹の衣装が揺れる。


「おい、美洲稚(みずち)とやら。面倒だ、お前が相手でいい。俺が嫌がれば嫌がるほど粘着質に絡んでくるのがあの亀だ。せいぜい、予言の実現に努力していると示しておこう」


「……は?」


 なんだか聞いていた話と違う。

 美洲稚(みずち)はおろおろとここまで自分を連れてきた男を見たが、穏やかな微笑みを残して、男は腰を屈めたままするすると後ろへ下がっていった。

 入れ変わるように美洲稚(みずち)の前に立ったのは、青龍だ。

 大きい。

 幾重にも重ねた衣のせいもあって、存在感が圧倒的だ。


「許す、立て」


 そう言われても、両足跪いた状態からどう立っていいものか。立てる気がしない。

 そんなことを考えている間に、両腕を掴まれ軽々と引き起こされた。


 なんだろう、先ほどまでのぶうぶうと文句を言う様子も、こうと決めたら譲らない図々しさも、どことなく先代の泉の精霊を思い出させる。先代は、白髭の小さなおじいさんの姿の精霊だ。

 龍は寿命が果てしないので、若いも年寄りも見た目では区別が付かないと聞く。

 憤懣やるかたなしといった様子から一転、いいことを思いついたから絶対やってやるとばかりの顔をしたこの青龍陛下も、龍の一族にこの世の始めの時期に産まれた男児で、齢はかるく千を越しているはず。


 万年雪の氷を掘り出したような冷たい美貌と、膂力溢れる体つきは若々しいが、龍としてはかなりのじ……。


「おい、お前俺の前で考え事とは、意外と肝が据わってるな。お前の霊力はあまり押しつけがましくない。傍にいることを許す。できる限り恋人として扱うので、適宜応じよ」


「……はあぁ?」


「だが、別の方法も探しつつだ。恋が世界を救うだと? 笑わせる。そんな妄想に頼って共倒れなどしてたまるか」



 *



 青龍陛下が、一人の女性を片時も離さず側に置いている。


 そんな噂が蒼宮から東国、果ては世界中に広まるのに、恐ろしいことにひと月もかからなかったという。

 蒼宮の精霊たちが皆、大丈夫かと思うほどの恋愛好きだったためでもあり、わざわざ青龍が他の三龍に恋人ができた宣言を手紙で送りつけたせいでもあり、また、青龍が美洲稚(みずち)を連れて睡花の世のあちこちを文字通り飛び回ったせいだろう。


「ひ、ひいいいぃぃぃ!」

美洲稚(みずち)! 頭下げろ!」


 ガクガクと震えながら首をすくめた美洲稚(みずち)の髪を数本道連れに、美洲稚(みずち)の背後にいた爛れた豚のなりをした魔物は首を切り飛ばされた。

 ばしゃばしゃと魔物の体液を浴びて、気が遠くなりながらも必死にその場から逃れると、その踵を削ぐかという際どいところで青龍の破邪の術が広範囲を焼いた。


 この世の危機の真実を知りたいと青龍は言って。

 おかげで美洲稚(みずち)は、阿鼻叫喚、睡花の世の真下に広がるという奈落という名の地獄もここまで怖くはないのではないだろうか、そんな旅に連れ回されている。

 



 始まりは、見慣れない華やかで甘い色の霊力に惹かれて眠り込んでしまう青年が後を絶たない、そんな事件ばかりだった。だが、短い期間に状況は大きく変わっていたらしい。

 その桃色の霊力は、雲間から射す陽光のように、突如として大地から立ち上るそうだ。一般に霊力を目で見ることのできる者はいないが、その桃色の霊力だけは誰でも見ることができるという。


 初めは、周囲の動植物が元気になる。時に大きな動物も側で眠り込み、その後溌剌として去って行くこともあるという。

 やがて、動植物は徐々に黒ずんで腐り落ちていく。その頃には桃色の霊力が触れる土も腐り、まるで吸い込まれるように大地に落ち込んでいく。そうした土地は綺麗な円形に土地がくぼむことが多く、腐食円と呼ばれているそうだ。

 腐食円は東国だけでも数十カ所に生じており、徐々に大きくなっているという。


 この目で見たいと言い出した青龍に連れられて、最大とされる腐食円を見に来てみれば、近隣の村には既に住民の姿なく、すでに腐食円に呑み込まれた村もあるという。

 腐食円の底はすり鉢状に深く、重たい霧状の桃色の霊力が底に溜まっていた。


 青龍は美洲稚(みずち)をひょいと気軽に脇に抱え、すり鉢の中へと踏み入った。

 そして、聞いていたとおりに弾き飛ばされた。

 誤算は、体が軽いせいか文字通り宙を舞った美洲稚(みずち)を青龍が掴み損ねたことだろう。途中の木の枝に引っかかったので軽い怪我で済んだが、青龍や、鎧の男――名を風偉というと知った――や他の随行者たちにもずいぶんと驚かれた。

 仕方ないだろう、霊力の量も強さも段違いなのだ。泉から離れて久しいし。


 だがそれ以来、青龍はいつも美洲稚(みずち)を隣に置いて気を配るようになった。

 守ろうと思ってくれたのかもしれないが、青龍が立つ場所、それすなわち前線である。腐食円の周囲には、森や洞窟の奥深くにしか存在しない魔物が溢れかえっているからだ。美洲稚(みずち)はかえって頻繁に精命の危機にさらされるようになった気がしている。




 靴の踵部分が削いだように失われているのをみて絶句していると、腰を掴まれて引き起こされた。そしてふわりと美洲稚(みずち)を包む、慣れてしまった香り。


天慈宝(あじら)様、汚れてしまいます」


 呼べと命じられて許されず、恐る恐る呼び始めた青龍の尊名にも、慣れてきてしまっている。


「よい。あとで浄化する。おい風偉、このあたりに熱泉があったろう? 浸かりに行く。後から来い」

「は」

「は?」


 美洲稚(みずち)は混乱していた。泉に浸かる、すなわち産まれたままの姿になると言うことだ。男女が一緒に浸かるのは、男女が深い関係にある時のみ。

 恋人として遇すると言いつつ、そんな接触は一切なく来ていたのに。どういうことか。

 混乱している内に、青龍の術で飛翔して目当ての熱泉についてしまうと、いつの間にか青龍は素裸になっていた。


「きゃああ」


 こんな時に狙ったような可愛らしい悲鳴を上げてしまったが、美洲稚(みずち)としては脱兎のごとく逃げ出したい。目が潰れる。ただの木っ端精霊が、ここにいていいはずがない。


「お前も浸かれ。浄化はしてやったが、このごろ霊力も淀んでいるだろう。土地付きの精霊を連れ回してる方が悪いんだ、気にせず、少し休め」


「そこを気にしているわけじゃないですぅ」


「ははっ、じゃあなんだ。俺の裸に恥じらってるのか? 今更? よく背に乗せているだろうに」


 小馬鹿にしたように言われるのは、龍体化した青龍の背に乗って運ばれていることだろう。あんな、高所と速度の恐怖に半ば意識を飛ばしている状態を揶揄われるとは!


「あんなの、馬に乗ってるようなものでしょう! 男女の形で向き合うなんて恋人でもないのに破廉恥です!」


「馬! まさかお前、俺を馬呼ばわりしたのか!?」


 あ、と思う間に捕まって、身ぐるみを剥がれた。なんという手際の良さ。

 衣を失ったところが、青龍の肌に触れて、そのわずかに表出する細かい鱗と触れ合う感触に全身がかっと熱くなった。


 どこに触れられても熱くて、切なくて、どうしていいかわからなくて丸くなった美洲稚(みずち)を、青龍は意外にも丁寧に抱えて、泉にどぼんともろとも飛び込んだ。


 二人の本性は水にゆかりの精霊だ。

 赤い岩盤に囲まれた深い熱泉に、すぐに馴染んで揺蕩った。


「ほら、お前の泉と繋げてやった」


 そっと解放されて、美洲稚(みずち)は懐かしい気配に引き寄せられるように底へと進んだ。岩盤に深く入った亀裂から、冷たい故郷の泉の水が流れてきている。

 美洲稚(みずち)は、ぺたりと岩盤に張り付くように寝そべった。





 赤い岩盤に横たわる白い裸体は、天慈宝(あじら)の目に眩しく焼き付いた。

 美洲稚(みずち)は亀裂から流れ込んでいるだろう、古巣の泉を捧げ持つように両腕をのばしている。

 浮かんだ肩の骨が優美な影をつくり、白い背がしなる。くつろいだ猫のような姿勢になった美洲稚(みずち)の意識から、きっと天慈宝(あじら)は消えている。


 面白くはない。

 だが、出会ったときから天慈宝(あじら)の美貌を恐れるでも恋い焦がれるでもなく、小さな泉を任される程度の精霊の身で、青龍に同情までしていた美洲稚(みずち)の肝の据わり具合は並ではない。

 身の程知らずの仔犬が吠えるのは目障りだが、表面上は大人しくそっと視線を隠しつつ、ちゃっかりこちらを観察してくるのには不快感は不思議となかった。

 これほど受け入れやすい存在と出会ったのは初めてで、愉快ですらある。


 謁見の間においては、玉座に座る者から心を隠すことはできない。そういう術が仕掛けられている。

 美洲稚(みずち)が密かに思案していた、霊力の色による相性というものが本当であれば、それこそ、美洲稚(みずち)天慈宝(あじら)はどうなのだろうかと、あれからつい考えてしまう。


 やがて美洲稚(みずち)が身に纏う水が白金の輝きを帯び、美洲稚(みずち)のまわりを慰撫するように巡ってから亀裂へ吸い込まれ始めた。

 溢れた一部の白金の帯は、裾をたなびかせて熱泉の高温の渦に巻かれて舞い上がり、また泉全体に広がって、赤い岩石に金鉱石のごとく煌めきを埋め込んだ。


 天慈宝(あじら)の目に、その色は見えない。けれど、何が起こっているかは、感じ取ることができた。

 なるほど、これが泉の精霊。

 つねに湛える水を清水とする業は、龍である天慈宝(あじら)も成すことはできるが、これほど美しく優しく自然にはできない。良くも悪くも龍は強大だ。浄化のついでに、水に生きるものまで灼いてしまうかもしれない。


 美洲稚(みずち)から、小さな泡がぷくぷくと上がっていく。

 つられてゆらゆらと水膜のように広がる透白の髪と、小さく華奢な踵を確認して、天慈宝(あじら)はらしくもない安堵の息をついた。

 傷つけなくて、よかった。


 目を離せずに腕を組んでそのまま見ていれば、うっすらと開いた目がこちらを向いた。

 いつもなら、さっと顔を背けて頬に朱を散らせるだろう美洲稚(みずち)も、今はぼんやりとしている。

 魂が縁づいた恋の泉を浄化することで、自分自身にも霊力が満ちてきているのだ。さぞ快いのだろう。

 常に霊力に満ちている天慈宝(あじら)には、わからない感覚だ。


 だが、花弁のように瞳孔の周囲にだけ血のような赤みを帯びた薄色の目を見ていると、天慈宝(あじら)もまた、満ちゆく快さを味わうかのようだった。


 まるで、その紅のような赤がそのまま一滴、己の心にも垂らされたかのように。

 ひとしずくなど、神とも並ぶ強大な銀白の霊力をいささかも染めることなど、ないけれど。



 恋など、世界を救うはずがない。

 天慈宝(あじら)のその考えに変わりはない。

 だが美洲稚(みずち)を連れて飛び回る、その行く先々で予想を超えた惨状を目の当たりにすれば、仮にも為政者としては手をこまねいている訳にはいかない。

 亀爺の予言に振り回されるのは癪だ。それを口実にして世話を焼こうとする蒼宮の者たちににもうんざりしていた。だから、美洲稚(みずち)を側に置いたが。

 蒼宮に一度戻り、霊力の色を見る恋の精霊として、美洲稚(みずち)に別な使命を与えねばならないだろう。

 

 それが終われば泉に帰ってよいと言えば、さぞ安堵するはずだ。

 戦闘にも魔物にも脅かされず、穏やかに過ごせるように、特別に泉近辺の保護を強くしようと思う。

 恋の泉とやらを見たことはないが、きっと美洲稚(みずち)の霊力を帯びた清涼なよき水に満ちたよいところだろう。

 その深い泉の底で、美洲稚(みずち)がうっとりとのんびりと、過ごしてくれれば、それでいい。その光景を守るためならば、何でもできる気がする。


 天慈宝(あじら)はいまだ赤い岩盤に咲く蓮の花のような美洲稚(みずち)を見つめて。

 まるで恋に蓋をするように、目を閉じた。



 *



 過酷な旅も、終わってみれば懐かしい。

 蒼宮に戻ってからの美洲稚(みずち)は、ぼんやりと時間を持て余し気味だった。


 あれほど片時も離れたことのなかった青龍と会えなくなった。

 蒼宮の奥宮に快適な部屋を与えられ、風偉をはじめ、少し馴染んで仲良くなった女官たちも専属として付けてもらっている。


 優秀な精霊が揃う蒼宮では、美洲稚(みずち)のできることなど限られていて、手伝うことすらほとんどない。美洲稚(みずち)の一日は、ぼんやりすることと、合間に泉の水の浄化を祈ることだけだ。

 なんとなく、ぽっかりと空いた胸の空隙を誤魔化すように、美洲稚(みずち)は祈った。


 恋人として扱う、という話はなくなったのだろうか。

 だとしたら、もう少しすれば泉に帰ってもいいのだろうか。


 悩んでいると、ようやく青龍が美洲稚(みずち)の部屋を訪れた。

 いつも規律正しく静謐な蒼宮が、朝から奇妙にざわついている日だった。




 久しぶりの顔合わせ。だが、青龍は銀白の目映い霊力を揺らめかせて、目を合わせてくれない。

 美洲稚(みずち)の胸に、急激な暗雲が広がる。

 いつもは隣に腰掛けるよう促す青龍は、この日ばかりは何も言わなかった。


 だから美洲稚(みずち)は礼に則って、十歩離れた部屋の隅まで下がって、両膝をついて頭を垂れた。


美洲稚(みずち)、長く役目を押しつけて悪かった。今日この時で、側に縛り付けるのもやめよう。――ただ、その前に果たして欲しい役割がある」


 冷にして烈。一度懐に入れた者にでも、容赦はない。

 その声は、いつも通りに美しかったが、氷雨のように冷たかった。


美洲稚(みずち)よ、俺に隠し立てしていたことがあるな。霊力に色を見て相性をはかる目を持つそなたは、それを正しく申告しなかった」


「そ、それは」


「言い訳はよい。……ここ蒼宮に、睡花の世全土から、密かに高い霊力を持つ女人を集めさせた。その中から、赤の霊力を持つ者を選んでもらおう。俺の霊力と混じれば、あの甘ったるい桃色になりそうな霊力を持つ女人を、美洲稚(みずち)、お前が選べ」


 酷なことを、と悲鳴のような抗議をしたのは、美洲稚(みずち)ではない。

 風偉が、鎧を鳴らして美洲稚(みずち)の隣に跪き、厳しい声を出した。


「あれほどに寵愛を示していた美洲稚(みずち)殿を急に切り捨てて、女人の中から美洲稚(みずち)殿に選ばせるとは、ちと非道過ぎはいたしませぬか」


「寵愛のふりだ。そうだっただろう? 男女としては指一本触れてはおらんし、美洲稚(みずち)、恋をすると、相手の色を帯びるとそなたは言っていたが。俺の霊力の色は?」


「どうして知って……心を読めるのですか?」


「謁見の間限定のことだ。今は読めぬ。それで? 俺の、霊力の色に変わりはあるか?」


「いいえ、目映い銀白のそのままです」


 風偉が息を呑み、女官たちがああ、と密かな声を漏らした。

 美洲稚(みずち)には、その理由がよくわからない。


「では美洲稚(みずち)、お前の霊力の色は?」


「私ですか?」


 実を言えば、美洲稚(みずち)にとっては自分の霊力は自分の色という意識だった。

 たとえば体を覆う透白の長い髪の色。

 あるいは泉の中で、身に纏う白金の輝きがそうだと思い込んでいた。

 常日頃意識していなければ、自分の霊力は肌や産毛のように、見ていても認識していないのだから。


 だから、美洲稚(みずち)は問われて初めて、そっと自分に視線を走らせて。

 それから、ぎこちなく応えた。


「あの、自分の霊力の色は、見えないみたいです」


「……そうか、白という訳ではないのか。では霊力の色ではなく、お前自身に聞こう。俺に、恋をしたか?」


 その問いは、恋が世界を救うという予言を嗤っていた初めの青龍とは、別人かと思うほどに真摯な問いだった。


 美洲稚(みずち)は胸に手を当てた。

 とくとくと、落ち着いた心の音。目の前の至高のお方に、恐れ多くも親しみはあっても、恋い焦がれる想いはない。

 ない。


「……いいえ、陛下。恋はしていません」


 青龍は返答をせず。けれど、陛下呼びを改めよと言うこともなかった。

 美洲稚(みずち)の心は、とくとくと、とくとくと鳴っているだけだ。悲しいわけでもない。

 けれどどうして、自分のすべてが失われるような、こんな喪失を味わうのか。

 旅の間、ずっとそばにいて、ずっと楽しかった。心から楽しかった。それだけのはずなのに。

 答えは出ない。


 青龍は背を向けて、立ち去った。

 風偉も女官たちも、いつもよりも遠巻きな気がする。


 心に風が吹く。

 寒くてつらい、とも、もう言い出せない。

 美洲稚(みずち)にできるのは、ただ、恋の精霊としてせめて役に立つべく、赤い霊力を見定めるだけだ。

 それはきっと、青龍陛下の伴侶に相応しい、美しい牡丹のような色だろう。

 大した力もない美洲稚(みずち)でも見極められる。間違えるはずがない。


 初めて意識してみた自分の霊力が、新月の夜のような深い闇の色をしていたことを思い出して、美洲稚(みずち)はぎゅっと両手を握りしめた。



 *



 青龍陛下の伴侶選びは蒼宮の正面広場にて、吉日執り行われることとなった。

 空に瑞鳥の尾と呼ばれる白い雲のたなびく佳き日。

 百花繚乱。国中の花が集まったかというほどに、広場に色が溢れていた。


美洲稚(みずち)様、大丈夫ですか?」


 風偉が気遣ってくれるが、先ほどから美洲稚(みずち)の膝はガクガクと頼りなく、何度か転びかけている。


 朝から女官たちに綺麗に飾り付けてもらって、真っ白な装いだ。ただの一地方官吏の身としては普段より数段、いや数十段美しい絹の布目に、首を動かすのさえ緊張していた。

 そこへ、広場の様相を窓から目にして、一気に震えが来たのだ。


 広場の華々しい女人たちに比べて、自分のなんとつまらない地味なことか。だが、そんなこともどうでもいい。あの、色の洪水の中で、どうやって霊力の色を見よというのか。

 よろよろと、窓に縋った美洲稚(みずち)は恐れ戦いていた。


 恋の精霊なんて言って、役立たず。


 そんな風に、ここ蒼宮の人々は言うはずがないとわかっているけれど。

 けれど美洲稚(みずち)は、規律正しく静謐な蒼宮で働く精霊や人が、皆意外とからっと明るく楽しいことが大好きな人たちであることを知っている。彼らが青龍陛下のことを、心から敬い、その幸せを祈っていることも。睡花の世の危機とは言え、青龍陛下の心を歪めることのないよう、その心に沿う相手を何とか見いだしたいと、皆が懸命に手立てを講じていたことも。


 だからこそ、美洲稚(みずち)もきちんとお役目を果たしたかった。

 美洲稚(みずち)だって、一地方官吏ながら蒼宮の下の一員であり、青龍陛下のことを大切に思っているのだ。


 色の奔流に目を戸惑わせながら、美洲稚(みずち)はじっと広場を見渡した。


「今日は、予言を果たす吉兆の日として、予言をなさった霊亀の爺様もご列席なさるそうです。なかなか人前にお姿を見せることのない方ですので、一目見ようと、候補の女人と関係のない者まで広場に入っているようですね」


 風偉が穏やかに解説をしてくれる。

 確かに、広場の混雑は、女人の装いが派手派手しいばかりが理由ではなさそうだ。親族一同を引き連れてきているのかと言いたくなりそうな、大人数の団体もいる。


 徐々に、美洲稚(みずち)の心も落ち着きを取り戻した。

 ゆっくり、順に見ればよい。

 幸い、選別基準はそれなりに守られているようで、霊力が高い女人が多い。彼女たちの霊力はまるで炎のように天に向かってチラチラと舌を伸ばしている。

 多くは、無色か青。水に親和性の高い龍の眷属であれば、さもありなん。


「爺と呼ばれておりますが、霊亀は先代がお隠れになり、今は陛下より年若い方が継いでおられます。私も噂を耳にしたのみですが、漆黒の髪の青年に見えるお姿だそうですよ」


 風偉の声を耳に入れながら、美洲稚(みずち)ははっと息を呑んだ。

 ――見つけた。

 艶やかな、花の王と称される牡丹のような真っ赤な霊力。その女人は、明らかに高貴な姫君だ。


「あの方だわ。あんな素敵な方が、陛下の」


 ずきり、と胸が痛んだ。楔を打ち込まれたような、鈍く重い痛みだった。

 これは、何だろう。

 ぽろりと頬に涙がこぼれて、美洲稚(みずち)はようやく自分が深く傷ついていることに気がついた。

 これは、恋を失った痛み。

 自分は、恋をしていたのだと。


 その時。

 焼けるような視線を感じて、美洲稚(みずち)ははっとした。

 理由は説明できないが、青龍が見ていると思ったのだ。考えるよりも早く、そちらを向いた。


 目が合った。

 黒い、射干玉の目だ。白目が少なく、黒目がちな、美しい目。

 同じく漆黒の、顎で切りそろえた髪を揺らして、その青年は微笑んだ。青龍よりもくしゃりとした笑みは、人懐こい少年のよう。そして青龍に劣らず、ぞっとするほどに整った顔立ちをしている。

 誰だろう。


「あれは。――美洲稚(みずち)様、まさか霊亀の若とお知り合いか?」


 隣で風偉が何か言っているのに、答えるより前に。


 風が渦巻き、美洲稚(みずち)を飾る幾重もの金鎖がしゃららと音を立て、白い髪と白い衣がぶわりと膨らんだ。


「見つけた。やっと会えたね、美洲稚(みずち)


 風の収まったそこには、底の知れない深い笑みを湛えた、黒髪の青年が立っていた。


「僕は涅璃珪(くりか)だよ。いずれ君に、名を呼んでもらう伴侶だ」


 線の細い、学者のごときおっとりした姿。

 だが、美洲稚(みずち)の背には、どっと冷や汗が噴き出した。


 美洲稚(みずち)を庇おうと一歩踏み出した風偉が、果たす前によろめいて膝をついた。


「霊亀の爺様、いえ、若亀の君、これは無体というものでは」


「僕が話しかけてるのに邪魔をしようとする君の方が無体でしょうに」


 そうだろうか。

 何をしたのかわからないが、歯を食いしばる風偉の額に浮かぶ汗は有り得ない量だ。だが美洲稚(みずち)が何かを言おうとしても、ろくに口を動かせない。


 あたりには、新月の夜ほどの闇が立ちこめている。

 すべて若亀の霊力だと、美洲稚(みずち)にはわかった。圧倒的な量、圧倒的な闇の色。あるいは、青龍の霊力すら凌ぐかもしれない。

 これこそ精霊の賢者と言われる霊亀の霊力。


「うーん、でも、まだそそられないな」


 どうしてだろうな、と美洲稚(みずち)を見て首をひねっている。

 風偉の顔色がみるみる青黒くなっていくのが、美洲稚(みずち)は気が気ではなかった。

 けれど体も、口も動かない。

 だから。


 天慈宝(あじら)様、助けてください。


 美洲稚(みずち)は、自分の少ない霊力の一部を小さく千切って、どこにいるかわからない青龍へと飛ばしたのだ。

 旅をする間に、教わった術だった。いざという時に使えと言われ、けれど四六時中一緒にいたから使う機会などなかった。

 それを、今初めて使った。


 千切った霊力は、黒蝶の形を取った。

 こうして見れば、やはり美洲稚(みずち)の霊力は黒なのだ。まるで、目の前の若亀の霊力のように。


 ひらひらと舞ってどこかへ逃れようとする黒蝶だったが。


「手がかかるなあ、やっぱりこのままだとダメだね」


 ぶつぶつと何かを呟く若亀が、何かしているのだろうか。ある程度のところから先へと進めず、蜘蛛の巣にかかったかのように慌てて羽ばたいている。

 無力に暴れて、力尽き。

 窓際の空中に磔のようになった蝶の羽根が、深い深い緋色に透けて輝いた、と思ったのは、そこに目映い銀白の輝きが現れたからだった。


涅璃珪(くりか)、ようやく捕まえたぞ」

「なんだ天慈宝(あじら)、ぶしつけに。……っ」


 若亀の足下にタタタタッと続けざまに煌めく銀色の何かが突き立った。円形に、若亀を取り囲むように。

 沸き立つ、術の気配。

 だがそれも一瞬のこと。特に効果を発する前に、術はふいとかき消えた。


 憎々しげな顔をしていた若亀が、尊大に腕を組む。黒を基調とした豪華な衣装の袖が膨らんだ。


「何の真似だ。貴様の祝い事だと聞いて、わざわざ出てきた僕に対して取っていい態度か?」


「祝い事はまた別日。これは罠さ、貴様をおびき出すための。先代の霊亀の気配が濃厚な岩戸から出てこないものだから、なかなか貴様自身の霊力をはかる機会がなくてな」


「――ちっ、不愉快な奴だな、今ので霊力を写し取ったか」


 若亀の尊大さは変わらず、ただいささか粗暴な口調になった。

 いつの間にか隣に立った青龍に気づいて慌てて畏まろうとした美洲稚(みずち)は、腰を抱かれて青龍にピタリとくっついた。

 その前面に、まだ肩で息をしているものの立ち上がった風偉が立ちはだかり、主を守る体制だ。


 いつの間にか広場から遠く切り離されたかのように、喧噪が聞こえなくなっていた。


「その通り。常々、疑問でな。桃色の霊力こそが元凶と言われる根拠に、納得いかずにいた。そもそも目に見える色のついた霊力など、我らは聞いたことがなかった。そこに、おそらく誰かのつけいる隙があった。これは異質なもの、我らの霊力とは相容れないもの、と思わせるための」


 誰か、とはなんのことだろう。

 だが確かに、先代の泉の精霊だって言っていた。強大な霊力は気配でわかる、と。美洲稚(みずち)のように色のついた靄だったり炎だったりの形には、見えないのが普通らしい。


「だが美洲稚(みずち)が霊力の色を見ることができると聞いて思ったのだ。では、あれは普通に誰かの霊力ではないのか、と。だが霊力を可視化して、しかも他者を弾く術を常時発動すれば、それだけで異質で不吉な天変地異の元凶が出来上がる。――そんな器用な芸当ができる者は、ごく限られている」


「それが、俺だと?」


 青龍が頷くと共に、その場に新たに三つの人影が現れた。青に、翠に、橙の霊力。

 三龍の、おそらく実体ではない影だけが、そこにいた。今この場の出来事を見定めるために、睡花の世の四君主が集まったのだ。


「ちっ、石頭の龍どもが」


 若亀が吐き捨てた。


「もう認めてるも同じ態度だが、一応説明させてもらおう。桃色の霊力には、そうと思ってみなければわからない程度だが、涅璃珪(くりか)、お前の霊力が混ざっていた。こちらは可視化されていないから、お前の霊力が何色かも俺にはわからんが、公正な証拠とするために霊力の波長を記録してある。複数の霊力関知の能力を持つ者にも、確認をさせた。

 桃色の霊力の持ち主は不明だが、それを各地で溢れさせ、あたかもそれが元凶のように見せかけるために、紛れて腐食の術を使ったのもお前だな、涅璃珪(くりか)


 若亀は返事をする気はないようだった。

 どこか遠くの音を聞くように、窓の外に気を逸らしている。

 その視線の先、空の遙か向こうに、黒雲の気配があるのを気にしているのだろうか。


 三龍たちから、静かな質問が重ねられた。


涅璃珪(くりか)よ、先代の偉大なる師、霊亀の爺様の捧げた要玉が、各地の土地の腐食によって弱っている。それを何と心得る。要玉こそ、睡花の世の基盤。その玉の寿命を弱めるような真似を、何故、よりによってそなたがするのだ?』


 優しい声だった。

 けれど、若亀は美しい顔を歪めて、翠色の龍の影へとペッと唾を吐きかけた。


「お優しく正しい龍の方々。そうとも、俺があの腐食を起こしたし、確かに先代の爺が遺した要玉が崩れたら、次に要玉を捧げるのはこの僕だよ。ご心配いただいて有り難いが、僕は正気だ。お前たちのその心配は、この世がより長持ちするようにという心配だろう? 今の要玉がほんの何十年長持ちしたとして、僕の辿る運命は何ら変わらない。それって、不公平じゃないか?」


涅璃珪(くりか)……』


「僕は、運命に抗うんだ。運命に抗いたい、恋をしたからね」


 そうすっきりとした顔で言い切った若亀は、何故か美洲稚(みずち)を見たが。

 その眼差しは美洲稚(みずち)を通り越して誰かを見ている。だれか。きっとこの場にいる誰も知らない誰かを。


 その時、ぐらり、と世界が傾いた。


 揺れ、ではない。傾きだ。

 平地は坂となり、坂は平地か崖となった。川は逆巻き、激流となり、溢れて零れた。

 動物も人も精霊も、立っていることができずに地にしがみ付き、それでもずるずると低い方へと滑り落ちた。鳥は斜めになった木に止まり、手のある者は建物や杭にしがみついた。


 ――睡花の世は盆である。

 盆が傾けば上に乗るものは、落ちていく。

 どこへ。奈落へだ。


 最初に、盆の端、世の果ての森の木々が、それを支えていた豊かな土ごと落ちていった。梢に避難していた鳥たちは一斉に飛び上がったが、次から次へと落ちてくる大木に打たれ、巻き込まれて落ちていく。それでも逃れた一部の鳥たちは必死に盆の上の大地へと追いすがったが、ついに届かず。

 高い鳴き声すら、奈落に飲まれてすぐに消えた。

 只の墜落ではない。

 まるで吸い込まれすり潰されるような、悲痛な声だった。




 蒼宮もまた、傾いた。

 広場の者たちが将棋倒しになる直前に、飛翔の術を使える者が周囲を助け壁を足場にして床に張りついた。咲き誇っていた花たちは、悲鳴を上げて雪崩れ、地に伏し、まるで嵐の後のようだ。


 傾きは大きく進んで、その後止まったようだ。

 だれもが、一度、息をついた。


 美洲稚(みずち)は、青龍の腕の中、窓枠と床とに足をついていた。

 蒼宮は雲の上まで突き出た高山にある。

 今は足下にある蒼宮の窓からは、青い空と奈落の闇が真っ直ぐに虚空を二分する境界線が見えた。


 ぐぐ、と世界が軋む。また盆が傾く。

 これ以上傾いては、盆ごと落ちてしまうのではないかという角度。

 皆が斜めの世界にしがみついているそのとき。

 美洲稚(みずち)は、奈落からの呼び声を聞いていた。

 声だけではない。体が重い。引っ張られている。


「何だっ」


 青龍の腕が美洲稚(みずち)を深く抱き締めて引き留めた。


天慈宝(あじら)様、何か霊力が……」


 美洲稚(みずち)を重く引き摺るのは、何者かの霊力だと気がついて意識を凝らせば、全身に絡みついていた霊力が、少しずつ、薄紙を剥ぐように色を見せていく。


 それは闇の色、奈落の色だ。

 遠く冷たく永遠の深淵から伸びてきた闇の縄が、美洲稚(みずち)だけではなく引き留める青龍にまで絡みついていた。


「この色、これは、これは霊亀様の……」


 つい先ほども、同じ色に包まれそうになったばかりだ。若亀の霊力はこれによく似た闇の色をしていた。だが。


「僕、何もしてないけれどね」


 飛翔の術で空に浮き、楽しげに小首を傾げた若亀からは、霊力が伸びている様子はない。

 ずる、と青龍の足が滑った。先ほどから銀白の霊力を研ぎ澄ませて、絡みついた闇色の縄を弾き飛ばそうとしている様子だが、歯が立っていない。

 力が及ばないのだ。

 東国の青龍、今の四龍で最強と言われる龍が。


「ははっ、桃色の霊力と同じだよ。何かごちゃごちゃ考えててみたいだけど、相性だとか色だとか、そんなものは問題じゃない。あの霊力に混ぜた僕の――というより長い間溜め続けた霊亀の霊力が、今の天慈宝(あじら)より強い。それだけだ」


「では、この霊力は、先代の霊亀の……?」


「意思が残ってるかは怪しいけどねえ? 元はそう、先代の霊亀の霊力だ。今はすっかり、要玉と同化しているようだけれど。ほら、すごく怒ってるだろう? 僕が、要玉に例の桃色の霊力を打ち込んで均衡を崩したから、とても怒ってるんだ。それで、霊力の持ち主を道連れにしようとしている。一緒に、要玉に封じられてしまえってね」


 美洲稚(みずち)は、聞こえたはずの言葉が、一瞬真っ白に消えてしまった気がした。

 桃色の霊力の、持ち主? 誰のことだろう。


『霊亀の爺様が要玉に封じられていると、どうして思ったのだ』


 傾きの騒動に一度は消えていた三龍の影が、再び現れた。ゆらゆらと、陽炎のように揺らめきながらも、悲しげな声を届ける。


「思ったも何も、それしか答えはないだろう。霊亀の寿命は神ほどに長い。なのに先代はどこへ消えた。何千年も昔は、今よりもっと世界は傾いていたし、揺らいでいたというじゃないか。それが、ある時ぴたりと揺れが収まった。それ以来、爺は不在で、若亀と呼ばれる僕は聖域にほとんど閉じ込められている。誰もがわかる。爺が要玉の核となって安定させた。僕はその予備か、次代の核としてだけ生きている、生け贄だ。違わないだろう、何も?」


 只ひたすらに、夢を見るんだ。一人きりの白い空間で、目を開けたまま。死ぬためにだけ生きている僕が、誰かと共に生き幸せになる夢を見続けるんだ。

 もう、飽きたよ。

 僕だって、運命を変えたい。

 夢で見た、美しい花の色を手に入れたいんだよ。




 ぐ、ぐ、と睡花の世が傾く。

 土壌がなだれ落ち、軽くなるたびに小さな揺れ戻しがきて、そしてまた、だれかが盆の上を覗きたくて引っ張るかのように、大きく傾ぐ。


「ぬ、う」


 ついに足場にしていた壁にひびが入り、青龍はうなり声を上げて飛翔の術をかけ、自分と美洲稚(みずち)の周りに護りの術を重ねがけした。


「無駄だよ、天慈宝(あじら)。敵は要玉。この睡花の世を一人きりで支える、礎だ。世界そのものと言っていい。天慈宝(あじら)、君がいかに強い龍であっても、世界相手には勝てないよ」


 美洲稚(みずち)は、青龍の腕の中で震えていた。

 震えて、青龍の絹の服地がくちゃくちゃになるほどにしがみ付いていた。

 青龍の腕は自分と一体になれと言わんばかりにぎゅうぎゅうと美洲稚(みずち)を抱き締めている。

 けれど。

 このままでは。

 美洲稚(みずち)の手から、力が抜けた。

 だって、きっと美洲稚(みずち)はこの人を好きになったのだ。なぜか心は弾むことなく、失った痛みだけでそうと気づく、歪な思いだけれど。

 大切な人だと思う。

 だから。


天慈宝(あじら)様、もう、もう無理です」


 青龍の腕が食い込む。

 青龍ごと引き込む闇の縄とは別に、やはりどうしても、要玉は美洲稚(みずち)を取り込みたいらしい。

 美洲稚(みずち)にかかる重力は、きっと青龍にかかるそれの何倍もある。

 それを食い止めようと抱き締められて、いっそ青龍の腕で体が裂かれるかもと思うほどに、ぎちぎちと背が軋んだ。


「私、私の霊力も、本当は黒いんです。桃色じゃない。桃色じゃないのに! 霊力が少ないからか、まるで夜の蜜のように黒くて、だから、もしかして、要玉に同じだと思われたのかも……」


「ぐ、黙ってろ」


 青龍が、無理矢理に体を入れ替え、奈落に背を向けるようにして美洲稚(みずち)を抱え込んだ。

 その拍子に足場になっていた壁は脆くも崩れ、広場の向こうに立っていた塔の壁に、背から激突した。

 がらがらと崩れる塔の破片が、音もなく奈落へと落ちていく。


「ぐ、涅璃珪(くりか)ぁ!!!」

「なんだい天慈宝(あじら)


 楽しげな涅璃珪(くりか)は、ふゆふゆと青龍の真上に飛んで来た。


 動揺を抑えた周囲の者が青龍を支えようと慌ただしく動き始めるのを横目で見て、黒髪を揺らし肩をすくめて嘲った。


「この傾きが戻らない限り、睡花の世に安寧はないのに。今足掻いてもどうしようもないのがわからないなんてね」


「お前の狙いは、要玉の贄を美洲稚(みずち)に押しつけることか。なぜ美洲稚(みずち)なんだ」


「まさか! 僕は美洲稚(みずち)を手に入れたいのに、そんなはずはないだろう? ああ、でも、今のその小娘じゃない。未来の美洲稚(みずち)が欲しかった」


「未来の美洲稚(みずち)……?」


「そうだ。もっと成熟して強大な霊力を身に帯びた、美しい人だった」


 涅璃珪(くりか)の目が、美洲稚(みずち)に向いた。けれどやはり、黒い目は美洲稚(みずち)を通してどこかを見ている。


「私の霊力は黒で……。桃色じゃない」


「ふーん、そうなんだね。でも説明できちゃうな。だって、青龍は銀白なんでしょ? 面白くないことにさ、未来の美洲稚(みずち)の霊力は、恋をして変わったらしいよ。天慈宝(あじら)の妃となって爆発的に霊力量が増えたことは誰もが知る事実だった。未来ではね。きっと、君の濃すぎて黒く見える深緋の霊力は、霊力量が増えたことで薄まり、さらに天慈宝(あじら)の銀白を帯びてあの色になったんじゃないかな。未来では僕は、色までは知らなかったけれど。それはもう咲き誇る仙桃の花のように、華やかで甘い霊力を振りまいていたよ」


 だからね。


「たくさん溜まっていた霊亀の霊力を使って、青龍の不意を突き、未来の美洲稚(みずち)から霊力を奪って来たんだ。そして、現世の要玉に打ち込んだ。霊亀の霊力を混ぜたせいか、元々時間軸のずれた霊力だったせいか、面白いほど要玉を蝕んだよ。要玉が苦しんで吐き出そうとするから、美洲稚(みずち)の霊力は盆を通り抜け表層まで噴き出した。実は僕は可視化なんて何もしてない。未来の美洲稚(みずち)の霊力は、僕の手の中でなぜか桃色に見えるようになった。この世にとっては、異質な霊力だからかもしれない。……よい演出だったけれど、僕の狙いはそれじゃない」


「要玉の崩壊が狙いではないと?」


「それは、副次的な目的だね。僕はただ、この世の美洲稚(みずち)に未来の美洲稚(みずち)の霊力を近づけたら、自然と霊力が開花するんじゃないかと期待したんだ。どこに美洲稚(みずち)がいるのかわからなかったから、世界そのものに霊力を撒き散らしたかった。――期待外れだったけれどね。


 仕方ないから、予言をした。青龍の近くにいれば、開花の可能性が高まるかもしれないと思って。渋々だ。でも、また妃にされたら面白くないから、蒼宮に入る前に美洲稚(みずち)の心を縛らせてもらった。これほど手を尽くしたのに、まだ変わらないなんて、ほんと誤算だよ」


「期待外れに誤算続き。何も得られないのに、楽しそうだな。世界を、皆を道連れにしそうだというのに」


 青龍の周りに、翠や青の色を帯びた術が煌めき、わずかに奈落からの力が弱くなった。

 だがそれを、若亀が手を一振りして消してしまう。

 背後から飛びかかってきた若い兵士を、軽く避けて手刀ではたくだけで、兵士は半分に折れたように崩れ落ち奈落へ滑り落ちた。

 その隙に橙の霊力が若亀の足を撃ち抜いたが、これも手の一振りで傷が癒えてしまった。


「まあね。これから起こることが、本当に楽しみなんだ」


 そうだ。期待外れだ誤算だといいながら、ずっと若亀は笑みを浮かべている。

 嫌な笑みだ。

 この話を聞いてはいけないと美洲稚(みずち)は思った。思ったけれど、何もできなかった。


「あのね天慈宝(あじら)、実はお前だけが美洲稚(みずち)を救えるのさ。なぜならあの桃色の霊力は、忌々しいことにお前こそが美洲稚(みずち)に与え、引き出したものなんだから。あの桃色の中には、お前の霊力も入ってるってわけだ。――要玉が欲しているのは、道連れ一人。どうする?」


 美洲稚(みずち)と青龍の視線が、交わった。

 その一瞬で、互いに何を考えているかが稲妻のように伝わる。

 今にも自分の体を突き抜けて奈落へ落ちていこうとする、鉛のように重い美洲稚(みずち)を、青龍は深く抱き締めて、そっと触れるように口づけた。


天慈宝(あじら)様、だめ」

「俺の、恋心をお前にやる。だから、お前は生きろ」

天慈宝(あじら)様」


 若亀が、煩わしい背後からの術をすべて振り払い、二人がぎしぎしとめり込む塔の壁を、蹴り抜いた。

 崩れ落ちる塔の影で、青龍は美洲稚(みずち)を渾身の力で突き放した。

 全身に闇の霊力を絡みつかせていた美洲稚(みずち)を、背後から掬い取るように若亀が羽交い締めにする。その途端、ぶちぶちと腐り落ちるように闇の縄は崩れ落ちた。


 奈落へ落ちていく青龍へと、力なく、美洲稚(みずち)は手を伸ばす。

 なんと、なんと無力な己の手なのだろう。


「まだだ。縛りを解いてやるから、あの霊力を見せろ」


 耳元で囁かれて。

 いつか聞いた、割れ鐘が鳴るような不快な音が頭の中で鳴り響いた。

 ガチリ、と何かの鍵が外れたような気がする。いつの間にかかけられていた箍が外れて。


 押さえ込まれていた青龍への恋心が、愛おしさが、爆発するように噴き出した。


 美洲稚(みずち)を見つめる、濃青の目の優しさ。

 寒がる美洲稚(みずち)を毛布でぐるぐる包んで笑う目尻。

 消えてしまった村の方角を見つめる苦しげな表情。

 旅先の雑魚寝で虫の音に合わせて歌う小さな声。

 玉座に相応しい、端麗で偉大でそして己に厳しい王としての姿。

 

 恋心だけ置いて、行ってしまわないで。

 あなたこそが、わたしの恋。


 奈落に、美洲稚(みずち)の嘆きが響いた。




 *




 奈落へ落ちていく天慈宝(あじら)は、いつの間にか周囲が闇ではなく硬く冷たい檻と化していることに気がついた。

 要玉だ。

 貪欲に天慈宝(あじら)を呑み込み、さらに取り込もうとしているのだろう。石の内側には恐ろしいほどの圧で目に見えない霊力が満ちている。

 激しい頭痛と、全身の骨が一つの塊に押し固められそうな痛みに、天慈宝(あじら)は顔を顰めた。

 霊力を込めて短剣を突き立ててみても、玉に弾かれて傷一つつけられない。


 だが、これでいいのではないか。

 これで、美洲稚(みずち)は救われる。

 美洲稚(みずち)の生きる睡花の世を支えることができると思えば、別れを心に決めた時にした決意とそう変わらないではないか。


 だが、高く、悲痛な声が聞こえた気がした。

 諦めて座り込もうとしていた天慈宝(あじら)は、我知らず、短剣を握って立ち上がった。

 何も考えられない。何のためにここにいるのかも、もうわからない。

 ただ、ただ、あの声の元に行かなければと思う。


 不思議な空間は、完全な闇ではない。

 玉の煌めきと闇が共存している。

 頭痛を堪え、全身を押し潰す圧から身を守るために術を纏えば、恐ろしい速さで自分の霊力が削れていくのがわかる。

 それは、龍においても最大の霊力量を誇る天慈宝(あじら)にとって、初めて味わう恐ろしい感覚だった。

 いつ霊力が尽きるか、予想もつかない。

 焦りを抑えて、霞む視界で辺りを見回す。


 ふと、気がついた。

 うっすらと桃色を帯びた箇所がある。試しにそこを短剣で突くと、ほんの微かに罅が入った感触があった。

 なるほど、もしかすると涅璃珪(くりか)が要玉に桃色の霊力を打ち込んだときに、ここを通ったのかもしれない。要玉はほとんどの桃色の霊力を吐き出したようだが、弱ってしまったところに残っているのだ。


 ここよ、と美洲稚(みずち)が呼んだ気がした。

 天慈宝(あじら)は短剣の耐え得る限りの霊力を込め、そこへ叩きつけた。

 罅が広がる。

 だが、天慈宝(あじら)の手も焼け焦げた。

 五度、いや四度が手の限界だろうか。だがその次は、左の手がある。

 天慈宝(あじら)は、再度霊力を込めた。





 あれから何度、短剣を打ち下ろしただろう。

 もはや刃は折れ柄だけとなっていた汚れた短剣が、天慈宝(あじら)の棒のように焦げた黒ずんだ腕の先から離れ、どこかへ落ちていった。

 体を守る術も、もう保てない。

 術がとければ、一瞬で天慈宝(あじら)は潰され、取り込まれるだろう。

 ゆらりと倒れ込むがまだ、まだ諦める気は無かった。


 地に着く膝、手、そして打ち付ける額、全てに術を込める。やぶれかぶれの、最後の手段だ。


 ガツリと固い音がして、気が遠くなった瞬間、カラカラと軽い音をたてて、爪の先ほどの玉のかけらが倒れた天慈宝(あじら)の目の前に落ちて来た。


『道しるべに、感謝する』

 

 そう言って、誰かが天慈宝(あじら)の焼け焦げた両腕を引いて要玉から引きずり出した。


『その霊力で、よくやった。穴を空けてくれたおかげで、道を辿れた』


 朦朧とする目で見上げれば。

 

 それは天慈宝(あじら)と瓜二つの男だった。

 男に支えられ、奈落の闇の中で、天慈宝(あじら)はぼんやりと相手を眺めた。


「お、れ?」

『そうとも言える。だが、ここからの未来においてはそうではない。俺は、愛しい女の霊力を根こそぎ奪われてしまった愚かな青龍だ。だが、お前のおかげでこの核を取り返せた』


 そういって、手のひらに収めた小さな小さな桃色の宝玉を、すっと宙に掲げた。


 するすると、解けた糸が巻き戻るように、要玉の真上に広がる広大な睡花から、桃色の優しい雨がその宝玉めがけて降ってきた。

 雨を吸い込むたびに、玉が大きくなる。


 わずかに逸れた桃色の雫が天慈宝(あじら)の頬に当たる。やさしく、ぽつりと。涙のように。

 すると、見る間に体が癒やされるのがわかった。

 枯れ果てようとしていた霊力が、少しずつ補われ、足されていく。初めて知る、その震えるほどの快さ。


 だが天慈宝(あじら)が満たされるにはほど遠い段階で、もう一人の青龍は両手で抱えられるほどになった桃色の宝玉を胸に抱いた。


『それは礼だ。本当なら、お前にだって分け与えたくない。お前の飢えは、お前の相手で満たせ。俺は俺の運命の霊力はすべて回収したからもう戻る。ここに来るのに無茶をしたから、時空が少し歪んでいる。気をつけろ。

 ――ここからは、別の道だ』


 言い終えるなり掻き消えた姿を追うように、天慈宝(あじら)は龍体化した。

 猛然と、虚空を昇り、傾いた睡花の世の上空へと回り込み。


 そして歪んだ時空を通り抜けて、見た。


 眼下には、落ち行く己と、それに手を伸ばす美洲稚(みずち)

 涅璃珪(くりか)に抱え込まれ、もがいて手を伸ばしている。落ち行く天慈宝(あじら)に向けて、置いて行くなと泣いて。


 そして、彼女を中心に、蒼宮を覆い尽くしそうなほど巨大な、花が開いた。

 そんな幻覚を見た。

 色は見えない。

 だがわかる。

 これは美洲稚(みずち)の恋の証。馨しく満ちて開いた、甘く愛しい霊力だ。


「これだ! よくやった。これが欲しかった!」


 美洲稚(みずち)を抱え込んだ若亀が、哄笑した。嘆きの声を上げ、悲しみ震える美洲稚(みずち)のことなど見もせずに、霊力ばかりを見ている。


 天慈宝(あじら)は腹の底から怒りの唸りを上げた。


涅璃珪(くりか)ぁぁああ!!!」




 *




 美洲稚(みずち)の嘆きが響いた直後、上から、龍が降ってきた。


 青銀に輝く鱗を煌めかせる巨大な美しい顔がこちらを見て。その濃青の瞳に、美洲稚(自分)が映った。


天慈宝(あじら)!!!」


 なにをどうしたのか、わからない。

 ただ、思い切り若亀の手を拒絶した。

 思い通りに動く巨大な花色の力が、不意を突かれた若亀を弾き飛ばした。


 美洲稚(みずち)の体が、上空の龍に向かって舞い上がる。

 龍の大きな青い目が見開かれて、そして次の瞬間には、龍は天慈宝(あじら)の姿に戻り、美洲稚(みずち)をしっかりと抱き留めていた。


「な、何が……。今お前は落ちたはずだ。なのに何故お前がここにもいる(・・・・・・)!? 龍は時の力は持たないはず」


「それはお前の知る事実でしかない。若亀、お前が招いたことだ。償え。今、要玉には美洲稚(みずち)の霊力は残っていない。残っているのは、お前が混ぜたお前の霊力だけ」


 色を失い傾いた世界を見回した若亀の目には、何が映ったのだろうか。

 各地で変わってしまった地形も、今も端からぽろぽろと零れ落ちている命も、嘆きも、救いを求める声も、きっと何も見えてはいないのだ。

 生け贄として生きる自分を哀れんでいた男は、他者を突き落とす道を選んだ。

 それが、自分を救うはずもないのに。


「う、ぐ、このクソ龍がっ!!! 苦労して盗んできたあの美しい霊力が……」


「お前の霊力が混ぜられ歪められていたあの霊力が、美しいはずがない。もっと美しいものが、ここに在る」


 天慈宝(あじら)は、炭からは回復したものの、まだ焼け爛れたままの手のひらを、若亀に向けた。

 腕の中に安堵したぬくもりを感じれば、かつての自分など子供としか思えないほどの霊力が湧いてくる。

 見る間に火傷は修復され、天慈宝(あじら)は敵の目の前で、全き自分の姿を手に入れた。


「お、お前、その霊力、未来の……」


「未来はこれから創られる。まだそこには、何もない」


 天慈宝(あじら)の手から迸った銀白の霊力は、一瞬で若亀の全身を縛り上げて、要玉の内部へと転移させた。

 崩壊の限界だった要玉は、一瞬の思考すら許さずに若亀を取り込み同化した。

 要玉の修復に合わせて、美洲稚(みずち)を抱いたままの天慈宝(あじら)が、睡花の盆を水平になるよう霊力を解き放って持ち上げていく。


 到底、ただの精霊に為し得ることではない。

 絶えず湧き出る霊力をもってしても、有り得ない大業だ。

 だが、目を血走らせ、歯を食いしばって、天慈宝(あじら)は霊力を送り続けた。

 

 いつの間にか、美洲稚(みずち)が自分の胴にしっかりと抱きついていた。ぴたりと寄せた体から、おそらく意識的に霊力が流れ込んでくる。


「頑張って、天慈宝(あじら)。頑張って……」


 涙混じりの声には、共に力尽きるまでという強い気持ちが籠っている。

 旅の間、どれほど見つめても頬一つ染めることのなかった美洲稚(みずち)から、受け止めきれないほどの想いを注がれている。

 その胸の内を何と表そう。


 天慈宝(あじら)は、長く一人だった。

 最強の龍として生まれ、登極し、友と仲間を見送りながら、淡々と時を重ねてきた。

 寂しいと思ったことなどなかった。

 だがそれは寂しさを、孤独を、知らなかっただけだった。

 今、共に王座に立ってくれる伴侶であり、尽きぬ勇気と霊力を与えてくれる最高の恋人を腕に抱いて、ようやく知った。

 天慈宝(あじら)は、長く一人だったのだと。





 やがて要玉は、元通りの強固な礎に戻った。

 睡花の世は少し傾いたままとなったが、坂は坂、平地は平地と言える程度となった。盆の上のことだ。それも徐々に均されていくだろうし、新たな天変地異があるかもしれない。

 未来は、わからない。



 *



 なんとか暮らせるほどの角度に戻った蒼宮では、誰もが美洲稚(みずち)を青龍陛下の妃として歓迎した。

 龍最強の青龍陛下とその妃との、運命を変える恋のお話は、恋愛至上主義の女官や武将たちによって、長く熱く語り伝えられることになる。





「なんか、恥ずかしかったですね」


 華燭の儀を済ませ正式に青龍の妃となった美洲稚(みずち)は、式典で披露された自分たちを題材にした演劇を思い出して、夫となった天慈宝(あじら)にそうこぼした。


 世界の危機に立ち向かう劇中の美洲稚(みずち)は、女だてらに勇敢で、敵にも屈さず堂々と美しかった。

 ただの恋の泉の精霊だった自分が、そんなに大層に祭り上げられてよいのだろうかと、不安が濃い。

 何しろ天慈宝(あじら)といったら初対面で、恋ごときが世を救うことなどあるはずがないと言い切っていた人(龍)だ。

 もしかすると、本心ではあんな劇にされて不快に思っているのかもしれない。


 すると、寝台で隣に座っていた天慈宝(あじら)が、おもむろに美洲稚(みずち)に向き直った。


「……美洲稚(みずち)、その、一度だけ正直に言おうと思う。そう何度も俺はこういうことは言えん」


「は、はい」


「初めてお前に会ったときは、恋ごとき、などと言ったし思ったものだが。

 涅璃珪(くりか)は恋をきっかけに正道から転がり落ちた。俺は、恋のために命を捨てようとした。恐ろしいものだな、恋とは。恋ごときと言ったあの言葉は、訂正する。恋は、恋する者を動かす凄まじい力だ。尊く、美しくだが浅ましいものだ。俺は恋のために命を捨てようとしたが、恋のために何としてでも生きて戻ろうとも思った」


「あ、天慈宝(あじら)様」


「今でもやはり、恋ごときが世界を救うことはないと思う。だが恋は人を救う。俺たちの恋は、俺たちを救った」


 あまりの真っ直ぐな言葉に、美洲稚(みずち)は思わず天慈宝(あじら)の胸元に顔を突っ込んだ。

 抱きついた形になったと思ったが、仕方ない。今、ここが一番、美洲稚(みずち)の安心できる場所だ。

 そのはずだ。

 けれど、軽々と夫の膝に抱き上げられた美洲稚(みずち)は、何の防御もできないまま下から見つめられることになった。

 濃青の目に、淡い紅を落とした白い目が、重なる。


「あの瞬間。美洲稚(みずち)の心が俺への恋に染まった瞬間こそ、俺の生涯で目にする最も美しい光景だろう。ずっと、出来うる限り長く、共にいて欲しい、美洲稚(みずち)。俺の恋の精霊」


天慈宝(あじら)様、わ、私も、お慕いしています。きっと、あの旅の頃から」


「そうか」


 天慈宝(あじら)が、珍しく相好を崩して微笑むから、美洲稚(みずち)はすっかりのぼせてしまった。美しすぎる夫も困りものだ。

 にわかに懐かしいあの恋の泉に帰りたくなった。

 離れたくはないのに、逃げたくなる。矛盾するおかしな衝動に駆られる、これが恋だと知った今ならば、恋の願い事をしにくる娘たちにももう少し優しくできるかもしれない。そう思ったが、すでにあの泉は別の精霊が任されている。

 もう美洲稚は、恋の泉の精霊ではない。


美洲稚(みずち)、俺の膝の上で考え事とはやはり肝が据わってるな」


「こ、これはその、もういっぱいいっぱいで、現実逃避というか…」


 わたわたしても、騒いでも、注がれる眼差しは青く優しく。

 そして、容赦がない。


「いっぱいいっぱいになるには早過ぎる」


 ぐいと大きな両手で頭を固定されて、ついに美洲稚(みずち)の逃げ場は無くなった。


天慈宝(あじら)さ……」


 あいしてる。

 続くはずだった言葉は、口づけに溶けた。





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本作品はカクヨムにも掲載しています。

「世界を変える運命の恋」中編コンテスト参加作品です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 素晴らしく美しいお話でした。 言葉が、音が、描かれる光景が輝いている。 [一言] 良いものを読ませていただきました。
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