(9)『恋と小姑』
「ただいま、ミレーヌ」
クラウドは屋敷に戻ると着替えもせずにミレーヌの部屋に直行し、その扉をノックして顔を覗かせた。
ミレーヌはソファに座り、丁度手元の本をパタリと閉じたところだった。
「おかえりなさい。今、貴方が帰ってきたと聞いたから出迎えようと思ったのに」
家で仕事もせず食っちゃ寝している身としては、たまには労働後の疲れた義弟をエントランスで迎えて労いたいが、クラウドが瞬間移動かと思うほどミレーヌの部屋を訪れるのが早く、実際には一度も出迎えられた事がない。
「そんな事は気にしなくていいよ。それよりミレーヌ、ハグさせて」
今日もダメだった…と、少ししょんぼりしたミレーヌの隣にはいつの間にかクラウドが座り、彼女が返事をする前にその腕は伸びてきていた。
囲い込むように背中に回された手は、ゆっくりとミレーヌを抱きしめる。
クラウドは腕の中の華奢な身体と温かな体温に安堵するように長く息を吐いた。
「はぁ、癒される……」
「お仕事、大変なの?」
「仕事というか、まあ、色々ね」
(色々?)
言葉を濁されミレーヌは首を傾げたくなるけれど、珍しく疲れた様子を見せるクラウドにあまり質問を重ねたくはない。
ミレーヌは甘えてくる義弟の背中を撫でようと自身の手も回そうとしたとき、ふと脳裏にアリアナの顔が横切った。
(しまった…! 私ったら、ついいつもの調子で受け入れてしまったわ!)
「クラウド、そろそろ離れて?」
「着替えてなくてごめん」
「いえ、そうではなくて」
ミレーヌがクラウドの硬い胸を押してピッタリとくっ付いていた距離を離すと、クラウドは眉を寄せて「まだ足りないんだけど」と不満げな声を上げる。
ミレーヌは幼子に言い聞かせるようにそんなクラウドの目を見つめて言った。
「クラウド、結婚を控えているなら気を付けないと」
「気を付ける?」
「家族といえど必要以上に長いハグは過度な接触に当たるんですって。以前、ナッちゃんが言っていたの」
「……あの人は本当に余計な事を…」
クラウドは一瞬だけ苦虫を噛み潰したような顔をしたが、すぐにニコリと笑顔を浮かべる。
「これがナタリア嬢の言う過度な接触だとして、何がいけないのかな? これまでだって、ミレーヌを抱きしめるくらいはしてきたよね」
「そうね。でも、これまでとこれからは違うわ。貴方、結婚するつもりなのでしょう?」
「するよ。絶対する。……つまり、結婚するまで俺に禁欲しろと?」
「禁欲? それはよくわからないけれど、適度な距離感は必要だってナッちゃんが」
「無理だね」
クラウドは珍しくミレーヌの言葉に被せて拒否を示した。
いつもならミレーヌのいうことには『是』のみのクラウドであるが、自分の利益が損なわれる場合は別である。それに先程から出てくるナタリアの名前に苛立ちを覚え始めていた。
ミレーヌと距離を置かせたはずの相手だが、いまだにその影響力は大きく何かにつけてミレーヌはナタリアの事を話題に上げる。
ミレーヌのただの学友としては都合がよかったために目溢ししてきたが、これほど邪魔な存在になるとは想定外だった。
クラウドはジワリと広がる心の淀みを笑顔の奥に隠して、ミレーヌを諭すように穏やかな声音で語りかけた。
「今更距離感などと言われても、これまでだって俺は貴女にほとんど触れていないのだからこれ以上減らしようがないよ。それに、ナタリア嬢が言っているのは一般論で、俺たちには当てはまらないんじゃないかな」
ミレーヌはクラウドの言っている意味が計れず首を傾げた。その仕草にクラウドは小さく笑う。
「俺はミレーヌを愛しているし、ミレーヌも俺を愛しているでしょう?」
「そうね?」
「それなら、何も間違っていないから気にする事はない」
そうなのだろうか、と、ミレーヌは考えた。
確かに、これまで自己保身のためにクラウドに構ってきたがそこに愛情がなかったわけじゃない。
幼い頃からずっと一緒で、両親よりもそばに居た時間は長く、かけがえのない存在であることは確かなのだ。
離れて暮らしていた実兄のアルムートを抱きしめたいとは全く思わないが、義弟のクラウドに抱きしめられることに嫌悪感はない。むしろ抱きしめられればミレーヌも抱きしめ返すし、体温を感じれば安心もする。
それはクラウドが守るべき対象である弟だから、姉であるなら当然の感情だと思っていた。
だからこそ、その居心地の良さに慣れてしまい、今まさに弟離れに苦労しているのだが。
(ひとりぼっちだったクラウドのそばにずっと居たのは私だわ。特別距離が近いのは環境がそうさせていたからだとしても、私たちの『当たり前』をアリアナ様は理解してくれるのかしら……)
ミレーヌは、数日前のアリアナとの秘密のお茶会を思い出していた。
香り高いハーブティーに頬を緩める可愛らしい表情は、咲き誇る庭園の花よりもミレーヌの心を存分に癒してくれた。
ふたりで話をしたことで夜会の時よりもずっとアリアナに親近感を持ったし、『ミレーヌお姉様』と呼ばれて胸がキュンキュンした。
義姉として、今度は未来の可愛い義妹を守ってあげなくてはいう使命感まで抱いてしまうほど、アリアナは理想的な弟の結婚相手だとも思えた。
それならば、アリアナの悲しむ姿は見たくない。
ミレーヌは本の中でしか恋を知らないけれど、最近の愛読書である『恋と小姑 第二巻(絶賛続刊中)』の中でヒロインは、小姑である義姉に激しく嫉妬し、苦しんでいる。
それは小姑が事あるごとに『弟は私の家族であり、恋人なの』などと宣い、わざと過度な触れ合いを見せつけるような行いをするためだ。
ミレーヌは最初は他人事のように『なんて嫌な姉なのかしら!』と本を読みながら憤っていたが、アリアナと仲良くなって以降、時折(あら? このシーン…既視感があるわ…)と、小姑と重なる自分がいる事に薄々気付き始めていた。
必要以上に長い抱擁も(クラウドからのアクションだとしても)、弟の日々の行動を把握していることも(クラウドが全て報告してくるからだとしても)、弟の交際事情に煩く口を出していることも(だってシスコンだって言われてモテないから心配だったんだもの!)、すべて被る。あの嫌な小姑と同じだ。
今や『恋と小姑』はヒロインを応援するという目線ではなく、小姑がどう更生するかに注目し、できれば小姑にも素敵な王子様が現れて幸せになってほしいという別角度でハラハラしながら読み進めている。
そのため、いつものミレーヌなら『クラウドがそう言うのなら、そうよね』と納得して話を終わらせるのだが、今回は違った。
自分の頬を撫でるクラウドの指先をそっと外して、悪戯をする子供を「め!」と叱るように少しだけ眉を寄せる。
「クラウド、ダメよ。お姉ちゃんの言う事が聞けないの?」
「……突然どうしたの、ミレーヌ」
「触らないでと言っているの」
クラウドが目を見開いて固まった。
あまりの衝撃にミレーヌの言葉が脳内で処理できないのか「さ……?」と、一言だけ呟いてその機能を全て停止させている。
(あら? 私、何か言葉が足りなかったかしら?)
壊れた機械のように動かなくなった義弟の様子に慌てたミレーヌは「いえ、あの、違うのよ? ああ、言いすぎたわ、ごめんなさい。つまり、過度には触れないでと言いたかっただけなのよ」と、なんのフォローにもならないフォローを付け加えたがそれすら既にクラウドの耳に入る余地はない。
クラウドは無言でそっとミレーヌから距離を取り、この世の終わりのようにソファの上でがくりと項垂るとその全身から禍々しい空気を放ち始めた。
「なぜ、こうなった……? 何がいけないんだ? 誰を消せばいい…?」
なにやら恐ろしい言葉がポツリポツリと聞こえてきたが、気のせいだろうか。
「ク、クラウド…? 大丈夫?」
ミレーヌがオロオロしながら様子のおかしい義弟に声をかけると、しばらく間を置いて、クラウドは喉の奥の方から普段の数倍低く掠れた声で「……ああ」と返事をした。
それにホッと息を吐いたミレーヌだが、いつの間にか背後に控えていたはずの家令のディエゴがソファの側に立っており「お嬢様、御避難を」と青白い顔をして部屋を出るよう促してくる。
「ディエゴ、どうしたの? 何かあったの?」
「何かある前に、御避難を。……今夜はもうお部屋からお出になりませんよう、すぐにお休みください」
「でもまだ夕食が」
「お部屋にお運びします」
「でもクラウドが」
チラリと隣の義弟を見れば、無言で項垂れたまま片手で顔を半分覆い、もう片手はまるで『行け』と言うようにミレーヌへ向けて数度手を払う仕草を見せてくる。
(まあっ! 私に出ていけと? ひどいわ…)
見たこともない義弟の粗雑な態度にミレーヌも少なからずショックを受けたが、戸惑いの方が大きかったため何も言葉にする事ができずディエゴに追い立てられるようにその場を侍女と後にした。
蜜蝋に照らされた薄暗い廊下を足早に先導する侍女について歩きながら、ミレーヌは先ほどの義弟の様子を思い浮かべる。
クラウドとはナタリアの夜会の時に一度言い争った事もあるが、たとえ怒っていても、どんな時でもクラウドはミレーヌの側を離れなかった。
あんな風に邪魔扱いされた事など初めてだ。
「ねぇ、アンナ。私、クラウドを怒らせてしまったのかしら?」
しゅんと眉を下げて、前を行く侍女の背中に縋るようにそう問えば
「いいえ、お嬢様。クラウド様はお疲れなだけでございます」
と、優しいフォローが返ってくる。
これが忖度ありきの会話だとしても、落ち込んでしまいそうなミレーヌにとっては有難い。
調子に乗って更に話しかけた。
「そうかしら。また明日になれば大丈夫かしら? それとも後で、食事の際にもう一度ちゃんとお話を」
「いいえ、お嬢様。本日は二度とお部屋からお出になりませんようにディエゴ様から言い付かっておりますのでお食事もお部屋でお取りください」
「え? どうして? 食事はいつもクラウドと」
「いけませんお嬢様!! お嫁にいけなくなってもいいんですか!!!」
「ひぇ!!」
グルリと振り返った侍女の目は血走っていた。
その鬼の形相にミレーヌはビクリと身体を硬くさせ足を止めたが、それを侍女は許す事なく「歩いてください! いやむしろ走ってくださいませ!」とミレーヌの手を引き、先ほどよりも足早に廊下を進み始めた。
一体、何から逃げているのか。
挙げ句の果てには後ろを気にしてチラリを視線を向けようとしただけで「そこ振り向かない!!!」とタメ口で怒られた。
ミレーヌはひとり事態が飲み込めず、頭上に盛大にはてなマークを浮かび上がらせながら強制的に部屋へと送り込まれたのだった。
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