92.リーゼロッテは迫られる
数日後。
相変わらずクリスタは細々とした雑用を押し付けてきたが、リーゼロッテは全て難なくこなしていた。
彼女が完璧に仕事をこなす度に、クリスタは困惑したように小首を傾げては帰っていく。
(嫌がらせ、とデボラさんはおっしゃられてましたが……)
リーゼロッテは中庭のベンチに腰掛け、息をついた。
ディートリンデから受けた嫌がらせに比べれば、クリスタの頼みは可愛らしいものだ。
『このお茶に合う菓子を作れ』と言われ、焼き菓子を次の茶会に持ち寄ると、クリスタは難しい顔のまま完食していた。
『窓から景色を見たいからピカピカになるまで磨け』と頼まれた時は、水魔法や古紙を使って曇りひとつない窓を披露した。
『内庭にカエルが出た。駆除を願う』と言われて即座にカエルを掴んだ時は、さすがのクリスタも小さく悲鳴を上げていたが。
(幼い頃、よくディートリンデと庭師を驚かせようとカエルを捕まえてたことを思い出しました……そのあと二人でお母様に怒られましたけど……)
苦笑いを浮かべたリーゼロッテは空を見上げた。
心地よい風がリーゼロッテの頬を撫でる。
陽が高く登り、木々の合間から薄浅葱の空が覗いていた。
これまでクリスタの依頼をこなす上で分かったことがいくつかある。
その内のひとつが、クリスタはディートリンデとは違い、むやみやたらにリーゼロッテを否定しないということだ。
結果を出せば褒めはしないものの、その結果を不承不承ながらも受け入れてくれている。
その素直な姿がどこか憎めなくて可愛らしいと感じているリーゼロッテは、クリスタの依頼をむしろ楽しんで引き受けていた。
そろそろ部屋に戻ろうと腰を上げかけたその時だった。
「リーゼロッテ様」
噴水の奥から聞き覚えのある声が聞こえ、彼女は顔を綻ばせる。
視線の先にいるのはマリーだ。
身体を清めたばかりらしく、ほのかに湿ったピンクゴールドの髪が普段より艶めいて見える。
「マリー様、おかえりなさいませ。辺境はいかがでしたか?」
「ええ……その……」
躊躇いがちに顔を覗かせたマリーは言い淀む。
なにやら言いたいことがある様子の彼女をひとまずベンチに座らせると、リーゼロッテは首を傾けた。
「……あの日は申し訳ございませんでした。その、少し、気分が優れなくて」
ようやく口を開いたマリーは勢いよく頭を下げる。
リーゼロッテから表情は見えないが、押し殺したような声色から自責の念に駆られていることが分かる。
「いえ、そんな謝らないでください。私も少し不躾すぎました」
リーゼロッテが首を振ると、マリーもまた同様に首を振り返す。
しばらくそんな問答が続き──。
「……なんだか私たち、テオドール様の言う通り謝ってばかりですね」
「そうですね。似たもの同士なのかもしれません」
苦笑混じりのマリーの言葉に、リーゼロッテは笑いながら同意する。
(よかった……マリー様、お元気そうで)
内心ほっとしつつ、マリーと様々な話をした。
「……リーゼロッテ様は夢、ってありますか?」
ふと、話題が途切れた時、マリーが静かな口調で尋ねてきた。
「夢?」
「将来の夢とかそういうものです」
(夢……聖女としての、でしょうか……?)
リーゼロッテは戸惑った。
聖殿に上がる前ならば、ユリウスとの未来を想像していた。
しかし聖殿に上がって日が浅い彼女には、聖女として何を成すか以前に聖女の勤めも漠然としすぎていて掴みきれていない。
お披露目もまだなリーゼロッテは毎日二回祈る他、クリスタと会う以外はほぼ聖殿の自室でただ無為に時間が過ぎていくのを待っているだけだ。
ここに長居したいとはあまり思えないが、それでも聖女として祭り上げられている以上は何か目標のようなものは必要なのではないか。
ひとしきり考えてはみたものの、夢を設定するにしても判断材料が乏しすぎる。
リーゼロッテは頭を左右に振った。
「……よく分かりません。この力が皆さんの役に立てば、とは思いますが、それ以上具体的なことは考えたこともなくて……マリー様は?」
「私は……最近できたんです」
マリーはそう言うと、自らの手をじっと見つめた。
「……私、亜人さんたちの治療で辺境を回っているじゃないですか。それで色々な方のお話を聞くんです。怪我で苦しんでいる方には悪いけど……こういう……治療して回る仕事っていいなって思って」
「それは素敵ですね」
リーゼロッテの肯定にマリーは照れ臭そうに笑った。
かと思えばすぐにその笑みは消え、曇った表情で虚空を見つめる。
「聖殿にいると一切魔力を使わないですし、祈りがどこまで通じてるのか実感も湧かない……」
「………………」
それはリーゼロッテも薄々感じていたことだ。
聖殿に上がってからというもの、ドレスの染みを消すのに水魔法を使った程度で魔力を一度も使っていない。
朝晩の祈りでさえ魔力を使わないのだ。
特殊な魔力を持つ者を聖女と呼び聖殿に上げているのならば、聖女の魔力を使う聖女にしかできない何かがあるのではないか──と思っていたのだが、今のところそれがない。
たった数日でリーゼロッテが気づいたくらいだ。
十数年もここにいるマリーはとっくにその虚しさを何度も経験していることだろう。
「昔、戦争が起きたのも私の祈りが足りないからだ、とかまだ幼いからだ、とか散々言われて……」
「それは……辛かったですね……」
「……テオドール様だけです。私を責めることも変に労わろうとすることもなく、フリッツ様の目を盗んで会いにきてくださって……他愛もない話をしてくださっていたのは」
マリーは懐かしむように目を細めた。
その瞳がうっすらと潤み出す。
「嬉しかったんです。あの方がいらっしゃったから、どんなに辛くても頑張ってこれたんです」
「マリー様……」
マリーの悲痛な想いが口から溢れ出る。
リーゼロッテは居ても立っても居られなくなり、彼女の肩を抱いた。
華奢な肩は微かに震え、俯き加減の彼女の口からはしゃくり上げるような吐息が漏れる。
「……だから、たとえ私が……フリッツ様と……そうなったとしても、その思い出だけで頑張れます。リーゼロッテ様のように……」
「マリー様……でも……」
「私には……それしかないんです」
「マリー様……」
聖殿に上がることでユリウスと別れなくてはならなかったリーゼロッテには、マリーの気持ちは痛いほどよく分かった。
しかし──。
(マリー様は……お断りすればまだ間に合います。どうしてここまで頑なにフリッツ様の求婚を受け入れなければならないとおっしゃるのでしょう……)
微かな疑問に頭をもたげるが、それをマリーに直接確かめるのは酷すぎる。
彼女は肩に置かれたリーゼロッテの手に自らの手を重ねた。
酷く冷えたそれは、とても湯浴みした後のものとは思えない。
リーゼロッテの手をやんわりと肩から離すと、マリーは立ち上がった。
「……話を聞いてくださってありがとうございます。私のささやかな夢……たとえ叶わなくても、リーゼロッテ様に聞いていただけただけで十分なのです」
背を向けた彼女がとても寂しそうで、それ以上に拒絶されていると感じたリーゼロッテは声がかけられない。
「…………」
その孤独な背が見えなくなるまで、彼女は身動きができなかった。
マリーを見送りふらりと部屋に戻ったリーゼロッテは、いつものように中庭を眺め、物思いに耽っていた。
(どうしたらいいのでしょう……)
彼女の頭の中はマリーのことでいっぱいだ。
それは自分とマリーの状況が似ているからでもある。
自分がユリウスと離れることになったからこそ、マリーだけでも望まない結婚などしてほしくない。
しかし彼女は頑なに結婚しなければならない、という強迫観念のようなものに囚われている。
彼女が断ることはできないとなると、フリッツの求婚を止める方を考えたほうがいいのだろうが、接点のないリーゼロッテには彼の止め方が分からない。
テオに頼ることも考えたが、食事会の様子を見るに彼はフリッツに強く出られないのではないか。
(こんな時……ユリウス様ならどうされるのかしら……)
思い悩み、幾度目かのため息が窓にぶつかる。
「……で、君は定期的に落ち込むね。一体今度はどうしたんだい?」
振り返ると、テオがやれやれといった表情で壁にもたれかかっていた。
デボラはエルの部屋の片付けがあるとかで留守にしている。
「放っておいたらせっかくのお部屋がよく分からないガラクタばかりになるんですよ!」と、デボラは憤慨していたが、元の性分が世話焼きなせいか案外エルとうまくやれているらしい。
リーゼロッテとテオの二人だけの部屋は、彼女の心情と同じく物悲しく感じられた。
「……テオ様……その……」
リーゼロッテに、テオは壁を背にしたまま動かない。
少々呆れたような笑みを浮かべている他はいつも通りだ。
(……マリー様があのように苦しまれる原因がどうにか分かれば……もしかしたら私にできることが何か見つかるかもしれません……)
リーゼロッテは意を決して口を開いた。
「……聖女は、聖女付きに従わなければならない決まり、のようなものがあるのでしょうか……?」
これまで話を聞く限り、マリーはフリッツに遠慮しているというよりも従わざるを得ない状況にある。
そしてそれが、マリーを苦しめている。
聖女としてここで暮らし始め、たった数日ではあるがリーゼロッテも同じ聖女であり、目の前のテオもまたフリッツと同じ聖女付きだ。
しかし二人の間に主従関係は存在していない。
むしろ衣食住含め、テオがリーゼロッテに尽くしているような状態だ。
自分達とマリー達との違い──それさえ分かれば、マリーの助けになるかもしれない。
彼女の問い掛けに、テオは表情を変えない。
瞬き一つしない彼は、時が止まったのかと錯覚するほどに動かない。
しかしその瞳に僅かな動揺が見えた。
「……どうしたんだい、急に」
一段声を低くした彼は壁から背を離し、ゆっくりとリーゼロッテに歩み寄る。
「それがマリー様が」
「おっと、その前に」
リーゼロッテの真正面に立った彼は、リーゼロッテの口に人差し指を当てた。
意外に無骨な指が手袋越しに唇に当たる。
その気障な行動に、彼女は思わず閉口した。
軽くウインクした彼は、にこりと笑顔を作る。
「そろそろ僕の気持ちを伝えておかないとね」
「……テオ……様……?」
(気持ち……?)
考える間もなく、リーゼロッテの身体は浮き上がった。
椅子からテオが抱き上げたのだ。
あまりに突然のことに、彼女は抗議の声すら上げられない。
軽々と彼女を抱える手は、逃がさないようにしっかりと彼女の身体を掴んで離さない。
そのまま寝室に連れて行かれたリーゼロッテはベッドに寝かされた。
濡羽色の髪がベッドの上に無秩序に広がる。
彼女を閉じ込めるようにテオは顔の横に両手をつく。
リデル家での出来事が頭をよぎり、リーゼロッテは身を硬くさせた。
「て、テオ様……これは一体……」
やっと絞り出した声が、信じられないほど震えた。
(そんな、ありえない。だってテオ様はユリウス様のご友人で……マリー様の……)
ぐるぐると混乱する頭の中に様々な感情が浮かんでは消え、それがリーゼロッテの心に焦りを生じさせる。
逃げなければ、と本能的には分かっている。
しかし過去経験した恐怖から、身体が動かない。
彼女の反応を愉しむようにテオは目を細めると口を開く。
「僕は君のことが好きだよ。とても、ね」
そう言った彼は、感情の読み取れないいつもの笑みを浮かべていた。




