96.第四王女は反省した
「な……なぜ……」
唖然としたクリスタは椅子から立ち上がった。
その拍子に椅子が音を立てて倒れたが、そんなことはもうどうでもいい。
取り繕うこともできない妹を見て、テオは呆れたようにため息をついた。
「なんでって……ここは君だけの庭ではないからね。たまたま僕が通りかかっても不思議はないでしょ?」
テオはそう言うと、侍女に目配せをする。
明るい声とは裏腹に、その視線の鋭さに侍女たちは早々に散っていった。
それにしても、と彼は冷や汗を流すクリスタに言い連ねる。
「君は蟻を食す習慣があったのか。それは知らなかった。普段の食事もさぞ苦痛だっただろう。夕食からは虫を出すよう伝えておくよ」
「あ、……お、お待ちください、お兄様……!」
「待たないよ」
刺すような声色に、クリスタは怯んだ。
朗らかな笑みの奥に怒気が込められている。
彼女は怒らせてはいけない人を怒らせてしまったと、今更ながら後悔した。
「君が時の聖女を害そうとしているのは報告に上がってきている。聖女付きとしては見過ごすわけにはいかない」
柔和な表情に反して鋭い声が飛ぶ。
クリスタの顔色はすでに青ざめ、微かに釣り上がった目が弱り果てたように下がりきっている。
そんな彼女に冷たい視線を向けたテオはにこり、と笑った。
「君が蒔いた種だ。分かっているよね?」
「あの……どうかされましたか? テオ様まで……」
テオのあまりの迫力に震え、すっかり縮み上がってしまったクリスタの背後から、リーゼロッテは声をかけた。
その手にティーカップがあるのを確認したテオは、思わずため息をつかずにいられなかった。
「……クリスタ、言ってもいいね?」
「…………」
黙して語らないクリスタを他所に、テオはテーブルの上の茶菓子を手に取ると、蓋を開けるように茶菓子を二つに分けた。
クリームの部分に黒い点が現れる。
リーゼロッテはさらに目を凝らして見たがよく見えない。
「クリスタがお茶菓子に虫を入れていたんだ。はっきりとね。それで食虫の気でもあるのかと思って聞いてたんだけど、それとも……」
テオはその茶菓子をクリスタの眼前に突きつけた。
小さく悲鳴が上がるがそんなのはお構いなしだ。
「……この茶菓子を作った者を貶めようとしたのかな?」
「そ……それは……」
「念のため聞くけど、これを作ったのは誰だい?」
あくまでも表情は相変わらずの笑みのまま、彼はクリスタに訪ねる。
クリスタの真っ青な顔色に気づいたリーゼロッテは、二人の間に何が起こっているのか分かった気がした。
デボラには口止めしたが、どこかから噂が流れてしまったのだろうか。
用意周到なテオのことだ。
おそらくクリスタが言い逃れできない状況を狙っていたに違いない。
何も話さないということが無言の肯定だと受け取ったテオは、身を翻そうとした。
「テオさ……テオドール様」
リーゼロッテの呼びかけに、彼は動きを止めた。
クリスタに向けていた笑顔そのままに冷ややかな笑みを向けられ、リーゼロッテは一瞬たじろいだ。
しかしここで引くわけにはいかない。
(クリスタ様が……)
少し気が強く、才女と呼ばれるほどにしっかりしていても彼女はまだ九歳だ。
兄に叱られすっかりしょげ返ってしまっている彼女が、これ以上自分とのことで責められるのは忍びなかった。
「ここは私にお任せいただけませんか?」
「…………どうしてかな?」
「……私はクリスタ様がそのようなことをされるお方だと思えないからです」
リーゼロッテの返答が面白くなかったのか、テオの眉が跳ね上がる。
「君はクリスタに雑用を押し付けられていたんだろう? この茶会も本来、クリスタの侍女が用意すべきだ。それを全て聖女にさせていたなんて、聖女に対する明らかな侮辱的行為だ」
「そうでしょうか……? 私は、クリスタ様に申しつけられたことは雑用だとは思いません」
全てを知っている様子のテオに、リーゼロッテは首を振った。
意外な人物からの擁護に、クリスタはその青色の瞳をこれでもかというほど見開いている。
「クリスタ様はご存知ないかと思いますが、辺境伯の元で奉公人をしておりました。その頃のことを思い出して……とてもいい息抜きをさせていただいていると思っています。侮辱だなんて、とんでもございません」
懐かしむような彼女の瞳を、テオは黙って見つめた。
「それに……クリスタ様は結果を出せば認めてくださいます。そちらの茶菓子もそうです。そのような正直な方が、一旦お認めになったものを台無しにされるような行為を果たしてするでしょうか?」
「……リーゼロッテ様……」
クリスタの瞳が潤んだように煌めきかけ、彼女は慌てて下を向いた。
そんな彼女の様子を横目で見ていたテオは、仕方がないか、と口の中で呟く。
「……分かったよ。君がそう言うなら聖女付きの僕は引き下がるしかないね」
ほっと息をついき顔を綻ばせたリーゼロッテに、テオはいつもの呆れたような笑みを向けた。
そこには冷えた視線などとうになかった。
「クリスタ」
背を向けたテオは、俯いたままの彼女を呼んだ。
無理やり厳しさを含ませた声は思いの外強く、クリスタの方が微かに揺れる。
「聖女の御慈悲に感謝を」
不出来な妹を慰めるように言うと、テオは後ろ手を振って去っていった。
その背が見えなくなった頃、リーゼロッテはドレスの端を引っ張られる感覚を覚えた。
「クリスタ様?」
見るとクリスタがちょん、とドレスを摘んでいる。
小柄なリーゼロッテよりもさらに背の低い彼女がすると、まるで年の離れた姉妹のようだ。
「どうして……どうして私なんか庇ったのです……? 私は貴女様にずっと嫌がらせをしていたのですよ……?」
俯き加減にリーゼロッテを見つめた彼女は声を震わせる。
しかし声色に真剣なものを感じ取ったリーゼロッテは、「ひとまず、座りましょう」と彼女を椅子に戻るよう促した。
席についたものの、クリスタは俯いたままだ。
時折、金髪の前髪の奥から青い瞳がじっと伺うようにリーゼロッテを見つめている。
どこから話したらいいものか、と悩んだ挙句、リーゼロッテは口を開いた。
「その……私には双子の姉がおります……今は騎士団に拘束されておりますが……」
「……存じています」
「その姉に、ずっと……お恥ずかしい話、虐げられてきました。姉の罪は私の罪、私の功は姉の功、と言う具合で……辺境伯家にお世話になったのも姉の罪を被ったために……」
「…………」
クリスタは僅かに顔を上げた。
その瞳に微かな驚きと憐れみが混ざる。
それに気づくことなく、リーゼロッテは話を進めた。
「私は姉がずっと恐ろしかったのです。いつどこで、自分にやってもいない罪を背負わせてくるか、分からなかったから」
彼女はそう言うと、困ったように微笑んだ。
姉への恐怖心をこうして語れるようになっただけ、少しは強くなっているのだろうか。
「でも、クリスタ様は違います。怖くない、と言ったら語弊がありますが、クリスタ様は真っ直ぐに私に向かってきてくださいました。だから私も精一杯それに応えることができたと思います」
彼女の真っ直ぐな瞳に、クリスタは戸惑いを隠せない。
クリスタにはリーゼロッテに立ち向かったつもりは全くなかった。
ただ嫌がらせなど生まれてこの方、殆どしたことがない彼女には、ディートリンデのように使用人を使い、周りを味方につけるやり方は思い浮かばなかった。
自らも悪意だと思っていたものを真っ直ぐだと評され、彼女は微妙なしかめ面を作る。
「クリスタ様は正直で素直な方です。だから……テオ様……テオドール様にお伝えした言葉は正直な、私の気持ちです」
口を閉じたリーゼロッテを、いつの間にか顔を上げていたクリスタはまじまじと見つめた。
この国では珍しい黒髪以外は、よくいる貴族令嬢だ。
しかしその容姿に秘められた一見愚鈍とも思える清らかさは、他の令嬢には類を見ない。
やがてクリスタは、諦めたように息を大きく吐いた。
「……負け、ですわ……どうしてお兄様が聖女付きになりたがったのか、分かりましたわ」
クリスタの言葉に、リーゼロッテはどきり、とした。
テオから聖女付きになった理由は聞いている。
その理由を分かったと言うクリスタがまだ、テオ側の人間なのか、それともフリッツ側の人間なのかが判別がつかず、リーゼロッテは口を固く結んだ。
「……私、ご存知かと思いますが養女ですの。元々は王家と遠縁の公爵家の出ですわ」
「はい、存じております」
「養女になったのはちょうど四歳になったばかりで、その頃の私は泣いてばかりでしたわ」
テオやフリッツをはじめ、五人もの子どもに恵まれた国王が新たに養女を取ったのは記憶に新しい。
当時は不遜にも国王の隠し子ではないかと話題になったが、その理由がテオの話を聞いた今なら分かる気がする。
国王はフリッツを廃そうとしたのではなかろうか。
マリーへの執着を廃する理由とするならば、のちに推挙する者が男のテオでは説得力がない。
そのため、公爵家の中から王家の貴色に近い特徴を持つ女性であるクリスタが選ばれたのではないか。
となると彼女がフリッツ側の人間だとは考えにくい。
思案するリーゼロッテを他所に、クリスタは続ける。
「そこを救ってくださったのがお兄様……テオドールお兄様でしたの。お兄様が気にかけてくださらなかったら、本当に私……今も泣いていたかもしれません」
「そうなのですね……」
「それ以来、お兄様のことは何でも知りたいと思うようになりましたの。お兄様は女性だけでなく男性にもお優しいのです。皆に分け隔てなく平等に接し、それをひけらかさない」
頬を少し染め、テオへの想いを語るクリスタに、リーゼロッテも思わず顔が緩む。
「クリスタ様はテオ様のことを愛していらっしゃるのですね」
「ええ、お兄様のためならこの命、投げ打ってでもいいですわ。噂では女好きと言われておりますが、真っ赤な嘘です。お兄様は女性の寝所に潜り込むなどあり得ない……そう思っていたのですが……」
クリスタの声が途切れる。
少し目尻の上がった彼女の視線は、リーゼロッテへと向けられていた。
「……誰にでも平等にお優しいお兄様が、突然聖女付きになりたいとおっしゃられましたの。新しい聖女様は十七歳、伯爵家の御令嬢でいらっしゃるならば、本来付き人など必要ありません」
「……わ、私……です……ね」
たじろいだリーゼロッテに、クリスタは少し頬を膨らませる。
「聖女様がご到着されてから、お兄様は噂など嘘のように聖女付きの仕事をこなされております。毎日聖殿に足繁く通われて……愛称まで呼ばせてまるで恋人同士……」
「え?」
「今まで誰に対しても優しく平等なお兄様が、たった一人、リーゼロッテ様を選んだのです。妬ましい……どうせ私と結ばれることがないなら誰も選ばないで欲しかった……」
「クリスタ様……あ、あの……」
「……ですが、貴女を選んだのも納得ですわ。今までの非礼、お詫びします。申し訳ございませんでした……よく考えたら、聖女と王族の禁じられた恋……素敵ですわ」
「ご、誤解です……! テオ様と私はそんな関係ではなく……その……」
妄想をどんどん膨らませていくクリスタに、リーゼロッテは堪らず声を上げた。
しかしそんな彼女をクリスタは微笑ましく見つめている。
「隠さなくてもいいのです。禁断の恋ほど燃え上がるのは私もよく存じておりますから」
「ち、違うのです! 私……お、お慕いしている方が他にいます……!」
声を振り絞ったリーゼロッテは、言い終わった後しまった、と口を押さえた。
クリスタが心酔するテオの魅力を否定したことになるのでは、それ以前に聖女に聖殿の外に想い人がいると知られるのは不味いのでは、と様々な考えが巡る。
しかしそれを聞き逃さなかったクリスタはそれまでの饒舌が嘘のように固まった。
「……………お兄様、ではなく……?」
呆然と呟いたクリスタに、リーゼロッテは一瞬の逡巡の後、頷いた。
「は……はい……なのでテオ様と私は恋び」
「そうなのですね!」
食い気味に上げられた声に、リーゼロッテは驚いた。
見ればクリスタの突き抜けた空のように青い瞳が、好奇の色でキラキラと輝いている。
その表情は年相応の九歳の少女のものだ。
リーゼロッテは目を丸くしながらも、可愛らしい一面をお持ちなのね、と内心苦笑した。
自らの立場を思い出したのか、クリスタは顔を引き締めるとこほん、と一つ咳払いをした。
「……失礼いたしました。私としたことが……お詫びにリーゼロッテ様のそのお相手のことをお聞かせいただけないでしょうか?」
「え!? で、ですが……」
「……やはりお兄様と……」
言い淀むリーゼロッテに、それまで煌めいていた瞳が急に萎れたように暗くなる。
いつも冷たい印象のある表情がころころと変わり、さすがのリーゼロッテも振り回されつつあった。
「ち、違います……! その……ユリウス・シュヴァルツシルト……様です」
「まぁ………あの辺境伯様……! 素敵ですわ!」
顔を真っ赤にした彼女の告白に、クリスタは手を一つ叩いて嬉しそうに微笑む。
その表情はまるで恋に恋する乙女のようだ。
「は、はい……ユリウス様の元で奉公人をしていたときにテオ様と面識がございまして、それで……」
「……となると聖女付きは……なるほど、そうでございましたか。納得いたしましたわ。改めて非礼をお詫びいたしますわ」
瞳の奥に若干の緊張感が芽生えたのはテオの狙いが何なのか、ある程度想像がついたからだろうか。
得心がいったかのように頷いたクリスタは再び頭を下げた。
「い、いえ、滅相もございません……その……私がユリウス様を……というのは御内密に……」
「ええ。そのつもりですわ。素敵な秘めたる恋ですものね……!」
「え、ええ……まぁ……」
戸惑いながらも同意したリーゼロッテはクリスタの勢いに完全に飲まれていた。
よくよく考えればリーゼロッテもこのくらいの時分には、小説や戯曲などで貴族の身分では早々経験できないだろう恋愛に憧れたものだ。
それでも、クリスタの熱量は当時のものと比べるとはるかに大きいが。
「さ、話の続きを致しましょう。まずはそうですわね、ユリウス様との馴れ初めから詳しくお聞きしたいですわ」
「えっ……あの……クリスタ様……?」
「私この後お稽古事がございますの。早めにお願いいたしますわ」
「え、ええ……?」
一人で話を進めていくクリスタに翻弄されながらも、二人の仲が打ち解けていく喜びをリーゼロッテは感じていた。
デボラは噴水を背に、王女と談笑するリーゼロッテを遠巻きに見つめていた。
不穏な空気を醸していた二人だったが、テオの介入により収まるところに収まったようだ。
(ま、アタシは何もしてないけどね)
澄まし顔で身も蓋もないことを考えていると、不意に後方に何かの気配を感じた。
噴水の音の合間に、雑音のように茂みが不自然に揺れる音が混じる。
様子を伺うような視線はデボラではなく、リーゼロッテとクリスタに向けられている。
「誰だい、そこに居るのは」
微かな敵意と共に、ここ王城で不審な動きを見せ、あまつさえ王女と聖女の茶会を覗くなどロクな人間ではないだろう。
デボラはカトラリーの中から無造作にフォークを取ると、素早く視線の主に投げた。
当たらなくとも多少の牽制にはなるだろう。
「ひっ……!」
デボラの狙い通り、情けない男の声がしたかと思うと、茂みの中から
「だ、誰だ……! わ、私にフォークを投げた者は!?」
と、声の主が飛び出してきた。
その人物に、デボラは一瞬目を見開いた。
「……王太子殿下でございましたか……不審者かと思いとんだご無礼を」
頭を下げながらもフリッツに冷ややかな視線を向ける。
余程慌てたのか、所々葉が付いている。
「……い、いや…………君は聖女……リーゼロッテ様の護衛、かい?」
「いえ。私はしがないメイドでございます」
「……メイドがフォークの投擲を……?」
顔を引きつらせながらも問うフリッツに、デボラは粛々と答える。
「やんごとなきお方のお側でお仕えする身としては、これくらいできて当然でございます」
「……さ、さすが聖女の身を預かる者だ。ご、ご苦労……私はこれで失礼する……」
「王太子殿下」
デボラの気迫に圧されてか、そそくさと退散しようとする彼を呼び止める。
ゆっくりと振り返った彼に、デボラはとびきりにこやかな表情を見せた。
「御供も付けずに陰から様子を伺う程に、リーゼロッテ様に何か御用があったのではございませんか?」
「……た、たまたま通りかかっただけだ! 失礼するっ!」
これ以上この場にいたくないとばかりに足早に去っていくフリッツを一瞥すると、デボラは雲行きの怪しくなりつつある空を見上げた。
(また面倒なことになりそうだね……)




