(22)兄と義弟と使用人達
「やあ、クラウド。突然押しかけてくるなんて君らしくもない。今日はどうしたんだい?」
出迎えたアムルートはミレーヌの実兄であり、コート子爵家の現当主である。
クラウドは通された応接室で席を勧められるも座る事はなく、その足でアムルートに詰め寄った。
「頼んでいた書類はどうなりました?」
アムルートは単刀直入に本題を切り出したクラウドの態度に眉を顰める事もなく、至極穏やかに答えた。
「ああ、あれか。もう少し待ってくれる? 祖母は孫が戻ってくると言って大歓迎なんだけど、まだ母がねぇ……」
「もうこの家には関係のない人間に遠慮などいらないでしょう」
「そうは言っても、君のお父上に対する母の影響力は絶大だ。わかっているだろうけど、母を無視して伯爵の了承を得るのは正直難しいと思うよ」
「父の事は、こちらでなんとかします。ですから、一刻も早く手続きを進めてください」
クラウドの口調は淡々としているが、僅かに歪んだ表情から伯爵の説得がうまく行っていない事がわかる。
ただでさえ伯爵のアルフォンスは、クラウド以上に気難しく一筋縄ではいかない相手だ。
親子らしい会話も触れ合いもなかったクラウドが彼に対して情に訴える事に意味は無い。なんら他人と変わらず、相手の利になる条件を余程提示しない限りは歯牙にも掛けないだろう。
唯一頷く可能性があるとすれば、それは後妻エヴァリンの後押しだ。
伯爵はアムルートとミレーヌの母であるエヴァリンを溺愛している。
無感情無関心を常としていた冷徹な男がいつから想いを燻らせていたのかは知らないが、エヴァリンが夫を亡くすとすぐに愛を乞い、強引に結婚を迫って手に入れたほどだ。
エヴァリンの言葉なら、伯爵は無条件で耳を傾ける。難攻不落の男が落ちるかは彼女次第であるとも言えた。
クラウドもそれを見越しているからこそ、内心気に入らないと思う部分に折り合いを付けて義母の実子であるアムルートに白羽の矢を立てたはずだ。
けれど、それらを今更反故にしてまで何をそんなに焦っているのか。目の前のクラウドらしからぬ余裕のなさに、アムルートは思わず苦笑いを浮かべた。
「随分と焦っているみたいだけど、何かあった?」
「……」
クラウドは答えず、口を閉じる。
これでは何かあったと言っているようなものだ。
分かりやすい反応を示したクラウドが今日はなんだか幼く見えて、アムルートは(仕方ないな)と、小さく息を吐いた。
「ところで、私が君に手を貸す見返りは忘れていないだろうね? 妹の事とはいえ取引は公平でないと」
「勿論、お約束通り相応の礼を尽くす準備は既にあります」
「それなら結構。わかった。出来るだけ急いで手続きを進めるよ。もちろん母の説得も任せてくれていいからね」
ニコリとアムルートは食えない笑顔を浮かべた。
整ってはいるが派手さのない優しげな容貌は、兄妹であってもミレーヌとは似ていない。同じところをあげるとするなら髪と瞳の色くらいだ。
成人して間もなく前当主が逝去し、若くして子爵家を背負うことになったアムルートは、人当たりの良い笑みを絶やさずに腹に一物隠していそうな貴族らしい男である。
そういったところも、嘘のつけないミレーヌとは全く似ていなかった。
「ああ、でも私にも説得ができない唯一の要因はあるなぁ」
クラウドは、独り言のように呟かれたアムルートの言葉に僅かに目を眇める。
アムルートは微笑みを崩さぬままにそんなクラウドに一歩近づくと、とん、と指先で軽く彼の胸を突いた。
まるで、心に刻めと言うように。
「それは、ミレーヌが承知しないときだよ。いくら君が望んでも、妹が拒むなら難しい。母はあの通りひどく子煩悩なんだ。子のためならば、己の身を呈してでも絶対に君の行いを許容しないだろう」
「……」
「そんな怖い顔をしなくても、逆に言えばミレーヌさえ頷けば良い話だ。そして、口説き落とすのはもちろん君の仕事。私も、妹は可愛い。よろしく頼んだよ」
決して無理強いはするなよと釘を刺さしておかないと、この危うい義弟は何をしでかすかわからない。
伯爵とはさすが親子と言うべきか、ふたりはとてもよく似ている。
一見、物事に関心が薄く無欲なように見せかけて、そのくせこれだと決めたもの対しては激しい執着を見せる。
伯爵が自分から母を奪ったように強引過ぎるのは頂けないと、アムルートはクラウドの返事を促すように首を傾げて見せた。
「……言われなくとも、分かっています。ほぼ他人の義兄上殿より俺の方がミレーヌを愛していますから」
※※※
去っていくクラウドを見送ると、誰にも聞こえないであろう声音でアムルートはボソリと言葉を落とす。
「全く、手厳しい事を言う。……これでも、君には悪かったと思っているんだけど、生意気過ぎて気が変わりそうだよ」
思わず溢れた溜息は重い。
アムルートがクラウドとの取引で提示したのは相当な額の資金提供だ。それはまだ爵位を継いでいない一介の騎士には到底無理な金額であったが、クラウドはそれを躊躇なく差し出してきた。
投資で稼いだ個人資産であるとは聞いたが、彼の底知れぬ能力には驚かされるばかりだ。というか、完全に引いた。
元々クラウドを試すつもりで吹っ掛けたもので、用意できるとは思ってもみなかったのだ。少しばかり困らせてやろうという大人気ない気持ちがあったことも否めないが、こうもアッサリと叶えられてしまっては面白味どころか虚しささえ感じる。
結果受け取ることになってしまった金は、後に全て妹であるミレーヌに持参金として持たせるつもりだ。
(なんだか、とても疲れたな……)
どうやら無意識に身体が強張り緊張していたようだ。クラウドはそこに立っているだけで人を斬りつけるような鋭さがあり、隙を見せれば容赦なく足元を掬われそうで気が抜けない。
それはクラウド自身が、アムルートに心を許していないからかもしれないが。
「本当にあの義弟に妹を任せて大丈夫だろうか……」
アムルートは脱力した身体をソファに沈めて息を吐いた。
ミレーヌは深窓の令嬢といえば聞こえがいいが、貴族の家に生まれながらもこれまで悪意に晒されてこなかった為に素直で人を疑わず……まあ、とにかく色々とフワフワしているのだ。我が妹ながら、とても心配になるほどに。
そもそもアムルートは今日たまたま所用で王都に出てきていた。
領地に残してきた仕事があるため誰とも面会の約束は入れず2、3日滞在して用が済めばサッサと戻ろうと考えていたその初日にクラウドが突如現れたのだ。
顔には出さなかったが、これには相当驚いた。妹のミレーヌにも会う気はなかったし、ここに居ることは誰にも知らせていないはず。まるでどこかから自身の行動を見られていたかのようで、アムルートはクラウドが去った後、思わず背筋を震わせて周囲を見回したくらいだ。
ピンポイントかつ絶妙なタイミングで難なく自分を捕まえるクラウドから、あのぽやんとした妹が逃げられる気がしない。
騙されて丸め込まれて望まぬ結婚になりはしないだろうか。そしてそれを妹は自覚せぬまま生涯囚われてしまわないだろうか。
貴族の家に生まれれば愛のある無しに関係なく政略で嫁ぐ可能性もあるのだから贅沢なことは言えないが、出来れば幸せになってほしいと思うのも兄心である。
いくら相手に釘を刺そうと懸念は尽きない。
それでも反対することなくアムルートがクラウドに手を貸すのは彼に対して密かに負い目を感じているからだ。
それは己が幼い頃に犯した愚行に起因していた。
アムルートは早くに父親を病いで亡くしているが、それからの母は愛する父を失った心の穴を埋めるように残された子供達に執着し盲愛するようになった。
特にアムルートは亡くなった父親の容姿に生き写しだ。ミレーヌも顔は母親によく似ているが、髪や瞳の色は父のものを受け継いでいる。
母は当然のように子爵家に残り、夫の忘形見である子供達を自分の手で養育すると決めていた。
けれど、周囲がそうはさせなかった。
父親の喪が明けてすぐに、母には沢山の縁談が舞い込んだ。
元々幼い頃からの婚約者であった父がいなければ、もっと身分の高い相手との婚姻も望めるほど母は美しい容姿で有名だった。
子供を産んでも衰える事のなかったその美貌は、クラウドの父である伯爵の心をも掴み、強く請われて半ば断りきれずに再婚することになった。
母は、再婚先に子供達を連れて行くつもりだった。
まだ幼い我が子を手放すことなど考えられないと訴えたが、それを許さなかったのは伯爵ではなくコート子爵家だ。
アムルートは子爵家にとって、ただひとりの直系男子の血縁者。
この国では正式に認められた養子であれば家督を継がせる事も可能だが、手段としてはあっても血統を重んじる固定観念は根強く残っている。それが新興貴族ではなく歴史ある名家であれば尚更だ。
母と祖父母との関係は良好だったが、子を亡くし失意のどん底だったのは祖父母も同じ。その上唯一の希望となっていた正統な後継を渡すことなどできないとの説得を受け、母は泣く泣くアムルートだけを置いて行くことになった。
アムルートが大人になった今考えれば、当然の結果だ。
伯爵もそれをわかっていたが、母を手に入れるためには母の提示する条件を全て飲み込んだように見せる必要があったから拒まなかっただけなのだ。
誰がどう見てもアムルートを連れて行こうとした母がおかしい。
けれど、小さなアムルートはその時、捨てられたと思った。妹だけを連れて行くのは、自分は要らないからなのだと。
ベッドの中のアムルートが眠るまでそばにいて「ずっと一緒よ」と髪を撫でてくれた。大好きだと言って、額にくすぐったいキスをしてくれた。それら全ては、嘘だったのか。
それまで母と子の距離が近かった分、喪失感はアムルートを苦しめた。
悲しくて、悔しくて、堪らない気持ちを抑えられなかった。
祖父母はアムルートを大切にしてくれるが、母のくれる愛情とは別物だ。
母はきっと伯爵家にいる男の子を自分の新しい息子にするつもりなのだ。
自分を忘れて新しい家族と幸せになるなんて許せない。
(僕を、愛していると言ったのに!!)
激情をそのまま手紙に書いて、母へ送りつけた。
アムルートだって、この時はまだ母が恋しいたった10歳の子供だったのだ。
それきりアムルートは、母へ手紙を送る事はなかった。母から送られてきた手紙も開封しなかった。
どんな言葉が並べられていたとしても現実は覆らない。母はアムルートの元へは戻らない。
かといって、大人の事情を理解することもまだできそうになかった。
だから目を背けることで、胸の内から母を追い出した。
捨てられたのではない。捨ててやるのだ、と。
そうしなければ、自分の心を保てなかった。
アムルートが歳を重ねすっかり落ち着いた頃、祖父が体調を崩しがちになった。
間もなくアムルートが爵位を継ぐことになるかもしれないと見越した祖父に、成人前ではあるが顔繋ぎと勉強を兼ねて大人が集う場所へと連れ出されることも増えた。
そこでアムルートは、初めて母の良からぬ評判を耳にする。
母は義理の息子であるクラウドを伯爵家に相応しくないと主張し、決して受け入れないという。
《元は男爵家出身の身の程知らずが直系である伯爵家の嫡男を蔑ろにしている》
《美人だけれど、顔だけの馬鹿な女》
口さがない者たちは、影でそう噂していた。
(ち、違う……母は、そんな人じゃない……!)
この頃は、大人の事情も、貴族社会も、なんとなくわかってきていた。
もう母を恨んでなどいない。いつかまた会えたら、何度もくれた手紙の返事さえ出さずに避け続けてしまった事を謝ろうとさえ思っていたのだ。
(母は優しく、子煩悩な、とても愛情深い人だ。それこそ、子供のためなら己の身など躊躇なく捨てるような……)
アムルートは、ハッと息を飲んだ。
過去に自分が母へと送りつけた手紙のことを、思い出したのだ。
わざと母を傷つける言葉を並べたて、強く非難した後に自ら途絶えさせた音信。
祖父母からも窘められたが耳を傾けなかったのは自分だ。
おそらく母は、クラウドを利用したのだ。
一切を拒絶し悲しみに暮れている愛する息子へどうすれば心を伝えられるのか。信じてもらえるのか。
(……なんて、愚かなことを)
けれど。
(僕が、感情のままに、あんな浅はかなことをしなければ……)
己のした事を思い返し、痺れるように震え始めた指先を握り込んだ。
顔色を変えたアムルートの背中を撫でた祖父も、おそらくはわかっていたはずだ。
本当の娘のように可愛がっていた母の悪評を知りながらも傍観に徹していたのは、いつかアムルートにこの噂を聞かせるためだったのかもしれない。
『私の可愛いアムルート。
私の息子は貴方だけ』
※※※
《緊急使用人会議》
屋敷の奥にある使用人達の部屋には、家令を始めとするお馴染みのメンバーが顔を突き合わせていた。
「すでに皆も承知していると思うが、ミレーヌお嬢様の異性交遊がクラウド様に知られたことで外出禁止……いや、実質、お部屋に監禁されている件についてだ」
“監禁”という穏やかではない言辞に、部屋の空気が張り詰める。
使用人達が恐れていたことが現実になったのは、三日前の夜だ。
突如、知らせもなく夜更けに屋敷に戻ってきたクラウドが昼の外出についてミレーヌを問い詰めると、本人があっさり異性と会っていたことを認めてしまった。
その直後から、クラウドによってミレーヌは無期限の外出禁止及び外部からの接触禁止が言い渡されたのだ。
「アンナ、お嬢様の様子はどうだ?」
ディエゴがミレーヌ付きの侍女に状況を説明するよう促すと、アンナは一礼してから口を開いた。
「ミレーヌお嬢様は、ただの謹慎だと思っております」
「そうか、やはりミレーヌお嬢様であっても……、……なんだって?」
「『独身の男女が妄りに席を同じにしてはならない』と常日頃からクラウド様に言われていたからでしょう。今回の原因がよもや嫉妬などとは考えていないようです」
「……」
(((なんだか……思ってたのと違う……)))
その報告に居合わせた全員が戸惑うような顔をした。
ディエゴは聞き間違えかと耳を疑い、アンナを凝視する。ベテラン家令は老化により耳がダメなら唇を読もうと切り替えたのだ。
「お嬢様はこの機会に長編すぎて手が出せなかった探偵シリーズ物を読破すると目標まで立てられて張り切っておられます。気兼ねなく引き篭れる大義名分が出来た、と申しますか……その、つまり、ノーダメージです」
「お、おお……」
聞き間違えではなかったことに、ディエゴは思わず驚愕の声を漏らした。
現在、ミレーヌの部屋に入れるのはクラウド自身と専属侍女のアンナのみとされている。元より生活に必要な設備は一通り部屋に備え付けられているとはいえ、クラウドの宣言通り屋敷内でさえ自由に歩けなくなったのだ。
ディエゴがミレーヌの部屋の前を通りがかった際に密かに耳をそば立てても扉の向こうはシンと静まり返り物音ひとつしなかった。
一方的で理不尽な処遇に泣き暮らすミレーヌを想像し心を痛めていたのだが、まさか、推理小説に熱中していた……だと……?
「近々執り行われますカーライル侯爵令嬢のお式には出席したいとのことで、一応、クラウド様の前ではしょんぼりと反省するフリをしておられますが、たまにそれすら忘れてニコニコと本人に話かけてしまうのが玉に瑕です」
「だ、大丈夫なのか? それでクラウド様の目が誤魔化されるとは……」
「そうですね。そんな時のクラウド様は、大抵苦笑いをされております」
「いやもう当事者が笑っちゃってるじゃん」
「仄暗い監禁生活のはずなのに和む……」
「自覚がないと、ただのインドアな人ですね……」
ミレーヌのこの三日は読書に夢中で部屋の外から鍵を掛けられてしまっている事にさえ気付いていないのではないかと思われた。
なんならこれまで多忙を理由に家を空けていたクラウドが毎日帰宅するようになった事を喜んでいるくらいだ。
一気に緊張の糸の緩んだ室内で、ディエゴは頭痛を堪えるようにこめかみをグリグリと揉み押さえる。
ミレーヌ自身が納得し、それなりに状況を受け入れてしまっていることを知った使用人達は、安心していいやら心配していいやらでこれからどう動くべきか更にわからなくなってしまった。
「あのー、ちょっと良いですか?」
若い侍従が、おずおずと手を挙げた。
ピタリと話をやめた使用人達の注目が彼に集まり、ディエゴが「なんだ」と続きを促す。
「もしかして、ですけど。ミレーヌお嬢様とクラウド様って、実はめちゃくちゃ相性いいんじゃないですか?」
「ば……っ!? バカ! お前っ、バカ! 何言ってんだお前は!」
先輩侍従が慌てて後輩の爆弾発言を諫めようとするが、若い侍従は首を傾げたまま思った事を口にした。
「だって、クラウド様のドス黒い淀みみたいなものが、ミレーヌお嬢様を経由するとなぜか綺麗に濾過されて大したことないような気がしてくるんですよね。皆さんも、薄々そう思い始めてません?」
(いや、思ってた。思ってたけど……っ!!)
(それ、言っていいやつなんだ……)
室内はしんと静まり返る。
誰もが薄っすら思い始めていたが言葉にできなかった真実を、若い侍従が曇りなき眼で言いやがった。
否定することも肯定することも出来ず、お互いに窺うように目配せしている間にも若い侍従の口は遠慮などしない。
「ミレーヌお嬢様は、本当にすごい人です。クラウド様の逆鱗に触れながら『怒られちゃったわ、てへ』って肩を竦めるだけなんですから。普通は部屋に閉じ込められるなんて嫌ですよね。自由に出歩けないし、友人にも会えないし、全ての行動を把握されているなんて息苦しいですよ。そんなことされたら相手を嫌いになったり逃げようとなさっても不思議じゃないのに、ミレーヌお嬢様はぜんっぜん気にしてないっていうか、なんならクラウド様が決めたことならいいよって言うんです。そんな風に受け入れられるのは、おそらく何処を探してもミレーヌおじょッグゥッ……!?」
突然、若い侍従が言葉の途中でくぐもった声を上げた。その場で喉を押さえて崩れ落ちるように蹲る。
ミレーヌ付きの侍女アンナがベラベラと喋り続けていた若い侍従の喉を目にも止まらぬ速さの手刀で一突きしたのだ。
「お前がお嬢様を語るなど10年早い」
アンナは何処にでもいる侍女のようで、そうではない。クラウドが選ぶミレーヌ付きの侍女に護衛を兼ねられる能力があるのは当然であり、いざと言う時は男ひとりを実力行使で黙らせることなど動作もないのだ。しかもアンナはポーカーフェイスの裏でミレーヌに心酔している。ミレーヌに関することを、にわかが物知り顔で語るなどアンナが許すはずもない。基本的にはクラウド同様、同担拒否タイプである。
その事は使用人の間では周知の事実と思われていだが、どうやらまだ経験の浅い若い侍従は知らなかったようだ。
そばにいた先輩侍従は呆れながも涙目になっていた若い侍従の背中を摩ってやる。
「馬鹿だなぁ、お前。アンナさんの手の届く範囲で不用意なことを言うなよ。物理的に口を塞がれるぞ?」
「そういうの、もっと早く教えといてくださいよ……っ!」
「いや俺さっき止めたじゃん。なのに続けるからもしかしてお仕置き待ちかなって」
「正気ですか……っ」
アンナはフンと鼻を鳴らして手刀を叩き込んだ右手首をクルリと回すと、何事もなかったかのように手を胸の前で恭しく組み直した。そして、悲痛に眉を寄せて重々しく口を開く。
「ディエゴ様。実は……これは、ご報告すべきか迷っていたのですが……」
「な、なんだ?」
正直もう何も聞きたくないディエゴが、恐る恐る問い返す。
「問題のきっかけとなった男性との会話の中で、実は、大変申し上げにくい内容がございました」
誰のものともしれないゴクリと喉を鳴らす音が聞こえてきた。
「その、お嬢様が、クラウド様に……」
「……」
「こ……っ」
「……」
「こ、恋をしていると……!」
その瞬間。
ディエゴの目からはスコーンと光が消え失せた。
聞かなきゃよかった。
「もちろんっ、お嬢様は否定されておりましたが!! 私もまさかとは思うのですが!! その、お相手の方がまるで確信されているかのような話ぶりでしたので……」
声は段々と尻つぼみになり、アンナは瞳を伏せ口を閉ざした。
室内には身内に不幸があったかのような重苦しい空気が流れる。
「ディ……ディエゴ様……」
助けを求めるように先輩侍従がディエゴを見ると、部屋中の縋るような視線が今度は彼に集中した。
ディエゴは肺の空気を全て吐き出すように長く息を吐いて、静かに空を見つめる。
クラウドのミレーヌに対する長年の想いを快く思っていなかったのは、彼が憎いからではない。
クラウドはミレーヌ同様、幼い頃からその成長を見守ってきた仕うるべき主となる大切な存在である。
ただ、ディエゴは危惧し、伯爵家の未来を憂いてきたのだ。
ミレーヌはクラウドにとって、諸刃の剣。
その執着はミレーヌだけでなく、クラウド自身の身を滅ぼす、と。
けれど、蓋を開けてみたらどうだ。
クラウドから身勝手で不当な処遇を言い渡されてもミレーヌは顔色ひとつ変えなかった。抵抗や不満を露わにすることもなく、むしろウキウキと引きこもって趣味に明け暮れているという。
そしてクラウド自身もそんなミレーヌに毒気を抜かれてしまっている。
「私は、長い間、ひどい見込み違いをしていたのかもしれない……」
ディエゴは苦しげに顔を歪めて、自身の未熟さに肩を落とした。