4-18 めぐる愛し子に、靴のお告げを
「今日のお告げは”靴を履くといいでしょう”だって」
とある世界を救うことを求められているミラは、ある夢でお茶会の主からそんなお告げを受けた。
「今日のお告げは”靴を履くといいでしょう”だって」
おいしいお茶と、舌だけではなく目も楽しませるような食べ物が並ぶお茶会の席で、茶会の主の少女はそう言い放った。
おいしそうな匂いに誘われ、それに追うように目を開ければ。
灰色の壁、茶色の床、綺麗なだけの寝具、そして彼――レイモンが目に入ってきた。
「おはようございます、ミラ様」
まごう事なき世界を救うことを求められたわたし――ミラの部屋だ。
「おはよう、レイモン」
何とか言えた朝の挨拶に、レイモンは「今日の朝食はパンケーキですよ」と返してくれた。ここでの生活でうまく声を出せなくなったのが少し恨めしい。
せめてもと思って自ら寝具から出ると、いつもと変わらぬ素足なはずなのに、なぜか冷たく感じて思わず首を傾げた。
……床って、こんなに冷たかったっけ?
席に着くと、レイモンが焼き立てのパンケーキを持ってきた。あのお茶会のように飾るようなものは一切ない。それでも彼の焼いたパンケーキがいつもよりおいしそうだ。
「――いただきます」
彼が食前の祈りを捧げるのに合わせ、わたしも声に出さず祈ってからカトラリーを握る。金属のひやりとした感触は床よりも冷たかったけれど、彼が焼いてくれたパンケーキの前には些細なことだ。
あの夢の主がやっていたように、切り分けたパンケーキを口の中に放り込めば、踊るようにおいしいが伝わってくる。
けれど。その踊るよりも……いや、その上ではるかに上回る主張がある。
優しい、だ。
それは心を持ち合わせていなければ――読み取ることができるここをがなければ認識できない味で、すぐにでも食べつくしてしまいたいという衝動を抑え込み、パンケーキからレイモンへと視線を移す。
そしてあの夢と同じように感想を言おうとして――彼が泣きそうな顔で固まっていることに気づいた。
「……レイモン?」
「今日はとてもおいしそうに食べて下さるので、嬉しいだけですよ」
まるで心があるみたいに。
そう続けられた彼の呟きに、今度はこちらが固まった。今日は小指の爪化粧程度の心を持っていたからである。
あの靴のお告げの後、今日は爪化粧程度の心を持っていくと良いと勧められ、左手の小指にだけ爪化粧をしてくれたのだ。
……自らここに来たわけじゃないわたしは、時間感覚をなくしてからしばらくして、心を手放した。
彼と再会した当時、心が無い状態だったので、わたしが何かしら反応を得られると嬉しそうにしていたのだが……この反応は初めてだったのでかなり落ち着かない。
心を必死に落ち着かせ、優しいを食べ終えれば、着替えの時間だ。
自分で着るのことの出来ない服なので、着替えを手伝って貰う必要がある。
どんどん増していく重みに、心も重くなってくるけれど。彼が着せてくれるのだからと思い直す。
……世界を救わなきゃいけないのだから、仕方ないのだ。
あの人たちが生き延びてしまうのは腹が立つけれど、あの人たちを殺すと彼も生き延びれないのだから、仕方
「爪化粧?」
レイモンが、わたしの左手を見て声を上げる。その声にはっとして慌てて確認すると、左手の小指の爪が彩られていた。
それは間違いなく、あの夢であの子が塗った色であり――夢から持ち出せないはずのものだ。
見覚えのないそれを警戒するレイモンを慌てて「大丈夫だから」と止めた。
「……ですが、」
「これは多分、わたしが見えてないといけない、から……靴、を。貸してほしい」
「……靴。履物でよろしければ、少々お待ちください」
爪化粧より靴を、と言うと、レイモンはすっと警戒を抑えてどこかから靴を出してきた。
「古代の靴の再現にはなりますが、こちらはいかがでしょう?構造は簡単ですし、全て革のため足音でばれにくいかと思います」
見たことのない形の靴だったが、なるほど、と納得して頷いて履かせて貰った。
己の足で立ってみて、歩いてみる。
同じ床を歩いているはずなのに、感覚が今はすっぱり消えている。靴があるのだから当然なんだろうけども、何もなさ過ぎて落ち着かない。
続きを着替え終わり、一息ついたところでノック音が鳴り響く。
時間切れだ。
「ミラ。時間だ。今日も世界を救え」
ノックへの反応を待たずに高圧的に声をかけてきたのはフランソワ。
わたしを連れ去り、最も効率的に世界を救えるのはお前だから世界を救えと迫った本人だ。
高圧的な声に返事を返さず、黙ってレイモンを見上げる。彼はため息と舌打ちを混ぜた何かをこぼして扉を開けた。
「またお前か物知らず野郎。おまえがいると効率が下がる。行くぞミラ」
「己に都合の良い効率しか見ない愚か者が、何をほざいてやがるんですか?渡すわけがないでしょう、この人殺しが」
フランソワとレイモンの罵り合い。いつものことではある、けど。
いつもこんなに殺気立っていただろうか。
しばしの睨み合いの後、フランソワは弾かれたように離れ、近寄れなくなった。
そのことを確認したレイモンがわたしに手を差し伸べる。わたしはその手を取り、部屋から一歩踏み出し
「――っ!?」
踏み出そうとした足が、部屋の外の床に触れた瞬間。
わたしは心を持ったまま部屋の外に出たことを後悔した。昔の自分が心を捨てた理由を理解した。
ここは。
存在を強制的に分解して世界に干渉できる特殊なエネルギーに変換する装置、だ。
建物にそういう機能を足したものではなく、機能そのものを建物の形にしたものだ。
ありえない。気持ち悪い。ただいるだけでも抉られる。ここにいたくない。感じたくない。
もう一度、今からでも、心を、
「ミラ様」
心があるが故に理解できてしまった絶望にすり下ろされそうになったところに。わたしを呼ぶ声が、待ったをかけた。
はっとしてそちらを向くと、すごい心配そうな顔をしたレイモンがいた。
多分、ここがそういうものだって知っていたのだろう。その上でここに来てくれたのだろう。逃げたほうがいい。逃げなきゃいけない。
……でも。靴を履くといいでしょうのお告げを信じて、今日は爪化粧一枚分だけ頑張ってみよう。
わたしはわたしの存在証明をなくさないように彼を両手で握りしめて一歩一歩覚悟を決めて進む。
当然遅く、フランソワはあまりの遅さに何度も振り返る。
本当は時間の無駄だしわたしを引きずって連れていきたいのだろう。だが、わたしは無視をする。
……隙をついて逃げてしまおうか。
そんな考えがちらちらと浮かぶようになったころ。
「遅いですよフランソワ。いつもみたいに引きずってくればいいじゃないですか。
……あれ?フランソワ、ミラに靴を履くことを許したのですか?」
時間切れだというかのように進行方向にひょっこりと女の人が出てきた上、遠くから見たからだろうか。靴を履いていることに気が付かれてしまった。
「靴を履くことを許さないといったはずだ、ミラ」
効率が落ちるから脱げ。
フランソワは靴を脱げと要求して来た。当然といえば当然だが、今のわたしは靴を脱ぎたいとは思えなかった。
レイモンの手を握りしめ、無視するという形で抵抗する。
心を手放して以来現実で拒絶を示すのは初めてだったかもしれない。けれど、フランソワを怒らせるには、充分だった。
「靴を脱げ!」
その怒りのまま、フランソワはわたしから靴を奪おうと近寄る。
その顔に心を手放す前のころの怒りでもって従わせようとした頃を思い出してしまい、体が動かなくなった。
幸いフランソワはわたしに近づくことはできなかったが、即座に切り替え、そばにいた女の人に靴を奪えと命じた。
女の人は地面を蹴ってわたしに急接近。わたしを庇うようにレイモンが前に出て一殴り。当たりはしなかったが、女の人は体勢が崩れて隙になる。
レイモンはそれを見逃すはずもなく、次の一撃を狙う。力同士のぶつかり合い。それを何というか知っている。
“戦闘”だ。
わたしの受ける一方的なものとは違い、耐えることを選ばず、力に対して力をぶつけるものだ。何と思えばいいのか分からない。頭の中がぐちゃぐちゃになる。わからない。どう思えばいい!
浮かんでは消える感情に振り回されていると、突然、今までとは全く違う、力の動きがした。
存在を分解するのではなく、存在を出現させたような。
これは何だろう。目の前で繰り広げられる戦闘から逃避するように、床から伝わってきた感覚の意味を考える。
だが、戦闘への逃避としては間違っていた。
それに気づいたのは、レイモンの焦ったような「ミラ様!」という叫び声が耳に届いてからだった。
「――!?」
人が増えていて、既に手を伸ばせば届いてしまいそうな位置にまで近づかれていた。
後悔してももう遅い。
……が、わたしを掴もうとしていたその瞬間。その手が突然真横にぶれた。
大きな音と呻き声。わたしに一番近かったはずの手の持ち主は目の前から消え、代わりに見たことのない服を着た男の人がそこにいた。
「跳ぶよ」
見たことのない服どころが見たこともない人だと気づいた時にはひょいと抱え込まれ、後方へと飛んでいた。
「髪色、虹彩色、小指のマニキュアの一致を確認。ミラだな?
世界より依頼を受けて、お前を迎えに来た」
見たことのない男の人がいくつかの情報からわたしと確認し、迎えに来たと告げた。
でも待ってほしい。
わたしは迎えが来るなんてお告げは聞いてない!