4-21 潔白のセイレーン
【この作品にはあらすじはありません】
その日は始終、霧が立ち込めていた。
「なんだあれ……!?」
クワァ、クワァと響く海鳥の鳴き声以外、静寂に包まれた海沿い。切り立った岸壁の上に、木造の灯台が立っている。その中から現れたのはひとりの少年。名を、キーリという。
束ねた縄梯子を肩に担ぎ、一目散に灯台を飛び出した。がけ際はすぐだ。霧の中でも迷いはしない。
キーリは岸壁の中でも岩が鋭く突き出している部分に縄ばしごの鉤を引っかけ、慣れた動きで降りていく。
降りたあたりには、砂浜とも呼べない小さな砂溜まり。そこに、白いなにかが打ち上げられていた。
まばゆい輝きを放つ純白の鱗に、二叉に分かれた尾びれ。魚ではない。明らかに大きすぎるのだ。それに――上半身が若い女性の姿をしていた。直毛のプラチナブロンドは、砂を被れど隠しきれないつやを放っている。
この上なく明確な特徴。キーリは、その正体に心当たりがあった。嫌な予感と言ってもいい。
曰く、超越なる神の末裔でありながら、ひとを激しく怨むもの。
曰く、その身体と甘美な歌声にて、漁師や船員を惑わすもの。
曰く、誘惑にかかった者の血肉を糧とし、またその財を奪いしもの。
――曰く、船乗りの天敵。
セイレーンと呼ばれる半人半魚の怪物のことは、キーリもよく知っていた。
襲われかけたり目撃したりといった体験談は知り合いからよく聞く。キーリ自身も、仕事中に遠目で見かけたことがある。海とともに生きている以上、自分にも被害が及ぶ可能性が充分にあるのだ。
今も警戒を怠らない。歌を拒絶するための耳栓が手元にない以上、すぐにこの場を立ち去るべきだ。本当なら。
そうできない理由は、意識なく横たわるセイレーンの身体がありありと示していた。
鱗をズタズタに引き裂くいくつもの傷。血や体液こそ出ていないが、桃色の肉が露出している。人間の姿をした上半身も例外ではない。その鱗にも匹敵するほどの白い裸身が、今は見るも痛々しい。規則正しく呼吸をしているのが救いか。
――助けるべきか、どうか。
人に歯向かう怪物であっても、生きている。息をしている。この状況で合理的判断に従って見捨てるほど、キーリは冷酷ではなかった。
「よいしょ、っと……!」
細いが薄く筋肉のついた、キーリの身体。どうにかセイレーンを横抱きにして、歩き出す。縄ばしごは使えない。遠回りになるのを覚悟で、崖上へつながる道を歩いていく。
セイレーンの意識が戻れば楽になるが……こればかりはどうしようもない。
簡単なものでいい。早く手当てを施さないと。じっとりとした霧の中、潮風を浴びながら。ゆっくりと、だが着実に、キーリは崖上へ引き返していった。
☆
灯台の入り口を無視して、その隣に立つ二階建ての宿舎へ歩いていく。入り口には鍵がかかっていなかったが、むしろ幸運だとキーリは心底思った。鍵を開けるためであっても、こんなざっくりと傷口の開いた生き物を地面に横たわらせたくはなかったから。土や虫が付着して感染症を招きでもすれば、たまったものではない。
小さな客間に入り、セイレーンを長椅子にうつぶせで寝かせる。本当は二階の寝室に向かいたかったが、夜番の灯台守、エンケスが仕事に備えて寝ているはずだ。あの灯台守は快活で頼れる兄貴分だが、眠りを邪魔されるとひどく荒れ狂うのだ。隣で治療などしようものなら、文字通り寝た子を起こしかねない。
「ちょっとだけ待っててね」
当然、返事はない。それでもキーリは言わずにはいられなかった。
彼はそうっと二階への梯子を登り、足音を立てないように倉庫へたどり着いた。そこには薬箱が置いてあるのだ。キーリは中からシャリンバイとキールの葉を取り出し、すり鉢で細かく擦る。そこに海藻から抽出した粘液を加えて混ぜ、保湿効果を高めるとともに、ペースト状にして扱いやすく。
へき地勤務となりがちな灯台守は、孤独な職業だ。自分の身を守るための医療知識は欠かせない。手際よく、ものの一、二分で塗り薬が完成した。それ以外にもいくつかの道具を持って、客間へ戻る。
まずは清潔な水で濡らした厚布で、セイレーンの全身を拭く。薄い胸を前にしてやや躊躇したが、かまわず丁寧に。砂粒などをしっかりと取り除いたら、塗り薬の材料と薄布で湿布を作り、前半身に隙間なく貼った。
しばらくそのままにして馴染ませてから、
「せーの……!」
かけ声とともにセイレーンをうつ伏せにする。そして、一面に塗り薬を。格子状についた傷が痛々しい背中には、特に念を入れて塗布した。
セイレーンは失神しており、傷はどれも痛々しいが、呼吸はしっかりしている。失神は一時的なものだろう。薬が効いてくれば、数時間以内には目覚めるはずだ。そうならなければ遠方から医者を呼ぶべきだが、キーリには大丈夫だという予感があった。
セイレーンが目覚めるまで、できることは何もない。
灯台守の仕事も、今日は機器の手入れ程度だ。本来なら濃霧の日は忙しく、緊張感がある。霧笛を使い、船舶と密に交信し、座礁や衝突なく安全に運行できるよう力を尽くさねばならない。しかし今回の濃霧は数日間続いており、ほとんどの船舶が航海を取り止めているのだ。
ちょっとした手入れをし、暖炉に火を入れたあと。セイレーンの傍らに小さな座椅子を持ってきて、キーリは考えにふけっていた。
――これから、どうすればいいんだろうなあ。
セイレーンの意識と傷が回復するのを待ち、いくらかの食事を摂らせてから帰すのが妥当だろう。彼女が単に溺れて漂着したのであれば。だが――背中の傷は、格子状に刻まれているのだ。人為的なものとしか思えない。鋭い刃物ですっぱりというほどきれいな傷ではないが、いずれにせよきな臭い。
それに、キーリの知っているセイレーンは、青みがかった銀色の鱗を持つ怪物のはずだ。純白のセイレーンなど聞いたこともない。鱗のせいでトラブルに巻き込まれたのでは、と憶測さえ浮かぶ。
もしそれが事実なら――素直に海へ帰すべきなのか?
まだわからない。結局は本人の口から聞くしかないが、キーリは重いため息をつくのだった。
☆
「ここは……?」
「あっ! 起きたんだね」
長くつややかなまつ毛に包まれた、セイレーンのまぶた。それがいつの間にか開いていた。
眠気、困惑、苦しそうな呼吸。そのすべてがないまぜになったような声がして。キーリは物思いから引き戻される。
「だ、れ……ん゛ぅっ!」
「動かないで。きみは今、怪我をしているみたいなんだ。崖下の岸で倒れているきみを見つけたから、安全な場所まで運んできたんだよ。……その、怪我の理由に心当たりはある?」
「ある、けど」
「そっか。……話せる?」
「ごめんなさい」
セイレーンはただ、首を左右に振るばかり。これ以上を訊くべきでないのは、キーリにも察せられた。
重苦しい沈黙がしばらく続いたあと、先に口を開いたのはセイレーンだった。
「ここはどこ? あなたは……だれ?」
「あれ、まだ言ってなかったかな。ごめんね。ぼくはキーリ。この岬の灯台守をしているんだ。きみは?」
「……アトレ」
「そっか。よろしくね、アトレ」
「うん。それから……わたしを助けてくれて、ありがとう」
ソファに横たわったままの力ないものではあったが、たしかにアトレは表情を緩め、ゆっくりと頭を下げた。
「当たり前のことをしただけだけど……そう言ってくれてうれしいよ。そのまま休んでいていいからね」
「いいの、かな。うれしいけど」
「いいんだよ。その傷、たぶん一日では治らないと思うんだ。だから、もしきみがよければ、傷が治りきるまでここにいる……なんてどうかな」
気恥ずかしさをほほの色に表出しながら、それでもキーリは声に出した。
「……そうする。どうかここにいさせてほしい。ありがとう、キーリ」
「うん。改めてよろしくね……って、」
「どうしたの?」
「……なんでもないよ。気にしないで」
無理のある取りつくろい方だとは、キーリも薄々自覚していた。それでも彼は、本音を明かすつもりがない。
『どうかここにいさせてほしい』
アトレの言い方が引っかかった。その言葉には、あまりにも必死さが感じられるではないか。やはり、彼女には何か秘密がある。
聞き出すことはできなくとも――せめてここが、アトレにとって一時でも秘密を忘れられる、安らかな居場所になれれば。
「ふわぁ……」
「ゆっくり寝てていいからね、アトレ」
アトレが何かを抱えているとしても。
キーリの知識にあるセイレーンが、おぞましい怪物だとしても。
『なんの計画もなく、勢いで彼女を家に泊めようとしている』自覚があるとしても。
――僕は、彼女を見捨てたくない。
アトレのまぶたが落ちていくまで、キーリは隣で見守っていた。
☆
アトレが眠りに落ちたあと。キーリはすり鉢とすりこぎを洗い、それらを倉庫に戻すため二階へ上がろうとして――気付く。
『……そういえば、エンケス兄さんに許可を取ってなかった!』
兄貴分からすれば、『自分が寝ている間に、弟分が急に怪物を連れ込んできた』ことに他ならない。キーリは頭がぎうぎうと締め付けられるように痛むのを感じた。
『どうしよう、本当に受け入れてくれるかな。ごまかせたりしないかな』
慌てる思考に、
――どん、ぎぃぃ。
追い打ちがかかる。エンケスが起き出したのだ。
「……やっぱり、ちゃんと話さなきゃ」
キーリは、足音が下りてくるのを待った。