4-06 魁国史后妃伝 その女、天地に仇を為す
魁国には、外戚の禍を避けるために、皇太子の生母は必ず死を賜るという法がある。
その残酷な法により姉を殺された翠薇は、姉の子が健やかに成長して名君になることを願っていた。けれど、後宮の権力争いにより、その子までもが暗殺されてしまう。
怒りと悲しみの中で、翠薇はすべてに復讐することを決意する。魁国の法、皇帝、後宮の女たち──そのすべてに。皇后の地位も国母の栄誉も、生きながらにして手に入れることによって、法に盲従した者たちをあざ笑うのだ、と。
手始めに、翠薇は姉に似た容姿を利用して皇帝を篭絡する。あるいは皇帝の寵愛を笠に着て、あるいは野心を持つ臣下と結んで。競争相手を追い詰め、邪魔者を排除する彼女は、やがて悪女と呼ばれるようになるが──
丹の鼻と口を塞いだ真綿は、翠薇がどれほど見つめてもぴくりとも動かなかった。
(苦しいでしょう。早くどけないと)
丹は、翠薇の姉の子だ。まだ七つのやんちゃな盛り。顔に真綿を乗せられたら、くすぐったいと暴れそうなものなのに、どうして大人しく寝ているのだろう。
ほんの数日前までは、元気に駆け回っていた。
鞠を受け止め、蝶を追い、花を手折った悪戯な手指が、どうして枯れ枝のように痩せているのだろう。
桃のようにふっくらとしていた頬が、どうして見る影もなく痩せこけているのだろう。
瑞々しかった肌は水気を失い、色はどす黒い。何を見てもきらきらと輝いていた目は、固く閉ざされて。しなやかな手足もみるみるうちに強張って、硬直していく。
(なぜ。どうして)
理由は──本当は、翠薇にももう分かっている。
「丹、丹。起きて。しっかりして。私……姉様からお前を託されたのに」
それでも認められずに、甥の寝台に縋って呼び続ける翠薇を遮って、密やかな声が囁いた。
「翠薇様。太子様はお亡くなりになりました。復をいたします」
ほとんど床の低さから聞こえるその声、平伏した宦官の訴えは、無性に翠薇の癇に障った。
「死ぬ訳がないでしょう! 魁の皇太子が、たった七つで!」
わめくと同時に、翠薇は丹の枕元に並べていた水差しや盃、薬研の類を袖で薙ぎ払った。
零れた薬の匂いがつんと鼻を刺す。高価なものもあったけれど、構うものか。丹を助けられなかった薬に用はない。
(どうして。誰も、何も……!)
一様に顔を伏せて、翠薇の怒りをやり過ごす構えの侍女も宦官も、皆、役立たずだ。
貴重な薬、滋養ある肉、蜜漬けの果実も、そうだ。何を食べても吐いては下す丹が衰弱していくのを、救ってくれなかった。
(こんなもの……!)
怒りに任せて、陶製の水差しを拾い上げて床に叩きつける。八つ当たりだ。翠薇も役立たずのひとりだった。
でも、狼狽え、早くも哭き始めようとしている臆病者たちと彼女は、違う。
翠薇は何よりも怒っていた。理不尽に、不公正に、残酷さに。
「姉様は丹のせいで殺されたのよ!? なのに、どうしてこの子まで殺されなければいけないの!」
喉を裂くような絶叫に応える者は、誰ひとりとしていなかった。
◇
魁には、建国以来の祖法がある。皇太子の生母は必ず死を賜る、というものだ。
古来、多くの王朝を滅ぼした外戚の禍を避けるためだという。
翠薇も、姉の婉蓉も、その祖法を知らずに後宮に入った。姉が寵を得るのを躊躇わないように、と。実家が、あえて知らせなかったのだ。あるいは、不安と恐怖を覚えないように、という配慮だったのだろうか。
(でも、許さないわ)
翠薇の怒りは、すべてに対して激しく燃え盛り、牙を剥いている。
娘を死地に等しい後宮に送り込んだ実家。
姉の懐妊を寿ぐ裏で、祖法について教えなかった妃たち。彼女たちは、皇帝の長子を産む栄誉を姉に譲り、それによって死を逃れたのだ。
姉を孕ませておきながら、法に従って死を命じた皇帝。
姉の細い首を絹布で絞めた刑吏。
姉の死後、赤子の丹を奪い去っていった冷酷な皇太后。
いくら憎んでも飽き足らない者たちの醜悪な姿と裏腹に、姉との思い出のなんと美しく優しく切ないことか。
『元気な子でしょう。早く抱いてあげたいわ』
臨月の腹を翠薇に触れさせて微笑む姉は、本当に幸せそうだったのだ。
言葉通り、姉の腹に寄せた頬に感じる胎動は力強くて。年の離れた、母代わりの姉を奪われるささやかな嫉妬と共に、小さな生命への愛おしさを、翠薇も確かに感じたのだ。
姉を奪うのが可愛い甥ではなく、訳の分からない祖法だなどと、十歳の翠薇は想像だにしていなかった。
『翠薇。丹のことをお願いね……』
死の判決を従容として受け止めた姉は、目を涙で曇らせて、それでも妹に微笑んだ。無力な子供だった翠薇は、頷くことしかできなかった。
あれ以来七年間、翠薇は丹の母親であろうと努めた。後宮にあって着飾ることなく、権も寵も望まず、幼い太子の寄る辺となることに専心してきた。彼を養育する皇太后は、将来に渡って権勢を維持するための駒が欲しいだけだと知っていたから。
たまにではあったけれど、丹が叔母に挨拶をすることを許された時には思い切り愛情を注いで甘やかして、望まれた存在なのだと教えてあげた。慈しまれた記憶によって、彼が魁を富ませる名君となるように、生母である姉を手厚く葬ってくれるようにと願っていた。
丹は、翠薇と会うのをいつも楽しみにしてくれた。皇太后からすれば、懐かない子は可愛くなかったのだろうか。だから、こんなことになってしまったのだろうか。それとも、ほかに何らかの野心なり悪意なりを抱く者がいたのか──翠薇には、何も分からない。
分かるのは、丹の死と共に姉の死も無駄になってしまったということだけだ。
◇
宦官の行う復の声が、不気味な鳥の鳴き声のように響いている。亡き人の魂を呼び戻すため、北天に向かってその名を叫ぶのだ。
(くだらない)
泣き叫んで死者が蘇るなら、どうして姉は翠薇の傍にいないのか。礼儀も迷信も何の役にも立たないのを、彼女はとうに思い知っている。
誰も、何も頼りにならないなら──自ら行動しなければ。
汗や汚物を洗い流して香を焚き、清めた髪を梳いていた翠薇に、侍女がおずおずと呼び掛けた。
「翠薇様。陛下が──あの、太子様のことは、何と」
丹の父、魁国の皇帝である絳凱が、我が子の死を聞きつけたらしい。倒れた当初から報告は送っていたというのに、来るのが遅い。
苛立ちを貫くように簪で髪を纏めると、翠薇は短く答えた。
「私からご説明するわ」
「あの、陛下はお怒りかと──お叱りを受けたら……!?」
侍女の懸念は、一応もっともではある。丹を害した何者かは、翠薇たちの監督不行き届きとされることを期待していたに違いないから。
けれど、そのような疑いは、聞かされるだけで不愉快極まりないことだ。
「私が丹を害するはずがないでしょう」
ちょうど、身支度も整え終えた。鏡の前から立ち上がると振り返り、侍女を睨め下ろす。鋭い声と視線を浴びたからか、翠薇の装いに驚いたのか。その侍女は目と口を大きく開き、よろめいた。
(その驚きよう……成功しているようね)
侍女の反応に満足した翠薇は、微笑を胸の裡に留めて、沈痛な面持ちで皇帝の御前に参上した。
宦官を引き連れ、貂の毛皮を敷いた席に座す魁国皇帝──絳凱は、確かに苛立っているようだった。整った顎は強張って、歯を強く噛み締めているのが見て取れる。
鋭く傲慢な目が翠薇を捉え、命じることに慣れた声が質した。
「太子が身罷ったとか。いったいなぜそのような仕儀になったのだ」
説明によっては厳罰に処す、とでも続けようとしたのだろう。だが、翠薇は皆まで言わせず、頽れるようにひれ伏した。
「はい。死んでしまったのです。私の、丹が」
床を這い、絳凱の膝に縋る。無礼は百も承知、それだけ悲しみが深いと見せるのだ。そうして、乱れて崩れた髪の間から絳凱を見上げる。
「……婉蓉」
怒りに燃えていた権力者の目が揺らぎ、その唇が姉の名を紡ぐ。涙を堪える体で伏せた顔の影で、翠薇は心から笑んだ。
(やった。勝った)
姉が殺された時、彼女はほんの小娘だったから、誰も気づいていなかっただろう。
翠薇は姉によく似ているのだ。化粧や髪型次第で、侍女でさえも鬼を見たような顔色をするほどに。
(少しは姉様に悪いと思っているのね? 良かった……!)
姉の婉蓉さながらの嫋やかさで、翠薇は絳凱の胸にもたれた。ゆったりとした袖で目元を覆い、切々と訴える。
「とても可愛い、良い子でしたのに。少し前まで、何も悪いところなんてなかったのです。なぜ、とは私こそ問いたいことです。絳凱様、必ず犯人を見つけてくださいますね……?」
子を生すていどには、この男は姉を愛していた。その鬼が我が子のために泣くのを見れば、動揺して当然だ。
もちろん、すぐに錯覚だと気付くだろう。でも、死んだ寵姫に似た女が泣くのを捨て置けまい。
「あ、ああ。無論」
ほら、魁を統べる皇帝は、情けなく声を上ずらせて翠薇を抱き寄せた。
「皇太子の暗殺は重罪だ。必ず、相応の罰を与えねば」
皇太子の母を殺した男が言うのは滑稽だったけれど──丹の死の咎は、めでたく何者かに擦りつけられた。安堵を味わうのもそこそこに、絳凱の腕の中、翠薇は密かに決意する。
(私は、姉様の代わりに皇后になる。私の子も皇帝にさせる。ふたりとも、生きたままで!)
姉とその子が得るはずだった栄光を、彼女が代わりに手に入れる。祖法など覆す。姉たちを死なせたすべてに対する、それが翠薇の復讐だ。丹の死の報せは、彼女からの宣戦布告だ。
皇太子は死んだ。殺された。
新しい太子がすぐに立てられ、その母もまた殺される。
醜い本性を絢爛な装いで隠した者どもは恐れ戦け。
後宮の女は今や誰も安全ではない。
翠薇が追い詰めてやる。