4-03 南無・ロック
不幸体質の少女四条貴音は、専門学校で音楽を勉強すること、そしてバンドを組むことを夢みて地方都市の神倉市にやってくる。しかし財布はなくなりアパートからは締め出され、夜中にオマケにスキンヘッドの男に絡まれた。
ギョクロと名乗る男は貴音の事情を聞くなり自身のバンド『南無・ロック』のギターとして貴音をスカウト。ライブに飛び入り参加させてしまう。慣れない環境、急に始まるバンドと学生の二重生活と、ロック以外不信のメンバーとの交流。容赦なく襲いかかる不幸の嵐。それでも貴音は夢を追い、ギターとしてボーカルとして成長していく。
「四条貴音さん、でいいね?」
目の前の警官は私の名を復唱した。疑問符と共に向けられる視線に耐えきれず、目線を下げる。机の横に立てかけてある、私のギターケースを目の落とし所にした。
「あっ、はい……」
古いキャスター付きの椅子は、うなだれるだけで重心がぶれるほどアンバランスだ。合わせてギイッと不快な音を鳴らす。それが嫌でお行儀よく膝の上に手を乗せて背筋を伸ばす。間抜けなバランスゲームが始まった。
警官は続ける。
「年齢は?」
「18……です」
尋問の雰囲気に耐えきれず、右手首の数珠を握ってみる。元々不幸な目に逢いやすい私に、おばあちゃんが持たせてくれたものだ。今の所、あんまり効果は無い。
「なるほどね、18歳。……ご職業は?」
「ええっと……高校は卒業して、それで音楽系の専門学校に通うんですけど、まだ来たばっかりで学生証も何も発行されてないっていうかなんて言うか── 」
「つまり」
「あっ、はい」
「今君を証明出来るものは何もないってことね?」
「……はい」
私の声をかき消すくらい、椅子が軋んだ。夜九時半の派出所には2つの椅子の音と、気まずい空気が流れる。
「ふーん……ま、分かりました」
数秒の沈黙の後、そんな気の抜けた返事が返ってくる。興味なさげに警官はバインダーにメモをした。職業欄に、『無職』の文字が躍る。喉の奥が締め付けられるように縮こまり、目の奥が痛い。2文字だけで自分の存在全てが無視され、否定された気さえしてくる。思わず数珠を握りしめた。
「……出身、お寺とかですか?神倉市に来たのは初めてとのことでしたけど」
「あっ、いいえ。神倉に来たのは初めてですけどお寺生まれでは無いです……」
「ふぅーん、そうですか。大変ですね。それで、何があったんでしたっけ?」
相も変わらず、気だるげに聞いてくる。
一応全部話したはずで、なんで私が来ているかもわかっているはずなのに。
「……あ、あの!」
震える喉を無理やり開くように口を大きく開ける。私は今日一大きい声を出した。そしてさらに続けて──。
「何ですか?」
言おうとした言葉は全部喉の奥に引っ込んだ。
「……やっぱりなんでもないです。 ……帰りますね」
私はそう言って立ち上がって、ギターケースを背負う。
「あっ、ちょっと?」
警官が呼び止めるのも聞かず、軋む椅子を灰色のテーブルに押し付けるようにしまう。軽く会釈してガラス戸に手をかけた瞬間。
「帰るって、どこに? 」
全身が鉛みたいに固まった。
「いや、その……アパートにっていうかアパートの方にって言うか」
苦し紛れに口から出てきた言葉はまるで的を得ない。
「あなた駅前で貴重品ごと財布スられたから来たんですよね? 大家さんも今日はいらっしゃらないんでしょう? いいんですか、今日アパートの前で野宿でもするんですか?」
「……」
全て、言われた。返す言葉もない。頭は真っ白になって何も思い浮かばないし、口もろくに動かない。幹線道路を走る車の音がやけに頭に響く。
「か、帰ります」
そう言い捨てると同時。私は交番を飛び出し、右方向に駆け出した。何やら後ろから物音がする。が、人混みに紛れながら、顔を隠しながら走り抜けた。
右手側に何があるかなんか知らない。とりあえず交番からは離れられる。
もう何もかもうんざりだった。やっぱりこの世には神も仏もいない。交番に行けば助けてもらえると思った私がバカだった。
目からは居たたまれなさとか情けなさとかが液体になって流れ出てくるようで、とめどなく落ちて頬を伝い首筋に落ちる。私の姿はなんて情けないのだろう。自分で自分が嫌になって、目頭が熱くなる。
「ひっ、はぁっ……! ひっ、はあっ……!」
必死に肩で呼吸をする。考えてみれば運動だって久しぶりだ。まして嗚咽で喉は締め付けられるし鼻は詰まってろくに呼吸できないし、ギターケースは重い。息はもう絶え絶えだ。
さっきからすれ違うサラリーマンとかギャルとかの視線が刺さるようだ。ちょっとしたどよめきが起こる。真夜中の大通りを泣きながら走る女とか不審者でしかないもんな。もっと嫌になってきた。
「ふっ、ふぅっ……! 」
私は急いでその隣を走り抜けた。こんな姿を誰にも見られたくはなかった。次第に街灯も少なくなる。街中から外れたようだ。車通りも人通りも少なくなり、飲食店からもかなり離れた橋に差し掛かった。ここだったら人もいないし顔もみられないだろう。私は足を止めた。
川は街の光が反射して、煌めいていた。橋の上にはさらに高架がかかっていて、街灯があるのに薄暗い。
「……高いなぁ」
橋の欄干に手をかけ、下をのぞき込む。橋は川からかなりの高さがあった。川の水面は穏やかだったが夜の闇に染ってどす黒くもある。なんだか呑まれてしまいそうだった。
もしここに近づいたら、楽になれるだろうか。こんな何をやっても報われない生活から脱せるのだろうか。
少しだけ身を乗り出してみた。夜風にあおられて髪がたなびく。頭の暑さも体の重さも、風に吹かれて少し楽になった気がした。
「なぁ、あんた。仏教徒か?」
男の人の声がする。
「へ?」
突拍子な質問過ぎて変な声が出た。
私が振り返ると、ジャージ姿のスキンヘッドの男性がいた。それも結構筋肉質な。私くらいだったら簡単に持ち上げて連れされてしまうくらいには……。
「かひゅっ」
あまりの動揺に喉の辺りから空気が漏れる。私はその場に崩れた。もう終わりだ。犯罪教唆、薬物の売り子、暴力団、あるいは癖の強い宗教思想家という線もある。
こんな夜中に声をかけられることで分かることはただ一つ。このあともなんだかんだ不幸が重なって私は死ぬんだ。それが確定してしまった。
「な、何だ何だ!? 具合悪かったのか!? しっかりしろ!」
肩を抱え、俯く私の顔を覗き込んでくる。これは逃がさないぞという暗示だろうか。
「こ……殺すならできる限り楽な方法でお願いします」
「なっ……」
私の口から出たのは懇願だった。
「抵抗も何もしませんのでどうか楽に死なせてくださいぃ……」
ほとんど土下座みたいな格好で私はそう言った。ここまで来ると諦めが勝ってくる。
神倉駅に行くためのバスを間違えて予定より四時間遅れでここまで到着。入居予定のアパートに来てみても、鍵も貰ってないのに大家さんが2泊3日の旅行中。ホテルにでも泊まろうとしたけれど、道中人とぶつかった時に保険証とか諸々ごと財布を落として紛失。どこに行っても拾った人は居らず。お金を借りようとして交番に行ったけどろくに聞いてもらえず……。
そして今はスキンヘッドのお兄さんに絡まれている。都会に来てからというもの私はろくな目にあっていない。
「いっそ終わらせてください……バンドをやるって夢を追いかけてきたのにギターも手も何も出来ないまま失いたくないです……」
私がそう言うとぽん、と大きな手が頭に置かれた。
「変な質問して悪かった。数珠を付けて危ないところに立ってたもんだから、職業病……でな」
「……えっ」
がばりと顔を上げた。
「もしかして……お坊……さん?」
「ああ。元、な」
お兄さんは照れくさそうにツルツルの頭を撫でた。そして両手を合わせて、頭を下げた。
「すまん。思い詰めてるように見えたもんでつい声をかけちまった。怖かったよな」
「あっ、いや……そ、その……お気遣いありがとう……ございます……でもぜ、全然飛び降りようとかではなくて……」
しばらくぶりにまともに会話したせいで、声がつっかえる。上手く出ない言葉を絞り出した。良かった!神倉にも優しい人もいるんだ!
お兄さんは続ける。
「ああ……よかった。ギター背負ってたし、何かあったんじゃねえかなって」
「ぎ、ギターも?」
驚いて聞き返す。
「ああ、実は今機材運んでる最中でな。俺の家がこの辺なんだがこれからライブハウスに来るところだったんだ。一緒に来るか?」
「は、はい!」
思わぬお誘いに二つ返事で了承する。そんな私を渋い顔でお兄さんは見てきた。誘ってきたのになんで?
「……なあ、お前いっつもそんな感じなのか?」
「……?」
「警戒心無さすぎんだろ。人の善性を信じすぎじゃねえか? それじゃ不幸の方から付け入ってくるってもんだ」
「えっ……ええっ?」
困惑する私を見て、お兄さんは頭を抱えた。
「……名前は?」
「えっ、四条貴音です!」
「……まあいい、タカネ。お前今日夜暇か? 何か急ぎの用事はねえな?」
「な、ないです。というかアパートに入れなくてどうしようって感じだったので」
「アパートに入れねえってなんだよ。お前ここに来たばっかなんだろ?」
「あっ、はい!近くの専門学校に通う予定で今日入居予定だったんですけど……」
「ああ、もう言わなくていい」
お兄さんはジャージの上をいきなり脱ぐ。その下には『南無・ロック』と筆のような書体で書かれたTシャツを着ていた。
「俺は『ギョクロ』。『南無・ロック』のベースだ。 今日はお前にサポートギターとして来てもらう。信用出来るものはロックだけだと魂に刻んでやるから、覚悟しろ」
「は、はい!?」
私はやっぱり恐ろしい人に捕まってしまったかもしれない。