4-11 茉莉オルタナティブ
天野茉莉は病気で亡くなった。享年三十五歳。
しかし、彼女の記憶と意識は脳から吸い上げられ、サーバー上の人格として再誕した。死者をデータとして残すサービス『エインヘリャル』の利用者となったのだ。
ある日、息子が悪い女に騙されているかもしれないと知った茉莉は、家族を守るために現世に蘇ろうとする。
死者が巻き起こすヒューマンドラマ。
夫との再会は気まずいものだった。
最後の記憶は――そう、病院のベッドに横たわり、彼に手を握られながら看取られた光景が頭に浮かぶ。
三十代で不治の病にかかるなんて運が悪いと落ち込んだが、最後まで最愛の人と一緒にいられたのは幸運だったと言えるかもしれない。そんな浮ついた気持ちも長くは続かなかった。次々に蘇った記憶に頭を抱える。
もう余命が長くないことを知った私は、胸に秘めていた想いを洗いざらい言葉に変えて伝えていた。
これまでの結婚生活への感謝、息子の行く末を案じて残したビデオレターのパスワード、そして二人への愛を。盛大に、やらかしてしまった!
「茉莉、もう一度会えて嬉しいよ」
「論さん……」
夫の瞳から溢れる涙がモニター越しに光った。
うん、モニター?
伸ばした手が液晶に触れる。慌てて周囲を見回すと、壁に大きなモニターがかかった殺風景な部屋だった。まるで拘置所の面会室みたいな。
「えっ、これって一体どういう状態なの!?」
パニックになる私に対して、落ち着けと言わんばかりに夫は両手を広げた。
「エインヘリャルという言葉を知っているかい?」
全く知らない言葉だった。眉間に皺を寄せていると、夫は長い説明を始めた。
『エインヘリャル』は脳から記憶や意識を読み出してデータ化し、サーバー上に人格を再現するサービスだった。
新進気鋭のスタートアップ企業が開発した技術だが、生きている人間に使うにはまだ安全性について検証が足りず、対象を死者に絞ってサービスが始まった。
家族、友人、警察。死者を蘇らせたいと願う人は多い。新鮮な脳でなければ成功しないが、既にかなりの人数が『エインヘリャル』を利用しているとのことだった。
「ふうん、そんな時代になったのね。全然、知らなかったわ」
「俺だって病院から勧められなければ知らなかったよ」
「でも、大丈夫? 結構、高いんじゃないの?」
「心配するな。何とかするって」
肯定とも否定とも言えない答えが返ってきて少し心配になった。もう一度、会えたことには感謝の気持ちしかないが、これからの生活も考えなければならない。家には育ち盛りの中二男子がいるのだ。二馬力で稼いできた家計にも影響が出るだろう。
それはともかく――。
「ありがとう。論さん」
夫は照れくさそうに視線を外して頬を掻く。付き合っている頃から変わらない仕草に嬉しくなった。思いやりがあって頼りがいもある。そんな最高のパートナーと出会えて私は幸せ者だ。
だが、これだけは伝えなければならない。
「論さん!」
「どうした、茉莉?」
「お願いだからビデオレターだけは消して欲しいの! 今、すぐに!」
***
エインヘリャルでの生活は目まぐるしい。普段の私はスリープ状態となって保存されている。時間が物凄く遅くなった状態だ。夫や息子の和希が会いに来てくれなければ、解除されることがない。
夏休みだと思っていたら、次に会ったときには着膨れしている。小さかった和希も見上げるような身長になってしまった。
現実世界で五年の月日が流れても私の感覚では半年程度。目まぐるしく変化する外の世界とのギャップに戸惑うことが多くなった。
最も大きな変化は面会の間隔が長くなったことだろうか――。
現実世界とのアクセスには料金がかかる。そう安くない金額だ。元々、頻繁に会う機会を設けられるわけではなかったが、それでも一週間に一度は会いに来てくれた。たくさんの土産話を抱えて。
それが一ヶ月になり、三ヶ月になり、ついには半年ごとになった。
一抹の寂しさを覚えないわけではないが、生者と死者は本来、交わらないものだと何度も心に刻む。彼らには彼らの生活がある。こちらの都合を押し付けるわけにはいかない。もっと頻繁に会いたいと願うのは私の我儘だ。
それに今日は久し振りの面会の日。悲し気な顔を二人に見せるわけにはいかない。沈んだ気持ちを引き戻すように頬を両手で軽く叩いた。
「父さんは今日、来ないよ」
ぶっきらぼうに告げた和希の顔は能面のように表情が変わらない。
「そう、仕事が忙しいのかな?」
「そうなんじゃない? 休みもあまり家にいないし」
和希はこちらから視線を動かさない。目をそらさずに瞬きが多くなる。論さんと同じ癖。まったく嘘が下手なんだから。
「課長になったんだよね? 大変そうだなあ。帰りも遅かったりする?」
「どうだろう。俺もバイトで帰りが遅いから。夜は会わないし」
「そっか、ちゃんと食事してねって伝えてくれる」
「……それ、この前も伝えたよ」
うんざりした表情を浮かべる和希。口煩い母親だと思われたかもしれない。お互いに楽しい気分で別れたいのに。半年間も挽回の機会がないのは辛過ぎる。
「それより和希の近況を聞かせて。大学生になったんでしょう。何かいいことはあった?」
はにかむように和希の口角が上がった。
「麻里と付き合うことになったんだ」
「……麻里って、お隣の麻里ちゃん?」
声に固い響きが混じるのを避けられなかった。
藍田真理。隣家の一人娘で和希の幼馴染。人形のように可愛らしい目鼻立ちをしていて近所でも評判だった。
藍田家とは引っ越したばかりのとき仲良くしていたが、和希が中学に進学した頃にはすっかり疎遠になっていた。原因は奥さんの浮気だ。
離婚して父子家庭となった藍田家は荒れた。仕事をしながら子育てと、藍田さんはワンオペで頑張っていた。とはいえ孤軍奮闘にも限界がある。
ゴミ出しが遅くなり、庭にゴミ袋が溜まるようになった。洗濯物が外に干されなくなった。夜には父娘で言い争う声が響いた。生活が上手く回っていないのは容易に察せられる。
夕飯を一緒に食べないかと麻里ちゃんを誘ったこともあったが、藍田さんからは変な同情をかけないで欲しいと、差し出した手をぴしゃりとはね除けられた。それからは適度な距離感を保つようにしていたが、藍田家の状況は悪くなる一方。
残業続きで帰りの遅い父親の目を盗むように麻里ちゃんは深夜まで出歩くようになった。服装やメイクも派手になり、学校も休みがちだとの噂も流れていた。
「……麻里ちゃんって最近はどうしてたの?」
「えっ、ああ。中学のときは荒れてたもんな。高校を出て今は看護学校に行ってるよ」
幼馴染だった麻里ちゃんと和希は幼い頃は仲が良かったが、成長するにつれてあまり遊ばなくなっていた。異性の幼馴染なんてあっさりしたものだと当時は残念に思っていた。あんな可愛い娘が和希と結婚してくれたら。そんな想像をして楽しんでいたこともあったのだ。
彼女の心無い言葉を聞くまでは……。
***
それはまだ私が元気だった頃、カフェで息子の名前を耳にしたことが始まりだった。
「和希ぃ?」
「そそ、隣に住んでんじゃん。幼馴染ってやつでしょ?」
「まあ、そうだけどさ」
聞き覚えのある声にそっと振り返る。制服を着た女子中学生が三人でテーブルを囲んでいた。麻里ちゃんの横顔がちらりと見えた。
「えーっ、関係ないって、あんなヤツ」
「結構、成績いいじゃん。麻里も勉強、教えてもらえば?」
「嫌だよ。キモイって。性格暗いし、ずっと部屋にこもってゲームとかしてるんだよ?」
「だよね。なんか話しかけても、いっつもテンパってるし」
「ジトっとした目で見られてると寒気がするわ」
「わかるわー。あんなのが幼馴染なんて麻里も災難だね」
「幼馴染ガチャに失敗したわ」
店内に華やいだ笑い声が響く。同時に私の心に冬の嵐が巻き起こった。
(和希は頑張り屋さんで思いやりがあって素直で優しい子よ。インドア趣味だからって暗いわけじゃない。友達も多いし、家に引きこもってもいないわ。大体、なんで失敗なんて言われないといけないのよ!)
荒れ狂う怒りを鎮めようと俯いている間に麻里ちゃんたちは店を出て行ってしまった。それ以来、彼女とは話すことはなかった。
***
「ダメよ。ダメだわ! 麻里ちゃんなんて」
「はあ!? 母さんに文句言われる筋合いはないんだけど」
「母親なんだから文句を言う権利はあるわ!」
「煩いな。これだから会いたくなかったんだ」
息子の言葉に愕然とした。素直で優しかった和希はどこに行ったのか。
「嘘だよね。会いたくないなんて……」
「いつまでも俺たちを縛り付けないでくれよ」
「縛り付ける?」
ここに縛り付けられているのは私の方だ。その叫びを噛み殺した。あの頃の気持ちを無駄にしたくない。例えそこに私の意志が存在しないとしても。
「父さんだって新しい人と付き合い始めたんだ」
「論さんが!?」
「今日、顔を出さなかったのだって、そういうことだよ」
最悪だった。いつかはそうなるかもと案じていたが、息子から最後通牒を突き付けられるとは思ってもみなかった。
夫が浮気しているとは思わない。生者はこれからも人生を歩み続けなければならないのだ。新しい恋も生まれるだろう。それでもその言葉は夫から直接聞きたかった。
押し黙っている私の様子に居づらくなったのか、息子は「帰るよ」と言い残してアクセスを遮断した。光の消えたモニターに死んだ頃と変わらない顔が映る。衝撃のあまりしばらく動けなかった。
現実世界に拘るつもりはなかったが、和希の話は別だ。麻里ちゃんがどんな思惑で付き合い始めたのかはわからないが、真意は問いたださなければならない。家族の幸せのためにも。
「よし、家に帰ろう!」
そう心に誓うとなんだか気持ちが軽くなった。