(10)伯爵家の風来坊
ナタリアの目論見が見事にハマり、アリアナに遠慮したミレーヌに距離を置かれるという事態に至ったクラウドは、いつもなら早番だろうが出勤前に必ず義姉の顔を見てから仕事に向かうのだが、今朝は昨日の禍々しい空気をそのままに日が昇る前に家を出ていった。
家令のディエゴは、とても治安を守る騎士団に向かったとは思えぬ殺し屋の如く暗い目をしたクラウドに一抹の不安を覚えていた。
(クラウド様はお嬢様の為に血の滲むほど自制をなさっているのだろうが、あの様子では時間の問題かもしれない。しかし、あのアリアナという娘が来てからお嬢様はクラウド様離れをし始めている。これは好機と見て良いのだろうか……)
ディエゴとしても、ミレーヌの言う通り姉弟といえど適切な距離は保つべきであると思っている。
けれど、クラウドにとってミレーヌは依存などという言葉ではすでに生易しく、生きる意味であり、生きるための酸素、いわば生命維持そのものである。
意味合いはどうあれ拒絶の言葉を吐かれた昨日は実際にクラウドの息が止まったのをディエゴは見逃さなかった。
ミレーヌはクラウドのその危うさを理解していないため、クラウドにとっては死刑宣告のような事も笑顔で告げてしまうことがある。
素直さ故で悪気はまるでないのだが、クラウド自身がそんなミレーヌの全てを受け入れ愛しているからこそ、2人の微妙な関係は保たれてきたのだ。
しかし、その均衡が今崩れようとしている。
クラウドがひとり沈むのか、ミレーヌを道連れにするつもりなのか。
(この家の嫡子はクラウド様だが、ミレーヌお嬢様とて大切な主であることに変わりはないのだ。お嬢さまのお気持ちを蔑ろにして望まぬ結果にするわけにはいかない。それに、さすがに旦那様も黙ってはいないだろう)
この伯爵家の当主であるクラウドの父・アルフォンスは人嫌いでも有名で、好き好んで表舞台には出てこないものの安定した領地経営とそれなりに事業を成功させ今も継続的な財を成している。
子供達が成人すると後妻のエヴァリンを連れて領地に篭り家の事には一切口を出さずにきたが、元より子供に関心や情を抱くような男ではないからこそ、そこに利がなければクラウドがいくら望もうと身内間の結婚に頷くとは思えない。
対して女主人であるエヴァリンは、普段はアルフォンスと共に領地にいるが、王都の屋敷に来る度にミレーヌへたくさんのお土産と縁談話を持ってくる。
此方は純粋に愛娘の幸せを願っての行動だが、その度にクラウドがミレーヌの目に触れる前に相手の瑕疵を突いて破談に追い込んでいるため実を結ぶ事はなかった。
エヴァリンとてミレーヌに相応しくない相手との結婚を無理強いするつもりはないが、だからと言って目の敵にしてきたクラウドとの結婚を許すとは考え難かった。
そもそも貴族の大半は政略結婚だ。恋愛を楽しみたいのなら、結婚し後継をもうけるなどの義務をお互いに果たした後に愛人を持ったり行きずりの恋に興じれば良いと割り切る者が多い。
何かと器用で卒のないクラウドであれば、その辺りのバランスを保つ事など造作もなく、あの恵まれた容姿なら相手にも困らないだろう。
しかし、ミレーヌという唯一に出会ってしまったがために、もう彼女以外の選択はなくなっている。
ディエゴが危惧しているのは、普段なら策を巡らせ用意周到に根回しをする狡猾な男はミレーヌの事となるとタガが外れてしまうということだ。
痺れを切らしたら無理にでも既成事実を作りかねない。
もしくはミレーヌを文字通り攫って、ミレーヌ以外の全てを捨てて消えてしまう可能性もある。
クラウドにとって、ミレーヌは諸刃の剣。
精巧に作られた人形のような顔は、ミレーヌの前でのみ人間らしく喜怒哀楽の表情を浮かべ、秘められた感情は言葉となり零れ落ちる。
心のままに生きることは悪ではないが、ミレーヌ次第であの優れた次期伯爵はバランス感覚を失い、愚かにもなってしまうのだ。
(ミレーヌお嬢様がどこか名のある貴族に嫁ぐのならば旦那様の方針に背くこともなく、奥様もご納得なさる。なによりお嬢様であれば、お相手の方にもきっと愛されて大切にしてもらえるだろう。クラウド様には恨まれてしまうかもしれないが、あの姉弟は離れる事がお互いのためとなる……)
その日、主人であるアルフォンスへ宛てた報告書にはいつもの屋敷運営だけでなく関係性が変わりつつあるふたりの子供達についてしたためられていた。
※※※
ミレーヌは朝目が覚めたときにはすでにクラウドは出かけた後だと知り、己の昨日の発言を悔やんでいた。
(クラウドが私の部屋に立ち寄らずにお仕事に行くなんて初めてのことだわ。きっと、私が変な言い方をしたから誤解させて怒っているのかもしれない…)
改めて考えれば『触らないで』だなんて、まるで相手を嫌悪しているかのような酷い言葉だ。
クラウドが優しいからと言って、なんでも言っていいわけではない。
親しい間柄こそ思いやりが大切だと言うのにどうして自分はこうも口下手なのかとミレーヌは落ち込み、その日の朝食がほとんど喉を通らなかった。
(私ったら本当に駄目ね。今日、クラウドが帰ってきたらちゃんと謝らなくちゃ)
けれど、クラウドならきっと笑って許してくれるだろうとこの時はまだミレーヌの中にそんな甘えがあった。
「えっ? クラウドは戻ってきていないの?」
翌朝。
メイドとともに支度を整えに来た侍女のアンナにクラウドの所在を聞けば、なんと昨夜は屋敷に戻っていないという。
話をしようと湯浴みの後も待っていたけれど、いつのまにかぐっすりと寝入ってしまっていたのは失敗のようで正解だったのだ。
「昨夜は騎士団の宿舎にお泊まりになると、深夜にご連絡があったそうです」
「まあ…お仕事が忙しいのかしら?」
なにせクラウドが突然外泊するなど初めての事だ。
いつもなら遠征や訓練で家を空けることがあれば、それは何週間も前からミレーヌに知らされて、クラウドが不在時でも恙無く過ごせるよう徹底的に対応を整えられた上、離れる分の時間を貯め置くようにいつも以上に甘えてくるのだ。
(それが出来ないほどの急務。きっと昨日の朝もそれで慌ただしく家を出ることになってしまったのね)
侍女はミレーヌの疑問に曖昧に微笑むだけで答えてはくれなかったが、きっとそうなのだろうとミレーヌはひとり納得した。
「騎士のお仕事は体力勝負と聞くけれど、本当に大変なのね。クラウドの身体が心配だわ」
「ええ、まあ、そうですね……。それよりミレーヌお嬢様、本日はお天気もよろしいですからテラスで朝食を召し上がってはいかがですか?きっと清々しい一日の始まりになりますよ」
「あら、確かにとても良いお天気ね。そうね。では、そうしてくれる?」
「はい。喜んで」
侍女が歯切れ悪く返事をしながらも話題を逸らしたことに気付かず、ミレーヌは侍女の提案に素直に頷いた。
そしていつもより少し豪華でミレーヌの好物が並んだ朝食に瞳を輝かせるころには頭の中からクラウドの事がスッポリと抜け落ち、午後は侍女のオススメだという新進気鋭の作家によるロマンス小説(全五巻)を半ば押しつけられる様にゴリ推しされた。
所謂ボーイズラブ要素を含むあらすじに当初は気乗りしなかったミレーヌだったが、読み始めてみるとこれがなかなかどうして面白い。
結局、夜中までどっぷりと本の世界にのめり込んで気付けばベッドの上で四巻目の数頁を開いたまま一日を終えていた。
※※※
ミレーヌ付きの侍女アンナはクラウドが自宅に寄り付かなくなった理由を察していた。
一昨日の夜、屋敷の一部の使用人の間で緊急会議が設けられていたのだ。
「皆に集まってもらったのは他でもない。クラウド様がとうとう限界を迎えられようとしている件についてだ」
重々しく口を開いたのは家令のディエゴである。
ここは屋敷の奥にある使用人用の会議室。普段は使用人の休憩や朝礼などにも使用される部屋である。
比較的広く簡素なその部屋の奥から家令のディエゴを中心に主にミレーヌやクラウドの側に侍ることの多い侍女や侍従、メイドの厳選された数名が輪になる様に顔を突き合わせていた。
ディエゴの言葉に、皆が「承知している」とばかりに頷いて続きを促した。
「今はまだクラウド様は自制のため自ら屋敷を離れるだけの理性が残っておられるようだが、いつそれが反故されるかはわからない。ミレーヌお嬢様をお守りする為にも御二方を近づけてはならん。アンナ、ミレーヌお嬢様の様子はどうだ」
「はい。お嬢様はまだ何も気付いておりません。何度かクラウド様のご様子を気に掛ける御言葉がありましたが、その都度気を逸らせております」
「そうか、その調子で頼む。クラウド様が正気を取り戻されるまでは、決してコンタクトを取らせてはならない」
「ですが、間もなく手持ちの札が切れます」
「なんだと?」
「ミレーヌお嬢様にお渡ししました新ジャンルのロマンス小説が全五巻なのですが、本日全て読み終わりました。今は余韻に浸られておりますが明日には現実に戻られるかと」
「く…っ!他にないのか!?」
「何しろボーイズラブはまだ書き手が少ないのです。あとはもう屋敷内の書籍に詳しい者からのオススメですと、マニアックなヤンデレや身内モノとか…モロにクラウド様的なアレです」
「な!!そんなものはダメに決まっているだろう!」
「ですよね。後からわかった事ですが、情報元である者がクラウド様推しだと聞いた時点でちょっともう無いなと思っています」
そう語るアンナの目は死んでいた。
屋敷随一の読書好きと名高い情報元は本のことになるとお喋りが止まらない。普段は地味な洗濯係だが、ひとたび自身の『推し』について語らせれば相手に相槌の隙すら与えないほどの熱をぶつけてくるのだ。
ミレーヌのためとはいえロマンス小説に興味のないアンナとしてはそのやり取りで相当精魂尽き果てたのがよくわかる。
そこに、話を黙って聞いていた若い侍従が遠慮がちに右手を顔の横に上げた。
「あのー…ちょっと良いですか?」
出席者全員の視線が侍従に集まる。
ディエゴが促すように頷いたのを確認すると、侍従は再び口を開いた。
「ミレーヌお嬢様がクラウド様に近付かないければいいのなら、そのクラウド様が居ない今、そんなに躍起になることはないのではないですか?」
クラウドから接触してこなければ、ミレーヌはこの屋敷で穏やかに過ごすだけだ。今まで通り本を読み、花を愛で、たまに友人の令嬢とお茶を楽しむ。
侍従から見たミレーヌはまさに深窓の令嬢。
あの日、この侍従もミレーヌから初めて明確な拒否をされたクラウドを目の当たりにしているため、その時の様子を思い返せば再び背筋を凍らせるが、それはクラウド側のこと。
改めるべきはクラウドであり、まるでミレーヌの行動を制限するような話し合いには疑問を感じてしまう。
「お前は、ミレーヌお嬢様をわかっていない…」
ディエゴが重い溜息とともに、緩く首を振りながらそう溢した。
「これまでのお嬢様は、クラウド様が居たからこそ行動が制限されていたのだ。そのクラウド様がお側に居ない今、お嬢様は水を得た魚。それはそれで何をなさるかわからない」
「え? まさか、ミレーヌお嬢様が…」
「幼い頃は跳ねっ返りで、好奇心旺盛、思い立ったら即行動。目を離せばフラリと何処かへ消えてしまい、使用人が大騒ぎして捜索するのは日常茶飯事だったのだ。いつの間にか帰ってきていて素知らぬ顔で部屋にいたりする分にはまだ良い。庭の木の上で寝ているところを発見した際にはどれだけ肝を冷やしたことか。クラウド様と交流を持つようになり落ち着かれたが、当時のお嬢様は伯爵家の風来坊と呼ばれていたのだぞ」
「そ、そんなゴロツキみたいな二つ名を……」
「いいか、お前たち。絶対に気を抜くな。料理長にはミレーヌお嬢様の好物を毎食出すように伝えろ! メイドは部屋に季節の花々を絶やさず、お入れするお茶は異国の目新しいものを! アンナはミレーヌお嬢様の動向を逐一把握し、決してクラウド様に近付けるな!」
「「「御意」」」
侍従の戸惑いを残して、ほかの使用人達はすでに一致団結し、勇ましい戦士のような顔でグータッチを交わしている。
ミレーヌの意外な一面といい、比較的雇われて日の浅い侍従は置いてきぼりを喰らった気分になってしまった。
「あの…では、俺はどうしたら…」
「お前は騎士団に行ってクラウド様の動向を把握しろ。すべてはミレーヌお嬢様のためだ。やってくれるな?」
ディエゴの瞳は真剣だった。その深刻さに侍従はゴクリと息を呑み込んだ。
ミレーヌのためだと言われれば、侍従も頷かざるを得ない。勤め始めて慣れない頃に失敗を重ねても笑顔で許してくれた心優しいお嬢様は、侍従にとっては風来坊ではなく高嶺の花。憧れでもあった。
貴族でありながら使用人を見下すようなことは決してしない。見た目も心もこんなに綺麗な人がいるのかと胸が熱くなった日を思い出す。
「…お任せください、俺は必ずお嬢様のお役に立ってみせます」
クラウドの恐ろしさは垣間見た程度でも震えててしまうほどであったが、ミレーヌが心穏やかに過ごす為に必要ならばと侍従も覚悟を決めた。
その夜、仲間たちはお互いの健闘を祈り杯を掲げたが、後日予想を上回るミレーヌの猪突猛進ぶりに翻弄されることとなる。