99.リーゼロッテは忠告される
晩の祈りを終えたリーゼロッテは、自室で机に向かっていた。
金の羽ペンを手にしてはいるものの、羊皮紙にはなにも書かれていない。
書いた本人と送り先の相手にしか見えない代物ではあるが、先ほどからずっと一文字も書かれていない。
羽ペンを構えては思いとどまる。
あれこれと思いを巡らせるがどれもユリウスへの手紙に書くには重々しい内容になってしまう、とリーゼロッテはペンを置いた。
集中などできるはずがない。
聖女と神の真実に、テオの暗躍、それにフリッツの求婚──。
ここ最近、怒涛のように押し寄せた問題が彼女の頭をもたげていた。
(マリー様……大丈夫かしら……?)
テオの話からも、聖女と聖女付きの関係はそこまで特別なものではないことがわかる。
聖女付きは聖女を王家の利益のために利用している。
その見返りに聖女に尽くしているだけだ。
だからこそ、今まで成り立ってきた関係なのだろう。
しかしマリーとフリッツの関係はさらにマリーの服従が加わっているように見える。
聖殿に拘束され、意思など関係なく王族に束縛される──明らかにマリーの不利益が大きい。
(テオ様の策が婚儀までに間に合えばいいのですが……)
リーゼロッテはテオの言葉を思い出す。
『君が……君たちが手放せないものを、僕は手放す。ただそれだけの話だよ』
テオの言いたいことが何なのかはよく分からない。
ただ、何かを含ませた言い方だった。
(君……ってことは私……私と誰か、複数の人たちが手放せないものを、テオ様は手放すために聖女を解放する……?)
リーゼロッテは彼と顔見知りで、自分と共通項のある人物を挙げてみる。
しかしそのどれもしっくりこない。
(あとは……ユリウス様……でも……)
一番当てはまりそうな人物を想い、目を伏せた。
ユリウスと自分が手放せないものは互いに相手だ。
聖女の解放でマリーがフリッツからも解放されることも合わせると、この関係が一番考えられる。
ただ、そうなると──。
(テオ様はマリー様のことを想っていらっしゃるのに……それを手放す……と?)
悲しい結末を想像し首を振った。
マリーには幸せになってもらいたい。
どうにかしてテオに考え直してもらえはしまいか。
「……リーゼ、まだ寝てなかったのかい?」
「デボラさん……」
悶々と考えていたリーゼロッテの背後に、いつの間にかデボラが立っていた。
「明日も早いんだし、早く寝たほうがいいよ」
デボラは目配せするように窓を見る。
祈りの間を出た時には低い位置にいた月が、大分と高く上っている。
どうやらユリウスへの手紙を書こうとして随分考え込んでしまっていたようだ。
その間、デボラはエルの部屋で片付けをしていたらしい。
エプロンの裾についた汚れを見つめながら、リーゼロッテは呟くように聞いた。
「あ、あの……エル様はまだ起きていらっしゃいましたか?」
「うん? ああ、あの方はまだ起きてるとは思うけど……何か用かい?」
「少し……お話ができたらと思いまして」
(もしかしたら……マリー様やテオ様の助けになるかもしれません)
何を考えているか分からないテオだが、聖女についての知識は多い。
その彼が手放すしかないと考えているのならば、思い直してもらうにもまた、聖女についての理解がなければならない。
本人に聞くのも考えたが、あれ以上は教えてくれそうにないだろう。
彼女の深い碧玉の瞳に、何かを感じ取ったデボラは頷いた。
「そうかい。分かった。ちょっと聞いてみるよ」
「連れてきたよ」
デボラが部屋を出てすぐ、エルを連れ立って帰ってきた。
部屋が隣なのもあってこういった伝達はスムーズだ。
リーゼロッテから出向くつもりだったが、デボラがそこは断固拒否した。
夜に聖殿内とはいえ出歩くのは危険だということと、エルの部屋が人を招けるような状態とはお世辞にも言えないからだと言う。
多少ぎこちなくも頷いた彼女に、デボラは内心ため息をついた。
フリッツが妙な動きをしているのは分かっている。
テオにもそれは報告済みだ。
とはいえあまり隙を見せない方がいい。
実際手出しをされたわけでもない状況で、リーゼロッテの不安を過度に煽るのも考えものだった。
「すみません、夜分に……」
「よいよい。どうせ妾も暇してたからの。で……何の用じゃ?」
エルを招き入れたリーゼロッテは、何から話をしようかと思考を巡らせた。
ローテーブルを挟み、ソファに腰掛けたエルは妖艶な笑みを浮かべている。
どこからでもなんでも聞いてくれというような、余裕の笑みだ。
「あの……エル様は聖女の魔力についてもお詳しいのでしょうか?」
「実のところ、あまり詳しくはない。それなりに研究はしておるが、この国では聖女は聖殿に囲われて市井に下ることが滅多にないからの。実物を見たのもリーゼロッテが初めてじゃ」
「そうなのですか……」
彼女の落胆ぶりに苦笑しながら、エルは口を開いた。
「じゃがいくつかの仮説くらいなら立てられよう」
「仮説、ですか……?」
「うむ。これまでの伝説や伝え聞いた話、そしてあの王子様がいくつか本を見せてくれたからの。と言っても殆どが癒しの聖女についてのものだったが」
エルはそう言うと、懐から取り出した扇子をテーブルの中程に突き立てる。
「生きとし生けるものは皆大小少なからず魔力を有する。魔力は生命……主に魂に宿り、その影響で身体、血肉に微量ながら流れるのは、お主も知っておろう?」
「は、はい」
「よろしい」
テーブルに図を描くように扇子を動かす。
その流れる様な動きを目で追いながら、リーゼロッテは頷いた。
「聖女の魔力の影響や発動する状況を考えるに、おそらく体系的には魔法ではない。どちらかと言うと呪術に近いものじゃ」
「そうなのですか?」
「二つとも魔力を使うことは共通しておるがの。魔法が自然にある要素や元素を魔力量に応じて引き出すのに対し、呪術は自身の感情や魔力を対象の魔力や身体、そして感情に干渉させる」
そのあたりはリーゼロッテも知っている。
地水火風の四大元素やその他微細な要素を利用する魔法の方が、その時々の感情を消費する呪術よりも精神的な負担が少ない。
呪術師の適性を持つ者が呪術師にならず、魔道士になることが多いのはそういった理由もあった。
エルは扇子を手の内で弄ぶと、話を続けた。
「身体、特に傷に特化して干渉する癒しの魔力は、自然にある要素元素を使っているとは考えにくい。おそらく、ヒト……生物全般が備え持つ自己治癒能力に干渉しているのではなかろうか」
「となると、私の魔力も……」
「同じと考えて良いじゃろう。ユリウスが自身にかけていた少年化の呪いもまた、厳密に言えば魔法ではなく呪術じゃな。だからこそ妾が直々に研きゅ……診察し、お主の暴走した魔力とでも親和性を見せた。ま、これはユリウスの魔力操作の力も多少はあるじゃろうが」
エルの揶揄うような視線に、ユリウスの口付けを思い出してしまったリーゼロッテは頬を染めた。
すまぬ、と苦笑気味に謝るエルは神妙な顔を作った。
「しかし対象は限定的、それなりに制約はある」
「制約……たとえば、死人には使えない、とかいったものでしょうか?」
リーゼロッテは両親、そしてコルドゥラの最期を思い返す。
エルの言う通りならば、魂の抜けた身体には聖女の魔力は作用しない。
微量に宿った魔力のおかげで身体の傷は無くなるだろうが、失った魂は戻ってこない。
美しい曲線を描くリーゼロッテの眉が悲しみで歪む。
それを知ってか知らずか、エルは頷くと扇子を開き口元を隠した。
「それもあるがの。妾が思うに、世界全体の時の操作は難しいのではなかろうか」
「世界……でございますか……?」
「まぁつまり、歴史の改変など大きなことは望めぬということじゃ。妾がもし国王ならば時の魔力で過去の戦争を回避、または災害が起きぬよう事前準備するじゃろ。争いや災いが無い方が、この国にとっては都合がいいからの」
扇子越しにもエルが艶やかな笑みを浮かべているのが分かる。
「ところがそれが行われた形跡はない。まぁあったところで確認のしようもない。それに世界全体を過去へと戻したところで現在の記憶を保持できているかも怪しい。いずれにせよお主はどんなことがあっても歴史……過去あったことに対して干渉してはならぬ。現在のお主が揺らぐ可能性があるからの」
あまりに途方もない話の大きさに、リーゼロッテは呆けた。
彼女にはそこまで大きな力を使っているつもりはない。
もちろん、他から比べれば希少な力であり、やっと扱えるようになってきたもののそれだけだ。
しかしテオといいエルといい、神や世界といった大きな単語を出してきている。
少し前まで普通の貴族の娘だった彼女には、スケールが大きすぎて話についていくのがやっとだ。
「わ、分かりました……」
「うむ、よろしい」
満足げに頷いたエルに、リーゼロッテは気後れしながらもふと浮かんだ疑問を口にする。
「あの、過去、かどうかは分からないのですが……お屋敷で働き始めた頃、レシピノートに触れたらユリウス様のお母様が現れたことがございまして……もしかして私、無意識に歴史に介入してしまったのでしょうか……?」
あの時は幽霊か何かだと思っていたが、まだ時の魔力を操るどころか正確に自覚すらできてなかった時期だ。
直後に暴走させたこともある。
不安そうに見つめる彼女に、エルは考え込むように視線を巡らせ、扇子を仰いだ。
「…………物の持つ記憶にも干渉する……いや、書いた者の微量の魔力がノートに残っていた……何とも言えぬが、その辺りじゃろうな。検証もしてみたいがいやはや……」
独り言のような呟きに、リーゼロッテは胸を撫で下ろす。
エルから聖女の魔力についての質問が飛び、それに答え、と幾度か繰り返した後。
「リーゼロッテ」
もうそろそろお開き、とばかりに席を立ったエルに声をかけられた。
その声はいつもの艶っぽいものではなく、一呪術師としてのものが含まれているように思えたリーゼロッテは居住まいを正す。
「その力はお主が思っている以上に強大で、ヒトの本分を超える能力じゃ。使うなとは申さぬ。じゃが、使い所を間違えぬよう心せよ」
「は、はい………」
顔を覗き込むように放たれた言葉は想像以上に強く、リーゼロッテは自分の身に余る力を自覚せざるを得なかった。
一方その頃。
騎士団の牢獄の中から、上りきった月を見上げる瞳があった。
粗末な上掛けに敷いている意味がないくらい薄い布切れしかない小部屋──独房だ。
その上方に鉄格子の嵌った小さな通気口があり、ちょうど月がはまり込んだように浮かんでいる。
恐ろしく美しいが、鉄格子の無機質な線が入り、小さな籠の中に捕らえられた虫のようにも見えた。
囚人は壁に背を預けたまま動かない。
首に繋がれた鎖は、囚人の細い身体には不相応なほど太く、重々しい。
「やあ、ご苦労様」
「はっ」
不意に聞こえた暢気な声に、囚人は微かに眉を動かした。
また見物客、煩わしい。
そうひとりごちると、膝を抱えて小さく見せる。
客は全てを諦め、堂々としている囚人より、悲しみに打ちひしがれた演技をする囚人を好んだ。
望まれたように演じれば、客は満足して早く帰る。
今聞こえた男の声はいつもの客ではなかったが、どこか楽しむような声色から演技をすることを選んだ。
「ここはいいよ。君らは休憩してきなさい」
「で、ですが……」
「大丈夫だよ。僕はこう見えて剣術も魔法も長けている。鎖で繋がれた囚人なんかに傷つけられるわけがないさ」
面会に立ち会う騎士すら必要ないと言う声に、囚人は鼻で笑った。
今日の客は随分と自信家らしい。
「……それではお言葉に甘えて」
「はいはい」
呆れ返った騎士が去る気配と入れ違いに、男が入ってきた。
ややだらしなく伸びっぱなしの燃えるような赤髪に、軽薄そうな笑み。
身分を隠すような怪しい黒いマント姿の男は、囚人の前まで来ると顔を覗き込んだ。
その胡散臭い笑みに囚人は顔を顰める。
「さて……と」
不愉快そうに表情を歪めた囚人に満足したのか、男は小さく礼をした。
「はじめまして。僕はテオドール。僕の弟が世話になったね……ディートリンデさん」
張り付いたような完璧な笑みに、この男は好きになれないと囚人──ディートリンデは直感的に思った。




