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98.聖女は王子を想う

 マリーは聖殿の回廊を物憂げに歩んでいた。


 足取りは重く、時折差す日差しすら目に入らないのか瞬きすらしない。


 背後には神官が一人付き従い、まるでそれが重い足枷のように感じられる。


 彼女は昔から悩み事があると回廊をぐるぐると渡り歩く癖があった。


 悩みの種は大抵は聖女としての自分の不甲斐なさであったり、縁を断ち切られてしまった故郷の両親のことだ。


 彼女がぐるりと回廊を巡っていると、よくテオと出くわしたものだ。


 彼は偶然だと言っていたが、後々考えてみれば、男子禁制の聖殿の回廊を彼がのんびり散歩するわけがない。


 わざわざ会いにきてくれていたのだ、と気づいた時にはもう彼のことしか考えられないほどに惹かれていた。


 その歳の差は七つほど。


 彼が自分のことを、幼くして聖女と祭り上げられた幼な子として、同情心から気遣ってくれていることも知っていた。


 そして聖女と王族は交わってはいけないことも。


 マリーは回廊を進む。


 何度忘れようとしても消えなかった。


 だからこそ、聖女としてそばに居られればそれでいいと想いを閉じ込めた。


(……なのに……)


 マリーは腹部に触れる。


 フリッツからの求婚を受けざるを得ない自分が悔しい。


 キリキリと痛む胃が食事を拒み、桃色の頬が血色の悪い青白さを強めている。


 フリッツに対しては感謝はある。


 聖女付きとして付いてくれなかったら、切り抜けられなかった場面が何度かあるからだ。


 しかしそれだけだ。


 これだけ一緒にいても、彼に対して特別な感情は生まれなかった。


 だが、フリッツはマリーに固執して離さない。


 時に彼女が恐怖を覚えるほどの執着を見せてくる。


 そしてそれが、近頃歯止めが効かなくなってきているように思えて、フリッツが来る時間はこうしてぐるぐると回廊を彷徨うようになった。


(……創環の儀の時から……いえ、その前からおかしかったけど……フリッツ様は変わった気がする)


 ぼんやりと考え事をしながら角を曲がる。


 どん、と何かにぶつかり、彼女はよろめいた。


 しかし倒れ込むことはなく、その細い腕をしっかりと掴む手があった──テオだ。


「おっと、これはマリー様……失礼いたしました。お怪我はありませんか?」


 不意に聞こえたテオの声に、マリーは血色の悪い頬を微かに染めた。


「だ、大丈夫……です……こちらこそ、申し訳ございません」


 謝るマリーを覗き込むように、微笑む彼の笑みは完璧だ。


 完璧に彼の本心を覆い隠し、見る者によっては彼を滅多に怒らない人格者だと評価する者もいるだろう。


 しかし、マリーにはその笑顔が寂しそうに見える。


 いつからか、彼は何か重大な決意を隠すように、この薄く軽い仮面の笑みを皆に見せるようになってしまった。


 そのことにいち早く気づいたマリーだったが、それを指摘してテオの胸に飛び込めるほどの勇気は今も持ち合わせていない。


(……そんなこと言って嫌われたくない……でも……)


 フリッツの笑みが浮かぶ。


 足がすくみかけた彼女はもう一度、頭を下げるとその場を立ち去ろうとした。


(忘れなきゃ……だって私はもう、フリッツ様のものにならなくてはいけないんだから)


 歩みを進めるごとに紅玉の瞳が潤みかけ、せめて部屋までは涙腺を緩めまいと眉をきゅっと寄せる。


(……リーゼロッテ様もこんな思いだったのかしら……)


 不意にもう一人の聖女を思う。


 彼女も想い人との仲を引き裂かれた人間だ。


 しかし今でも彼女は、これから一生会えないであろう想い人との思い出に浸り、懐かしそうに語る。


 むしろ片時も忘れないと、強い意志を持ってここにいるように思えた。


(……忘れなきゃ……いけないの……?)


 ちょうど角に差し掛かった時、マリーは足を止めた。


 これを曲がってしまったらもう戻れない。


 根拠はないがそんな思いに駆られ、彼女は躊躇した。


(……忘れなくてもいいのなら……せめて、あの方の後ろ姿だけでも目に焼き付けておきたい……)


 回廊は長い。


 彼女が角から角に辿り着くまで、早足といえどかなり時間は経っている。


 後ろ姿どころか姿すら見えないかもしれない。


 それでもマリーは振り返った。


 しかし、そこにはしずしずと付いてきた神官の姿以外誰もない。


 もしかしたら居るのではないかと淡い期待を抱いた自分が恥ずかしい。


 諦めて身を翻しかけた──が。


(あれは……?)


 ふと、彼とぶつかった角あたりに小さな赤いシミのようなものが見えた。


 白亜の床に一点の、血にも似た──。


(……もしかしてテオドール様の血……?!)


 マリーは急いで引き返す。


 そこまで強くぶつかった印象はなかったが、何かに引っ掛けて怪我を負わせてしまったのかもしれない。


 しかし、そこに到達する頃にはそれが何なのか分かったマリーは僅かに困惑の表情を見せた。


(……ハンカチ……?)


 血液だと思ったそれは、テオの髪と揃いの色のハンカチだった。


 丁寧に折り畳まれたそれは彼とすれ違う時には無かったものだ。


 色といい、彼が落としたものだろうか。


(あとで届けてもらうよう、神官に頼んでおかなければ……)


 マリーはハンカチを躊躇いがちに拾う。


 と、かさり、と微かな音を立てて何かが落ちる。


(……紙……何か書いて……)


 ひらりと落ちたそれも拾い上げようと、身を屈めた彼女の目が大きく見開かれた。


 紙切れを持った彼女の手が微かに震える。


 信じられない、と声に出しかけ、慌てて口を塞いだ。


(どうして……テオドール様……どうして私など気にかけて……)


 つい先ほどまで暗澹たる思いに囚われていたはずが、一気に視界が開ける思いがした。


「……マリー様、如何されますか?」


 神官の平坦な声が、マリーの意識を戻す。


「……テオドール様のものですね。今からお届けしましょう」


「……承知いたしました」


 決して気取られぬよう努めて冷静に言うと、神官は機械的に頷いた。


 マリーはできるだけ早足でテオの後を追う。


 今から追いかけて間に合うだろうか、と一瞬疑問が湧き上がるが、わざわざこのような仕込みをするくらいだ。


(テオドール様はきっと、待っている)


 確信を持って回廊の角を曲がる。


 ──いた。


 少し離れたところで佇むテオに駆け寄ると、マリーは肩で息をした。


「あ、あの、これ!」


 小走りとテオに話しかける緊張とで、上がった息が弾む。


「お、落とされて、ました」


 ハンカチを差し出すと、テオは微かに微笑んだ。


「ああ、ちょうど探していたんですよ。拾っていただいたのですね。ありがとうございます。マリー様に拾っていただいて()()()()()()


 彼の笑みが深くなる。


 いつもの張り付いたように完璧な笑顔に、マリーは先ほど浮かんだ疑問を口にしかける。


 しかしそれを躱す様にテオは目を瞑った。


「あ、そうそう。フリッツならまだ来ませんよ」


「え……?」


 思いがけない王太子の話題に、マリーは無意識に身構える。


(今聞きたいのはそれじゃないのに……)


 再び俯きかけた彼女の耳元に、テオは身を屈ませる。


「しばらくお散歩を楽しむのもいいかもしれませんね。行ったことのない場所とか、会ったことのない人に会うのもいいのでは?」


 テオの言葉に、マリーは目を見開いた。


(……どこまで……テオドール様は見抜いているの……?)


 半ば呆然とした彼女の反応に、満足したかのように柔らかく笑うと、彼は会釈をして去っていった。


 その背中を見送りつつも、彼女は一旦気を落ち着かせようと深呼吸をする。


(テオドール様はここまでお膳立てをしてくださった……多分、この呪縛を解く最後のチャンス……)


 マリーは息を吐き切ると、顔を上げた。


「……少し、寄りたいところがあります」


「……承知いたしました」


 暗闇の中で見えた一筋の光明をしっかりと掴むために、彼女は一歩踏み出した。

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