(13)自分の抱えるものと別の意味を持っていたとしても。
(なんて野蛮な)
侍女のアンナは、僅かに眉を寄せた。
たとえそれがクラウドであったとしても、騎士団の訓練など深窓の令嬢であるミレーヌに見せるものではない。
アンナはよくもお嬢様をこんな場に連れてきたわねと、デジレの背中をひたすら睨んだ。
(これは不味い…。俺、下手こいた……)
デジレは、自身の失敗を確信していた。
模擬戦は第二部隊の勝利という結果に収まったが、あの戦い方はなんだ。相手が負けを認めるか、反撃不能となれば終了となるため決して反則ではないが、褒められたものでもない。
剣を手放してもなお迷いなく隙をついて相手の足を蹴り払い地面に沈めただけでなく、剣を奪って突き付けるなど誰が想像できただろう。
クラウドの流れるような体術への移行、それを叶える瞬発力と柔軟性は流石と言えるが、騎士らしいのは断然ルーカスの方だ。
実戦ならまだしも、たかが模擬戦でそこまでやる奴はいない。相当相手の事が嫌いで、最初からボコッてやろうと思っていない限りは。
(クラウドのやつ、夜会でルーカスがミレーヌ嬢に告白した事を根に持っていたのか? その割にはこの程度で済んで何よりだけど、当の本人は引いちゃってる……よな?)
恐る恐る視線を向ければ、隣に並ぶミレーヌは大きな瞳を見開き、驚愕の表情を浮かべていた。
胸の前で組んだ両手は微かに震えている。
(やばい…。やっぱりご令嬢には刺激が強かったか。いずれバレるとはいえここはクラウドに見つかる前に彼女を連れて退散した方が……って、うわ!!! クラウドこっち見た!!? うわわわわ来る…っ! まだ呼んでないのに、すげぇ大股で近づいて来たぁあぁ!!!)
「あ、姉上殿…っ! クラウドが」
「ミレーヌ!」
デジレが反射的にミレーヌを背に隠すように回り込むが、時すでに遅し。
クラウドがミレーヌの名を呼ぶと、ミレーヌは「はい」と返事をし、悪びれる事なくひょっこり顔を出した。
幻かと思ったが、本物だ。なぜこんなところに義姉がいるのだと、クラウドは理解が追い付かずにその場で固まった。
そしてゆっくりとデジレへ視線を移し、口を開く。
「…デジレ、これは、どういう…?」
「ひ…っ!? お、俺!?」
「お前以外に、誰に聞けというんだ」
「当事者が目の前にいるだろ! 姉上殿がお前に会いたいと言うから俺は案内しただけだからな?!」
「案内ね…」
緩りと細められた瞳は、全く笑っていない。
苛立ち任せの戦い方を見られてバツが悪いクラウドは、ミレーヌと目を合わせることが出来ない分、デジレにその矛先が向いていた。
(わかる…!!『てめぇ、こんな場所に案内してんじゃねぇよ…』って言いたいんだろ!? いやまさか、お前だってあんな戦い方普段しないじゃん!! 俺だって失敗したって思ってるし、とにかくごめぇぇえん!!)
デジレが模擬戦時よりもダラダラと汗をかきながら、底冷えするような視線から目を逸らすと、隣でふたりの様子を伺っていたミレーヌが遠慮がちに「クラウド」と声を掛けた。
名を呼ばれ、クラウドの瞳は温度を取り戻す。
一見、先ほどと同じように見える緩やかに細められた目元は途端に柔らかさを帯びた。
「お仕事中だってわかっていたのに、勝手な事をしてごめんなさい。どうしても貴方が心配で、デジレ様に無理を言って案内してもらったのよ」
「そうか。それは悪かったな、デジレ」
「え?」
なんだその変わり身は。
先程までの愚かな人間を氷漬けにしてやろうかと言わんばかりの無言の圧はどこへ行ったんだ。
長年の付き合いでわかってはいたが、久しぶりに見るクラウドのシスコンぶりと急に向けられたよそ行きの笑顔に、デジレは大いに戸惑った。
ミレーヌを前にしたクラウドは、その全てが別人のように変わる。
目の前では普段無愛想で可愛げのない男が、今はその顔の良さを存分に生かし、とろける様な瞳でミレーヌを熱く見詰め、彼女に掛ける声はまるで恋人に対するもののように、甘く優しい。
(これが他で出せたならめちゃくちゃモテるだろうに……。しかしこの状態のクラウドを前にして、姉上殿が平然としているのは何でなの? 麻痺してんの?)
デジレはクラウドを残念な目で見ながらも、ミレーヌの煩悩から解き放たれた仙人の如く動じない姿にも驚愕していた。
「ミレーヌが心配するようなことは何もないよ。ディエゴからは何も聞いていないの?」
「お仕事が忙しいから戻れないと聞いたわ」
「うん、そうだよ。ごめんね。もしかして何か困ったことがあった?」
「いいえ。みんな貴方の言い付け通り、よくやってくれているわ」
「それなら良かった。相談事があるならディエゴに言って。彼とは定期的に連絡を取っているから何かあれば俺から指示をするからね」
「……直接、クラウドと話すのではダメなの?」
「そうだね。この場にミレーヌは相応しくないから、もう来てはいけないよ」
久しぶりに顔を見たクラウドは、相変わらずとても優しい。怒っているから帰ってこないのかも、などというミレーヌの懸念は杞憂だったのだと思えた。
けれど、家に帰れないほど忙しいという義弟の身体が心配なのも本当だ。
もうここに来てはいけないと言われては、今後どのように彼の無事を確認すればいいのだろう。
(いけないわ。きっとこんな事はお互いに独立すれば普通のことなのだから、私も慣れていかないと。毎日顔を見合わせていたこれまでが、きっと子供だったのよ…)
ミレーヌはニコリと笑顔を作った。
「ええ、そうね。でも、貴方が無理をして身体を壊さないかと心配で差し入れをもってきたの。今日だけにするから、受け取ってもらえるかしら? もし宜しければたくさんあるので皆様にも召し上がって頂きたいわ」
スッと後ろに控えていた侍女が、持っていたバスケットを差し出した。蓋を開ければ仄かにバターの甘い香りと焼き菓子が顔をのぞかせる。
「これは、ミレーヌが?」
「いいえ、私はまるで料理はダメだもの。作ったのはうちの料理人たちだから味は保証付きよ」
「ああ、なら良いんだ。わかった、後で団員にも配るよ」
(…今、『なら良い』って、言ったわね? どうせ私の料理は食べられたものではないけれど)
ミレーヌは子供の頃に大好きなケーキを自分で作れないものかと何度か料理にチャレンジしたことがあるが、決定的にセンスがない事が判明している。
困り顔の料理人たちに無理を言って場所とレシピを提供してもらったが、同じように作っても全く別の『何か』になってしまうのだ。
そして、クラウドが10歳の誕生日の時に焼いた『ケーキらしき何か』を最後に、ミレーヌは料理界から引退した。
しかし、クラウドの本音は別だ。
ミレーヌを揶揄する気持ちなどなく、むしろミレーヌの手作りだったのなら他のやつにやるわけがない。
あの味のよく分からない、自分は味覚を失ったのかと錯覚させてくる不思議な料理さえ愛している。
「ありがとう、ミレーヌ。今度は俺のためだけに、貴女が作ってくれる?」
「うふふ、からかわないで? 本気で作るわよ」
「そう頼んでいるんだけど」
全く伝わっていないが、クラウドはどんなミレーヌも愛している。ミレーヌでさえあれば、他はなんであろうと構わない。
(本当に、心から、愛しているよ。ミレーヌ)
だからこそ、今はまだ帰れない。
いつものようにその滑らかな頬に触れようとして伸ばした手を、クラウドがそっと下ろしたことにミレーヌは気付かなかった。
(触れたい……けれど、まだ、ダメだ)
自身の心を律して、クラウドはただ微笑みを浮かべる。
「クラウド…早く帰って来てね」
「…そうだね。必ず、帰るよ」
たとえ、愛する人の言葉が、自分の抱えるものと別の意味を持っていたとしても。
(どんな手を使ってでも、貴女を手に入れてみせる。望みが叶わないのなら、全てが無意味になるだけだ。その時は……)
門の外まで見送りに来たクラウドはミレーヌの乗った馬車が見えなくなっても、その方向を暫く見詰め続けていた。