(16)真夜中のお散歩
義弟が久しぶりに家に戻ってきた。
しかし、騎士服のまま現れたクラウドは見た事もないほどの冷たい瞳をミレーヌに向けている。
「俺の幸せを優先するなどと言いながら、結婚には非協力的でおかしいと思っていたんだ。姉さん、アリアナを蔑ろにしているそうじゃないか」
「何のこと? 私は何もしてないわ」
突然何を言い出すのか。
アリアナとは仲良くお茶をして以来会っていない。
ミレーヌは困惑しそれを素直に口にしたが、クラウドの表情は不快とばかりに酷く歪んでいく。
「この後に及んでとぼけるつもり? 姉さんには失望した。目障りだから、今すぐこの家から出て行ってくれないか」
「!?」
(いきなり!? なぜ!?)
クラウドの目は本気だ。
その雰囲気から『マズイ』と感じ取ったミレーヌは、この悪夢のような急展開の心当たりを胸に手を当てて大急ぎで探したが、アリアナの突然の訪問を責めてもいないし、嫌味を言ったつもりもない。
多少、姉妹ごっこを妄想してキャッキャウフフと楽しんだりはしたけれど、それは脳内でのことだ。バレるはずもない。
(……え、まさか私、声に出してた? いやいや、それでも多少気持ち悪いと思われることはあるかもしれないけれど蔑ろにしているわけじゃないもの!)
とにかく早く弁解しなくてはと、心は焦り、額には嫌な汗が滲む。
「クラウド。違うのよ、ちゃんと話をしましょう?」
「一応、俺にも慈悲の心はある。元の子爵家へ戻れるよう貴女の兄であるアムルートには身元の引き受けを頼んでおいた。荷物をまとめるくらいの猶予もあげるよ。ドレスくらいなら持って行っても構わないから一時間以内に準備をして」
「ま、待って! きっとなにか誤解があるはずだわ。お願い、話を聞いて!」
「門の前に馬車を止めておく。それに乗ったら二度と顔をみせないでくれ」
クラウドは全くミレーヌの言葉に耳を傾けてはくれなかった。
どんなに言い募っても、ただ一方的に別離を告げられるだけ。
ミレーヌに対し、こんなに頑なな態度は普段のクラウドならば有り得ない。口調も声音も別人のように冷たい。
仕事が落ち着いたクラウドが家に戻ってくる日を楽しみにしていたミレーヌは、義弟の変化にショックを隠せず瞳を潤ませた。
「クラウド……どうして……」
「……貴女には、心当たりがあるでしょう。わからないと言うのなら、それこそ救いようがない」
震える声で理由を問えば、答えはミレーヌの中にあるという。
ミレーヌはそれに緩々と首を左右に振って訴えた。
「わからない、わからないのよ。私の何がいけなかったのか……」
「本当に?」
(…………本当に?)
その言葉は手を当てた胸にチクリと小さな痛みを走らせた。
「さようなら……義姉さん」
(待って……っ!!クラウド!!)
目の前のクラウドの姿は徐々に輪郭を失い、霞のように朧げになっていく。
懸命に手を伸ばしたその先には、もう何も残っていなかった。
※※※
…………という、夢を見たミレーヌは、息を乱してベッドから飛び起きた。
周囲は暗く静まりかえり、まだ夜が明けていないことがわかる。
首元に滲んだ汗が外気に触れて、ミレーヌはひとり、ぞくりと肌を粟立てた。
「な……なんてことっ!」
回避したと思っていた悪夢の再来だ。
今回は殺されない。多少の温情もある。
けれど、ミレーヌだけが伯爵家から追い出される。
なぜ!!!
(子供の頃に見た夢よりは若干マシになっている事を喜ぶべきなのか……って、全然嬉しくないわよ! 姉弟仲は良好なはずなのに、やっぱり私が保証人を拒んでクラウドの結婚を先延ばしにさせているから!? それとも図々しくもアリアナ様を差し置いてファンレターを何度も送ったこと!? え、私、ウザい…? 薄々そうかもしれないと感じてたけど、でも、だって、クラウドが手紙を送るたびに綺麗なお花を返してくれるから、いつの間にかそれが楽しみになってしまって、つい……。ああ……結局ファンを装ったところで小姑感を強めてしまっていただけなのかしら……)
夢の中では思い当たらなかった理由が、今ならザクザクと溢れ出てくる。胸に手を当てるまでもなく心当たりだらけである。
あれだけ家族の適切な距離というものをクラウドに説いていたのに、自分がその距離感を測れずにいるなんて。
正直、ミレーヌは『適切な距離』など物理で取れば良いと安易に思っていた。
しかしよく考えてみれば心の距離こそが問題で、そうでなくては弟離れにならないのだ。
「はぁ……」
額に手を当て目蓋を閉じれば、自然と溜息が溢れ落ちた。
汗をかいたせいか喉はカラカラに渇いている。
けれど、いつもどうせ飲まないからと枕元に水差しは用意してもらっていない。
(どうしよう、朝まで我慢するべき? それとも、誰かを呼ぶ?)
少しだけ考えて、すぐに顔を上げる。
(この程度のこと、誰かに頼むまでもないわよね。こんな真夜中であればきっと誰にも会わないだろうし、悪い夢見の気分転換にも丁度良いかもしれないわ)
ミレーヌはうんとひとりで頷いて夜着の上に薄手のガウンだけを羽織ると、こっそりとベッドから抜け出して自分の足で調理場へと向かうことにした。
蜜蝋を灯した燭台を手に静かに部屋を出て、人気の無い薄暗い廊下を進む。
(今思えば、昔はなぜこんな中をわざわざ出歩いたのかしら)
ミレーヌは、幼い頃にクラウドと夜更かしをして「肝試しだー!」と真夜中の屋敷を探検して歩いたことを思い出し、クスリと笑った。
(厨房のお菓子を摘み食いしたり、応接室に忍び込んで高価な調度品に触れてみたりしたわね……ふふっ)
ふたりで手を繋ぎ、日中とはまるで違う雰囲気の部屋や廊下にワクワクドキドキして、まるで小さな冒険家にでもなったような気分だった。
(あの頃よりずっと大人になったのに、今はなんだか不安で心細いわ。調理場ってこんなに遠かったかしら)
幾分か歩く速度を早めながら目的地はまだかと顔を上げると、長い廊下の先を飲み込んだ暗闇の中に、ぼんやりと薄明かりが見えてきた。
ミレーヌはギクリとして足を止める。
静かに響く、コツコツという足音。
前方から誰かがこちらに向かって歩いてきている。
(こんなに時間に誰……っ、ゆ、幽霊だったら、どうしよう……っ! 死んだふり!? あれ、それは熊だったかしら!?)
テンパったミレーヌが、燭台を持ったまま廊下の真ん中で硬直していると段々とその輪郭がハッキリとしてきた。
精巧に作られた芸術品のように整った顔は蜜蝋に照らされると普段よりも透けるような肌に見える。
相手もこちらを認識して、目を見開いた。
「……クラウド? どうしてここに?」
騎士団本部に居るはずの義弟が、ミレーヌと同じように燭台を手にして立ち止まる。
(まさか、私に出ていけと告げに来たの?)
ミレーヌは先ほど見た夢と現実の区別がうまくつかずに、一歩後ずさった。
現にクラウドは夢の中と同じ騎士服のまま、驚いたような表情から次第に眉を寄せていった。
ミレーヌの疑問には答えず、怖い顔をして燭台を足元の床に置くと、なぜか自分の上着を脱ぎながらズカズカと近付いてくる。
「ミレーヌ! ダメじゃないか!」
「ひぇっ!」
出会い頭にミレーヌはクラウドに怒られた。
それと同時にクラウドは脱いだ上着をミレーヌの肩に掛け、腕を通す暇も与えずに前ボタンの全てを止めていく。
カッチリとした騎士団の制服は見た目よりも重量感があり、男性用のサイズはすっぽりとミレーヌを隠してしまった。
手にしていた燭台はクラウドに取り上げられ、瞬く間にまるでミノムシのような姿になったミレーヌだが、最近の推しである騎士団の制服が思いがけず着れたことにちょっとだけときめいていた。
「ミレーヌ、こんな所でいったい何をしているの?」
「え…っと、喉が渇いたから調理場に水を貰いに……」
「それはメイドの仕事だろう。……まさかとは思うけど、呼んでも来なかった?」
クラウドの表情がさらに冷たく強張るのを見たミレーヌは、メイドが責められてはいけないと慌てて弁解の言葉を口にした。
「違うの、私が呼ばなかったのよ。だって、もうみんな寝ているし、起こすほどのことではないわ。水差しを用意しなくて良いと言ったのは私なのだから」
「だからと言って、ダメだ。貴女がこんな夜中に、そんな薄着で部屋を出るなんて。俺が居ない時に何かあったらどうするの」
相変わらず心配性の義弟に、ミレーヌはこっそりと息を吐く。
自分の事を心配してくれるという事は、まだ情があるということ。
夢のようにいきなり追い出されたりはしないだろうと安堵したのだ。
あくまで、夢は夢。
今のクラウドはやはり義姉に優しいクラウドだと。
「大袈裟ね。大丈夫よ、誰にも会わないし、寒くないもの」
「寒いとか……まあ、それもあるけど、そういう事じゃなくて。現に、ここで俺と会ったでしょう?」
「そうね。そういえば、どうしてクラウドがここに居るの?」
これまでずっと騎士団本部に泊まり込みだった義弟が、なぜここに? という単純な疑問にミレーヌはキョトンと首を傾げた。
もしかして、もう家に帰ってこれるのかしら? と少しだけ期待を滲ませてクラウドを見上げれば、彼は視線を逸らすことなく瞳を細めてゆったりとその理由を口にした。
「それは……どうしても必要なものがあって、取りに来たんだよ」
こんな真夜中にそんなわけないだろうと思うのが普通だが、ミレーヌは「まあ、そうなの。大変ね」とあっさりと納得してくれるから非常に助かる。
本来どんなに忙しかろうと、クラウドがミレーヌを放っておけるはずがないのだ。
騎士団に詰めていながらもこうして定期的に戻ってきては、こっそりと様子を確認していた。
誰もが寝静まる真夜中に戻ってくるのは、もう三度目だ。
この時間ならミレーヌは完全に夢の中。一度眠るとそのまま朝まで目覚める事はほとんどない彼女の健やかな寝顔を眺めて帰るだけだが、表立ってミレーヌと接することを自重しているクラウドにとっては貴重な癒しの時間となっている。
ちなみに、家令のディエゴのみがクラウドのこの行動を知っておりぶっちゃけ引いているが、変質的なのは今更であること、実は家にいる頃からの常習者であること、クラウドが自制したギリギリのラインの妥協点であること等を考慮すると、下手に突いて事態を悪化させれば目も当てられないと黙認するしかない状態でもあった。
「でも、必要なものならそれこそ誰かに頼めば良かったのに。そうだわ、次からは私が騎士団へ届けに……!!」
「ダメ。絶対に来ないで」
義弟が家に戻ってくるのではという淡い期待を打ち砕かれただけでなく、ニッコリと笑顔でお遣いを拒否されたミレーヌは、思わずムッと唇を突き出した。
「私だって、役に立つのに」
「そうだね。ミレーヌは居てくれるだけで十分役に立ってくれている。だから、どこにもいく必要はないし、ずっとここに居てね」
「ずっと、居てもいいのかしら」
「当たり前でしょう。ここは貴女の家なんだから」
(私の家……。居てもいいのね。よかった……。変な夢を見てしまったからといって、私ったら疑心暗鬼になりすぎね)
ミレーヌはクラウドの言葉に、再びそっと安堵の息をついた。
その後、自分で水を飲み行くといって譲らない頑固なミレーヌに「じゃあ、俺も一緒に行く」とクラウドが折れて調理場までついて来くることになった。
「クラウドの用事はいいの?」
「もう済んだからね」
思いがけず義弟と久しぶりの夜の探検をすることになり、ミレーヌの心はウズウズとしてくる。
寂しかったはずの暗い廊下も、隣にクラウドが居れば怖くない。
ミレーヌは隣を歩く義弟を見上げて、ニコニコと上機嫌に頬を緩ませた。
「こんなふうに、夜の廊下をクラウドとお散歩するのは久しぶりね」
「ああ。そういえば、ミレーヌが厨房の菓子を盗み食いしたから足がついたんだったね」
「まあ、私のせいにするの? クラウドも食べたじゃない」
「そうだった?」
「そうよ!」
あはは、と朗らかに笑い声を上げたクラウドも、久しぶりに見た気がする。
彼は黙って表情を消すと冷たい印象を持たれる迫力のある美形だが、こうして屈託なく笑えば少しだけ幼さが混じってとても可愛い事をミレーヌは知っている。
ミレーヌの義弟は、かつて天使そのものだったのだ。
幼い頃は、それはもう可愛くて可愛くて、ミレーヌは彼を構い倒しては何度も嫌な顔をされていた。
クラウドにベタベタとミレーヌがくっついても、彼が嫌がらなくなったのはいつからだったか。
むしろいつの間にか立場が入れ替わり、クラウドの方がミレーヌに執着を見せ始めたのは?
小さな可愛い義弟は、あっという間にミレーヌの背を追い抜き、今や更に綺麗に磨きをかけて、逞しい騎士にもなった。
特に何かきっかけがあったわけでもないのに、ただ隣に立つ義弟を見上げて唐突にその事実を認識したミレーヌは、自分の頬がカッと上気するのを感じた。
(どうしよう、今、無性にクラウドと手を繋ぎたいっ。ダ、ダメかしら……? でも、姉弟として、ちょっとだけなら……)
ミレーヌは葛藤し、ようやく自分なりの正当性を見つけだして口を開いた。
「ねぇ、クラウド。暗くて心細いのではない? お姉ちゃんが手を繋いであげてもいいわよ」
ミノムシの裾の下から、ミレーヌはちょこんと指先を出す。
「……ミレーヌが心細いんじゃないの?」
「べ、別に、私は平気だわ。もう大人だもの」
「そう。じゃあ、俺が心細いから、繋いでくれる?」
「!」
そうして、クラウドからエスコートする様に救い上げられた指先。
ミレーヌはどこか遠慮がちな彼の硬い掌をキュッと握りかえすと、嬉しそうに頬を染めてふふふと笑った。
それを見たクラウドは、一瞬にして表情がスンッと抜け落ち、頭の中で素数を延々と唱え続けることになったことを色々と無自覚な義姉は気付かなかった。
調理場を経てミレーヌの部屋の前に来ると自然と繋いでいた手は解けて、それと同時にクラウドの意識は現世に戻ってくる。
この時すでに唱えた素数は1358個に辿り着き悠に煩悩の数を超えて若干の悟りを開き掛けていたため、クラウドは送り狼にはならず聖人のような澄んだ心で「では」と別れを切り出すことができた。
けれど、すんなりと向けた背中に「ごめんね、クラウド」と小さな声がかかる。
クラウドが振り返れば、ミレーヌは部屋に入ることなく扉の前で騎士服の前身頃を握りしめて表情に影を落としていた。
「ミレーヌ、どうしたの?」
「覚えている? 子供の頃、ふたりで夜に部屋を抜け出したことを後からクラウドだけがお母様に叱られたでしょう?」
「……そんな事、あった?」
クラウドは忘れてなんていないくせに、知らないフリをしている事をミレーヌは分かっていた。
義弟はその事でミレーヌを責める気はないのだろう。今も、あの頃も。
「私は、私がクラウドを誘ったのがいけなかったのに、それを怖くてお母様に言えなかった。ごめんなさい……あの時怖かったのは、あなたの方なのに」
ふたりの真夜中の探検は、楽しい思い出ばかりではなかったのだ。
クラウドに謝らなければと思いながら、それがずっと出来なかった。
記憶とともにふと込み上げた罪悪感を今更吐露すれば、クラウドは戻りかけていた足を戻し、ミレーヌに向き直る。
「……俺が覚えているのは、その後、ミレーヌが厨房からこっそりポケットに入れて持ちだしていた戦利品を全部俺にくれた事だよ。両掌いっぱいのチョコレートにもそんなに取ったのかと驚いたけれど、自分が大好きなお菓子を涙目になりながら俺に差し出してきたときの顔が可愛かった。罪滅ぼしのつもりなのかと思ったら余計に可笑しくて、叱られた事なんてどうでもよくて、忘れちゃったよ」
茶化すようにそう言って、クラウドはまた一歩近付きミレーヌの暗い表情を覗き込んだ。
ニコリと向けられた笑顔は、子供の頃にも何度も見てきたものだ。
まるで何でもないことのように、この顔で「平気だよ」と言われるたびにミレーヌは心を軽くしていたけれど、小さな子が大人に強く叱責されて辛くなかったはずがない。
(……クラウドは、本当に優しい子。なのに、私は……)
「弟を守らないなんて、私は本当にダメな姉だったわ。……いえ、今もきっと、ダメな姉ね」
自嘲するように呟いた次の瞬間には、クラウドの腕に背中を引き寄せられていた。
驚いたミレーヌの心臓は、抱き締められる力と比例するようにギュウッと強く締め付けられる。
「ミレーヌはいつだって俺を守ってくれていたよ。今もだ。今も、俺の心はミレーヌに守られている」
「ク、ラウド……」
「愛しているよ、ミレーヌ」
「っ!」
耳元で囁かれた言葉は、ミレーヌの脳天を撃ち抜いた。
それは、これまでに何度もクラウドは口にしており、聴き慣れているはずの言葉なのに。
(あ、愛……っ、私も愛して……え? 愛って何だっけ!?)
いつも通り「私も愛してるわ」と返したいのに、言葉が全く出てこない。
もう愛の定義から考え直さないと口にしてはいけない禁止用語のような気さえしてくる。
「……!? ……っ!」
「ああ、いけない。これ以上は過度な触れ合いになってしまうんでしょう?」
「!?」
「そんな可愛い顔をしないで。……我慢ができなくなるから」
「!?」
クラウドの腕からの拘束を呆気なく解かれると、ホッとしたような寂しいような気持ちになった。
これは一体、どうしたというのか。
ミレーヌ自身が混乱して目を白黒させているうちに、クラウドは部屋の扉を開けて彼女の背中を押し込めた。
「もう、朝まで出てきてはいけないよ。……おやすみ、ミレーヌ。良い夢を」