全部誤解です④
「姉さん」
アッチャー…。
ナタリアは額を押さえた。
この場に居ないはずのクラウドが怒りを瞳に乗せて、底冷えする様な声でミレーヌの名を呼んだ。
ダンスはまだ一曲終わっていないのに、その隣にアリアナは居ない。大方、最中にミレーヌの前で膝を突いたルーカスを見てしまったのだろう。
本来であればダンスの途中でよそ見をすることも、パートナーを放り出してくることも有り得ないのだが、クラウドにとっては今この状況の方が看過できない。
殺意に近い強い視線をナタリア、レオナルドと順に移してルーカスに止めると、獲物を捕らえた様にすうっと瞳が細められた。
「これはルーカス殿ではありませんか。一体、何を?」
「クラウド殿」
「何をしているのかと聞いているのです」
騎士団では隊は違えどクラウドの方が後輩だ。それにルーカスは侯爵家。そんな口を利いて大丈夫なのかとミレーヌはハラハラしてしまう。
「クラウド、やめて。失礼よ」
「失礼?礼を欠いているのはルーカス殿でしょう。それとも、こんなやり方が正当だとでも?…有り得ない。誠実に見せ掛けて姉さんを騙すのはやめて貰いたいね」
「騙すだなんて、そんな事をする方じゃないわ」
「姉さん、まさかこんな男にもう絆されたの?少し話しただけなのに、赤の他人をどうして信用できる?俺には理解できないよ。だからあれほど遠くへ行くなと言ったのに」
「遠くへなんて行ってないじゃない。それに私は子供じゃないのよ?」
「ああそうだ。姉さんは子供じゃない。だから嫌なんだよ。貴女は何もわかっていない!」
いつのまにかクラウドとミレーヌの言い合いになってしまっている。いつもならミレーヌがどんなにクラウドに苦言を呈しても、彼は困ったように笑ってミレーヌの言葉に頷いて全てを肯定してくれていたのに。クラウドらしくない苛々とした空気にミレーヌが先に言葉を失った。
先ほどまで自分が物語のヒロインのように浮かれていた気分が一気に沈み込んでいく。クラウドにこんな風に強い語調で怒られたのは初めて。
ショックで少しだけ潤み出したミレーヌの瞳にクラウドがギクリと動きを止め、痛みを堪えるように視線を落とした。
「……姉さん、とりあえず帰ろう」
「待ってくれ!」
ミレーヌの手を取ったクラウドをそれまで口を挟まずにいたルーカスが止めた。
「……まだ何か?」
「クラウド殿を出し抜くような形になったことはすまないと思う。けれどまだミレーヌ嬢との話は終わっていないのだ。どうかあと少しだけ時間を」
「断る」
クラウドはルーカスの話を途中でぶった切るように言葉をぶつけた。最後まで聞く価値などない。聞いたとしてもクラウドの返事は変わらないのだから。
「何を言おうと時間の無駄です。姉は貴方のものには決してならない」
「クラウド殿ではなくミレーヌ嬢に話があるのだ。…ミレーヌ嬢!聞いて欲しい!どうか俺の手を取ってはもらえないだろうか!俺は貴女を愛しているのです!」
ルーカスはクラウドの背後に隠されたミレーヌに向かい恥も外聞も顧みず捨て身のような告白を強行した。
ルール違反なのはわかっている。しかしミレーヌの実家である伯爵家に対する正当な手順は既に悉く無視されてきたのだ。最後の望みを友人であるレオナルドに繋いでもらったのが今日だ。
クラウドはもう二度とミレーヌとルーカスを会わせないだろう。ならば想いを打ち明けるのは今しかないと思ったのだ。
ミレーヌは生まれて初めて異性からの告白を受けた。
しかもルーカスのような一見堅物の男から熱烈な愛を叫ばれている。まさに子供の頃に好きだった絵本のお姫様を助け出す騎士が如くミレーヌに向かい真っ直ぐに伸ばされた腕。ひとつの恋物語を見守るように周囲は比較的好意的にその様子を見つめ、固唾を飲んでいた。ミレーヌの顔はみるみる赤く染まり熱を孕んでいく。もう身体全体の血液が沸騰してしまいそうだった。
クラウドの視界は怒りと嫉妬に真っ赤に染まっていた。
自分の目の前で最愛の女性が別の男から求婚を受けている。クラウド自身が出来ないことをパッと湧いたように現れた男が、昨日までミレーヌに認識さえされていなかった男が、簡単にそれをやってのけたのだ。
そうだ、男を殺そう。
夜会のため帯刀はしていないが方法はいくらでもある。殺したのち、この場でミレーヌを犯して既成事実を作り二度と社交界には顔を出せないようにしてやろうか。不名誉な噂どころの話じゃない、見事なまでの醜聞だ。そうなればもうミレーヌもクラウドも結婚どころか家の存続すら難しいだろう。だがそれでいい。元から地位も名誉も欲していないのだから、あんな家などどうなろうと構わない。ミレーヌさえ居ればいいと思って生きてきて、全てはミレーヌのためにしてきた努力が今に至っているだけだ。もう誰の目にも触れさせない。屋敷に繋いでミレーヌの視界に映るのは自分だけになればいい。
次々に言葉にできないほどの恐ろしい想像がクラウドの脳裏に浮かび、自分がどれだけ下衆で残虐な性質を持っていたのかを思い知る。
けれど、どの想像の中でもミレーヌが泣いていたことでクラウドはほんの少しの理性をギリギリのところで繋ぐことができていたが、焼き切れるのは時間の問題であるとも思われた。
愛する人を悲しませたくないという想いを、手に入らないなら滅茶苦茶に傷つけてやりたいという衝動が呑み込もうとしていた。
「ルーカス様」
ミレーヌがその小さな愛らしい口でルーカスの名前を呼んだことで、クラウドの最後の理性の糸がピンと張った。
次の一言でクラウドは人としての矜持を手離す。
自分を置いていこうとする最愛を引き止めるように握ったミレーヌの手に力を込めると、彼女はチラリとクラウドに視線を移して聞き分けのない子供に困惑するように眉を下げた。
イヤダ
ミレーヌ
ミレーヌハオレノモノダ
クラウドが憎悪に支配されていく自分の身体が指先から冷たくなっていく感覚を覚えたとき。
「私は貴方の手を取れません」
ミレーヌの凛とした声がクラウドの鼓膜を優しく震わせた。
「私はまだ弟が心配なのです。弟を幸せにしなければ私が幸せにはなれません」
「ミレーヌ嬢…っ」
「ルーカス様のお気持ちはとても嬉しいのです。だけど、ごめんなさい」
はっきりと告げられたミレーヌの言葉に、ルーカスは伸ばした腕を力なく落とした。
公衆の面前で彼の好意を拒絶する形になってしまった事に罪悪感を覚えるけれど、ミレーヌはそれよりも自身の手に縋るように繋がれたクラウドの指先が細かに震えていたのを無視することができなかった。
クラウドには、まだ私が必要なのだ。
私は彼を幸せにしなければならない。
ならばここで取るべき手はルーカスではない。
そう思ったミレーヌは、迷うことなく自身を求めて震える手を取ったのだった。
※※※
「ねぇクラウド、ドアを開けて?」
毎日毎日、何度も部屋のドアをノックする義理の姉にクラウドが根負けしたのが始まりだった。
だってあれはノックなんて生易しいものではなかった。ガンガンと打ち付けるような激しい音に小さな少女の手が傷ついてしまうのではと少しだけ心配になったクラウドがドアの僅かな隙間から顔を出したところで捕まってしまったのだ。
そう、あの日からずっとクラウドはミレーヌに囚われている。
ミレーヌはおっとりとした性格のようで、実は苛烈で強引なところがある。
嫌だというのに散歩だと言っては無理やり手を繋いで外に引き摺り出され、「いっぱい食べないと大きくなれないのよ!」と食事を分け与えるついでに自分の嫌いな野菜をさり気なく入れてくるし、「お勉強!」だと言って大量の絵本や図鑑を抱えてきては色々と聞いてくるからクラウドは姉の疑問に答えるための予習をしておかなければならなかった。
「新しいお洋服をあげる!」とミレーヌが自分のドレスやワンピースを押し付けてきて、これをどうしろというんだとクラウドが呆然としていると「着方がわからないの?仕方のない子!」と服を剥ぎ取られそうになったときには必死で抵抗した。
でも結局「どうして?お気に入りの可愛いやつをもってきたのに…クラウドはピンクが嫌いなの?ぐすっ」と泣かれてしまい困り果てた末に一度だけ渋々ドレスを着る羽目になり、ミレーヌは「かわいいっ!」と手を叩いて喜んでいたけれどクラウドにとっては黒歴史となった。正直、ピンクがどうこうの話ではない事を義姉に理解させるより着てしまった方が早く楽になれると思ってしまった当時のクラウドの判断ミスである。
ミレーヌは常に部屋に入り浸り、呑気にお菓子を食べ、クラウドのベッドでお昼寝までしていく。
「子守唄を歌ってあげる!」と言って息巻いた本人が先に寝るってどういう事なんだろう…と、その破茶滅茶な行動は幼いクラウドを何度も困惑させた。
最初は何を考えているのかと警戒していたけれど、もしかして義姉は、何も考えていないのではないか…と、別の意味で心配にもなった。
(これが自分の姉だと言われても首を傾げてしまうが、野良猫だと思えば……うん、可愛いかもしれない。
…そうだ、金糸のサラサラの髪の毛も大きな瞳も気紛れな態度も猫みたいなんだ。だからミレーヌを可愛いと思うのは、きっと変じゃない)
「可愛い、ミレーヌ。僕の、ミレーヌ…」
父親の再婚からずっと強張り緊張していたクラウドの身体は、スヤスヤと眠る子猫の隣でのみ安らかに息を吐くことができるようになっていた。
正直、突然現れた義理の母と姉なんて大嫌いだった。
義母は何故かクラウドを目の敵にして意地悪をするし、姉は時折憐むような視線をクラウドに向けてはきてもその存在を無視していた。
余所者はあの二人の方なのに、今やクラウドを追いやり我が物顔で伯爵家を闊歩している。クラウドは母親や姉というものを知らなかったが、世のそれらはこういうものなのだろうか。だとしたら女という生き物はなんて残酷で傲慢で醜いのだろう。自分の人生には不必要で、将来身さえ立てたら絶対に排除してやろうと思っていた。
けれど、ある日。小さな隙間から気紛れな子猫が入り込んだ。嫌だと拒否してもお構いなしだった。
(猫だから、言葉が通じていないのか)
ならばと思って部屋のドアを開けないでいれば、どこから持ってきたのか金槌で鍵を破壊されかけた。
(なんて凶暴なんだ…!)
猫は、クラウドの手を引っ掻かないけれど、その心を何度も引っ掻いた。何度も何度も引っ掻くから心が弱ってクラウドは泣いてしまった。
(どうして…ずっと涙なんて出なかったのに…っ)
猫のせいだ。
今更心に入り込んでクラウドを引っ掻き回すから、奥に仕舞い込んでいた『つらい』『悲しい』『寂しい』思いが溢れ出てしまったのだ。
猫が側に来なければ、孤独を感じる事はなかった。
誰に意地悪されたって心を閉じてしまえば何も感じない、平気なはずだったのに。
「クラウド、良い子良い子。大丈夫だよ、お姉ちゃんがそばにいるからね」
よしよしと、猫に頭を撫でられるとクラウドの胸はいつも陽だまりのようにポカポカになる。猫にギュッと抱きしめられるとあったかいから、クラウドもギュッと抱きしめ返した。
(そうだ…ミレーヌが居れば、僕はもう大丈夫だ。寂しくないし悲しくないしあったかい…。ミレーヌはずっとそばに置いておこう。ずっと、ずっとだ…)
クラウド、6歳の冬。
シスコンの階段を登り始めた瞬間であった。