(4)今生の別れでもあるまいし
ナタリアと庭園の一角で束の間の楽しい時間を過ごしたミレーヌが、さてそろそろお暇しましょうかと腰を上げかけた時。
「こんにちは、ナタリア嬢。先日は大変失礼しました」
この時間ここに来るはずのないクラウドが、当たり前の顔をしてミレーヌを迎えに現れた。
心ない謝罪を口にしながら、輝く笑顔を貼り付けて周囲に侍るメイド達の目を釘付けにしている。
大方このよく出来た顔とよく回る舌で、侯爵家に入り込んだのだろう。
ナタリアは内心穏やかではないが、淑女の仮面を被り艶やかに微笑んだ。
「まあ、クラウド様。こんな時間にいらっしゃるなんて、お仕事は大丈夫?」
「ええ、今日は早番ですので問題ありません。姉がお世話になりました」
いくら早番でも帰りが早すぎる。
鳩の件で騎士団の勤務形態を調べ尽くしていたナタリアは、滑らかに出るクラウドの嘘に頬を引きつらせた。
「クラウド、わざわざ迎えに来てくれたの?」
「ああ。ミレーヌ、楽しかった?」
「ええ、とっても。ナッちゃんとの時間は特別だもの」
上機嫌に語るミレーヌの『特別』という言葉に、クラウドを囲む空気の温度が下がった。
表面上は変わらず穏やかに姉を見つめているけれど、内側で嫉妬に駆られているのがナタリアにはよくわかる。クラウドもミレーヌ以外にそれを隠そうとはしていないから尚更だ。
「ミレーヌ、そういえばナタリア嬢は今年ダイナミン伯爵とご結婚されるんだよね?」
「ええ、そうよ。私もナッちゃんの結婚式がとっても楽しみなの」
「そう。それではこれから少し寂しくなってしまうけれど、我慢しなくてはいけないね」
「え? どうして?」
「ナタリア嬢は結婚準備や伯爵夫人としての教育でしばらくお忙しくなるんだ。あまりお時間を取らせて困らせるわけにはいかないだろう?」
「やだ、本当にその通りだわ…! ナッちゃんごめんなさい。こういった訪問も今は控えないといけなかったのに、私ったら自分のことばかりで……っ」
「!?」
(は!? なんでそんな話に!)
驚くべきスピードでクラウドに丸め込まれたミレーヌが、ナタリアと暫く会うことを自粛しようとしはじめた。
雲行きが怪しいなどと思う間もないほど自然に、かつ強制ではなく自らそうする様に仕向けているところがまたタチが悪い。
「あらミッちゃん、そんな事は良いのよ。私が会いたかったんだから」
ナタリアが引きつりそうになる口端を抑えてミレーヌにニッコリ笑ってそう言えば、クラウドから「本当にナタリア嬢はお優しい」とわざとらしい余計な一言が入り、まるで社交辞令で言っているかの様にされてしまう。
(お前は黙ってろ!)
クラウドに強い視線を送るもどこ吹く風だ。
そもそもクラウドの視界にあるのは常にミレーヌだけで、ナタリアなど見ていない。
確かにこれから忙しくはなるが、元々延期していた結婚のため準備はある程度進んでいるし、ダイナミン家の義母との仲も良好だ。
推しであるミレーヌとの時間を削る程ではない。いやむしろ削りたくない。
「ふふ…いやだわ、クラウド様ったら。この私がそのくらいの事で根を上げるとお思いなのかしら?」
ナタリアは社交界では若いながらに淑女の鏡と評される侯爵令嬢だ。その自覚も自信もある。この程度の下らぬ言い合いなど貴族の女達のマウンティング合戦に比べたら取るにたらぬと思い直し、余裕の笑みを浮かべた……のだが。
「ナタリア嬢の素晴らしさは勿論存じておりますが、その礎には一朝一夕では得られぬ努力があるのでしょう。そんな貴女だからこそ、姉のために無理はして頂きたくないのです。ねえ、ミレーヌ」
「ええ、そうね。ナッちゃん…大事な結婚式前に身体を壊したら困るわ。私は大丈夫だから、ね?」
いくら何の問題もないと話をしても、クラウドの都合の良いように軌道を変えられ、その結果ミレーヌはやはりナタリアを気遣い遠慮してしまう。
終いには「これ以上の長居は申し訳ない」と、さり気なくミレーヌの背を押して止めておいた馬車へ向かうようにと告げている。
この流れのまま帰られたら、また音信が途絶えてしまう!と、ナタリアは慌てて声を上げた。
「ミッちゃん!」
「ナッちゃん、今日はありがとう。寂しいけれど落ち着いたら連絡してね」
「まって行かないで!」
「ナッちゃん…?」
チラチラと後ろを振り返りナタリアを気にするミレーヌに手を伸ばすと、その隣で彼女の背に手を当てていたクラウドがさも困ったような表情を浮かべ苦笑いを零した。
「ナタリア嬢はどうしたんだろうね? 今生の別れでもあるまいし」
「ああん!?」
クラウドの太々しさとシャレにならない冗談に、ナタリアの淑女の鏡が早々に割れた瞬間であった。
※※※
帰りの馬車の中でミレーヌが小さく溜息を吐いた。
隣に座っていたクラウドがそんな義姉に気付かないはずがない。理由を察しながらもクラウドは素知らぬふりをして、ミレーヌの顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 元気がないね」
「……ナッちゃんへ、お手紙ならいいかしら? しばらく会えないと思うとやっぱり寂しくて」
ミレーヌはクラウドの結婚を応援すると決めても、ナタリアが近くに居ないとすぐに決意が揺らいでしまいそうだった。
これまで当たり前にあったものがなくなるとはどういう事なのか。今、隣で自身の手を握るクラウドの温もりがいつか他へ移るという想像が出来ていなかった事を思い知る。
(クラウドの幸せを願うだなんて、私は口ばっかり。どんなに取り繕おうとも根底の私はやっぱり悪夢の中と同じ、追い出されて当然な最低の姉なのかもしれないわ。ああ、ナッちゃんに背中を叩いてもらいたい……)
「……そんなにナタリア嬢が好き?」
「もちろんよ。ナッちゃんとは学生時代からずっと一緒なのよ」
「俺は5歳の頃からミレーヌと一緒だよ」
「そうね。学園に入るまで、私には貴方しかいなかったわ」
ミレーヌはずっと友達と呼べるような相手が周りにいなかった。
子供が集まるお茶会など、その場では仲良くなったと思ってもいつの間にか距離を置かれて疎遠になってしまうのだ。
歳の近い弟が遊び相手になってくれていたから何も困る事はなかったが、それでも年頃になれば同性の友達が居ないというのは心細く寂しい。
自分は相手に何かしてしまったのだろうか?と思い悩む時期もあったが、13歳で貴族が通う学園に入学した時にはもう同世代の者達に遠巻きにされることに慣れてしまっていたので、新しい出会いに期待する事もなかった。
けれど、そんなミレーヌにナタリアは臆する事なく声をかけてきたのだ。
『私、ぼっちじゃなくて本を読んでるだけですから』という体でミレーヌが教室でいつも広げていた文庫本が二巡目を迎える前、それは入学して2日目のこと。
「こんにちは。私はナタリアよ。貴女の事はなんと呼べば良いかしら?」
艶やかに波打つ赤毛を胸元に流した綺麗な女の子が、自席に座っていたミレーヌにニッコリと笑いかけていた。
(え、私に話しかけているの?)
ミレーヌはしばらくまともに他人と交流を持っていなかったため、この頃はコミュ障全開であった。
ナタリアを見て大きな瞳を更に丸く見開いたかと思えば、キョロキョロと視線を周囲に泳がせて『え?自分すか?』と言うように狼狽えている。
学園の制服を身に付けていてもナタリアの圧倒的な存在感と大輪の薔薇のような大人びた美貌は、天使というより女王であった。
ミレーヌはすぐさま自分より身分が高いと察し、一先ず何か答えなくてはと焦りながらも口を開いた。
「…わ、私、ミレーヌ、と申し」
「名前は知ってるわ。貴女、目立つもの。ミレーヌと呼んでもいい?」
「ひぃ!」
「私の事は、ナタリアと」
「ひえぇえ…!」
(美女が、すごいグイグイくる…っ!!)
しかし、ミレーヌはその圧の強さに腰を引かせながらも相手がこんな自分に興味を持ってくれていることにとても感動したのを覚えている。
ナタリアは最初こそ有無を言わせぬ支配者の貫禄を感じさせたが、その後はミレーヌの気持ちを優先し、思いやりを持って接してくれるとても素敵な女性だということがすぐにわかったし、頭も良く美人なナタリアは友人が多く、彼女を通して他のクラスメイトとも言葉を交わすことが増えていった。
ミレーヌが楽しい学園生活が送れたのは、ナタリアが居たからと言っても過言ではない。
けれどクラウドは、寂しがる姉をわかっていながらも「ナタリアと自由に会えばいい」とは決して言わなかった。
これまでは姉の良き友として、家柄も評判も申し分の無い彼女ならと目溢しをしてきた。
それに、学生時代のナタリアはその目利きでミレーヌに中途半端な男を近づけさせなかった為、クラウドとしても彼女を『使える』と思っていたのだ。
だが今は、ルーカスを焚き付けたという前科がある。
それはクラウドとって許し難い行いだった。