9.妹君は思案する
結局、顔を背けたユリウスと呆けたリーゼロッテの沈黙は、彼女を昼食に呼びにきたロルフによって破られるまで続いた。
「………………交替」
ロルフは扉の影からちょこんとその覇気のない顔を出してリーゼロッテを手招きした。
不意に聞こえた彼の声に、固まっていた二人は忙しなく居住まいを正す。
(驚いた……まさかユリウス様の口からう、うつくしい、だなんて言葉が出るなんて……)
リーゼロッテの頬はほんのりと赤い。
彼の洩らした感想が、母親と似た髪色に向けられた言葉だと分かる。
分かってはいるが、それでもその短い褒め言葉に思わず顔がにやけてしまいそうになった。
おまけにあの破壊力のある笑顔を思い返すたびに、動悸にも似た症状が襲ってくる。
(どうしたのかしら私の心臓は……わ、忘れましょうこのことは)
彼女は軽く首を振り扉に向かおうとして、立ち止まった。
(そういえば……)
「ユリウス様、お食事は本当によろしいのですか?」
身体の状態が安定するまでは食事はいらない、とデボラからは言われているが、それでも三日も絶食するなど辛すぎる。
彼女の脳裏に幼いから受けた丸一日食事抜きの罰が浮かんで肝を冷やす。
たった一日でも思い出すだけで辛いのだ。それを三日など想像を絶する。
せめて食せるものがあるのならと思ったのだが──。
「ああ、腹は減るが、いざ食べようとすると身体が受け付けない。子どもの頃から寝込むと母の粥以外は食せなかった。二十四にもなって母の味しか、と言うのも情けないが」
「そんなこと……!」
半ば自嘲気味になんでもないように語る彼が、何故か酷く小さく見えた。
リーゼロッテは思わず声を上げ、彼の手を取った。
駆け寄った勢いで、額を突き合わせるような形になってしまったが、今の彼女は気付いていない。
「私も幼い頃に……母を亡くしているので、母の味が懐かしい、食べたい気持ちはわかります。情けなくなんか……ない、です……」
だんだんとトーンダウンした声と比例して、視線も少し落ちる。
落ちた先にはユリウスの手と重ね合わされた自分の両手。
「あああっこれは……っ、そのっ……」
慌てて離れたリーゼロッテは両手を胸の前で合わせておろおろしている。顔から火が出たように真っ赤だ。
(私ったらなんてことを……! 勝手にお身体に触るなんて……と、とにかく謝らなければ……!)
「申し訳ございませんっ……!」
「いい、謝るな。……謝らないでくれ」
頭を下げる彼女をじっと見つめたユリウスは、やがて口を開いた。
「……ありがとう」
声に温かい響きを感じ、彼女は徐々に頭を上げた。
切なそうに微笑む彼からしばらく目を離せなかった。
「もうっ! なんなのよ!!」
ハイベルク伯爵家の一室、ディートリンデの自室にがしゃん、と何かが割れる音と共にヒステリックな声がこだました。
元々高飛車なところはあったが、聖女迫害の件で自宅謹慎を命じられてからは輪をかけて酷い。
一日数回、癇癪を起こし、そのうち一回は食事をはたき落とす。
大方、妹が罪を認めたら自分は以前と同じように、自由に振る舞えると思っていたその反動だろう。
ディートリンデ付きのメイド、コルドゥラはまたか、と内心ため息をつきながら破片を集め始めた。
娘二人に聖女迫害の容疑をかけられているハイベルク家は針の筵……かと思いきや実はそうでもない。
少なくともここ数日、コルドゥラや他の使用人たちの体感的には、騒動が起こる前とあまり変わってないように思えた。
それもこれも犯人を絞り込めない王家が聖女迫害を正式に発表できずにいることと、ディートリンデが謹慎していること、犯人かもしれない素行の悪い妹を辺境伯送りにした事実から、世間が積極的に責めにくい状況になっているおかげだろう。
むしろ二人ともが、犯人は自分ではないと言っていることでこの状況を生み出せているとも言えた。
これでどちらかが認めてしまえば刑に処され、ハイベルク家は確実に没落する。王太子との婚約も確実に消える。
それどころか爵位剥奪もあり得るだろう。没落寸前で踏みとどまっている──それがハイベルク家の現状であった。
リーゼロッテは図らずも、ディートリンデやハイベルク家にとって一番マシな選択をしていたのだ。
(ディートリンデ様はリーゼロッテ様に助けられていると気付いてないのよね。ホント、おいたわしいことだわ)
王太子へは婚前儀式の延期を申し入れたらしいが、それも些末なことだろう。
犯人である証明ができないのならば、疑いは晴れないものの婚約さえ維持できればチャンスは巡ってくる。
謹慎明け後に儀式を執り行い、聖女の庇護をフリッツ以外の者に任せればいいだけの話だ。
(問題の双子を社交界から一時的に引かせる。御当主の判断は間違ってはいない……が)
コルドゥラは表情一つ変えずに黙々と皿を片付け続ける。
使用人の間では、常に自分が一番でなくては気が済まないディートリンデが、王太子の庇護下にある聖女に嫉妬したのでは、という噂が密かに流れていた。
コルドゥラ自身もそう思っている。自分の主人ならやりかねないと。
(なにも知らないのは親ばかり、とはよく言ったものね)
とはいえ、それをヘンドリックに進言したところで弁の立つこの我儘令嬢のことだ。
下手したら自分の首が飛ぶ。
彼女にできることは、ただ黙って主人の命令に従うことだけだった。
「まったく……あの子があの時ちゃんとやっててくれれば私が謹慎なんて……なんで私まで……!」
恨み言と共に爪を噛む音が聞こえてくる。
無意識の行動だろうか、その貴族令嬢らしからぬ悪癖にコルドゥラは微かに眉をひそめた。
前からそうだ。この令嬢はどこかおかしい。
外面だけは完璧で皆に慕われる王太子の婚約者なのに、家の中では傍若無人な暴君だ。
それも外で気を張っている反動で八つ当たりされるならばまだ納得できる。
ところが外でも何かをしでかす。しかもそれが聖女迫害などという罪で、妹に罪を着せたとなれば話は別だ。
(もしかしたらその他のことも全てディートリンデ様の仕業では……?)
そう思わずにはいられない。
片付け終わったところで顔を上げると、ディートリンデの美しい横顔が目に入った。
口元が大きく歪み、瞳が狂気でキラキラと輝いていた。
「……ねぇ、そこのあなた」
猫撫で声でゆっくりとコルドゥラの方を向いた。
その視線を真正面から受けたくなくて、彼女は視線と頭を少し下げた。
「はい、ディートリンデ様」
「その名で呼ばないでって言ったでしょ?」
イラついたように早口になるディートリンデに、コルドゥラは肩を震わせた。「申し訳ございません、お嬢様」とすぐさま謝罪した。
そっくりな妹がいるにも関わらず、いつのころからかこの令嬢は自分の名前を呼ばれ区別されるのを酷く嫌っていた。
「……ま、いいわ。ダクマーを呼んで頂戴」
「……はい、かしこまりました」
頭を下げ、割れた食器と一口も手をつけられなかった料理と共に部屋を出た。
(ダクマー……ということはなにかまたやるつもりなのね)
リーゼロッテへの嫌がらせに陰ながら加担していた者の筆頭である名前に、コルドゥラは心底疲れたようにため息をついた。
一方、彼女が去った後、ディートリンデは新しいおもちゃを見つけたような無邪気な笑みを浮かべていた。
その手に亡き母の形見である翡翠の指輪を転がしながら──。
リーゼロッテはぼんやりとサラダを頬張った。
『……ありがとう』
頬張りながら彼の言葉と笑顔を反芻する。反芻しては悶える。そしてまたぼんやりとする。
はたから見ると異様な繰り返しだった。
(はぁ……あんなことをしてしまうなんて、私ったら浮かれてしまっているわ)
ユリウスから「美しい」と言われて相当舞い上がっている自覚はあった。
が、それを差し引いても手を握って至近距離で話すなど大胆すぎである。
「おい」
(いけない、私はユリウス様の奉公人。いえ、奉公人と呼ぶのもおこがましいわ。婚約者ですらないのだから)
「おい、聞いてんのか?」
(そういえば、婚約者候補もいらっしゃらないのかしら……? いらっしゃったら申し訳ないことをしたわ。改めて謝る……いえ謝らなくていいと言われてしまってるのよね……ならばどうしたら……)
「おい!」
「はいぃ!」
耳元で発せられた男性の大きな声にリーゼロッテは驚いた。
「オレの作った料理をクネクネしながら不味そうに食うな。皿下げんぞ」
不機嫌な声を上げたのは若き料理長でもあるザシャだ。
リーゼロッテと同い年の青年で、茶色の巻毛と口が少し悪いところは母親のデボラそっくりである。
目つきも悪い彼のことが、リーゼロッテは苦手だ。
よく会話するデボラと違い、たまにしか会わないザシャとは仲良くなるとっかかりがなかった。
「す、すみません……」
「何があったか知らねぇけどユリウス様付きになったからって調子乗るんじゃねーぞ」
「こらザシャ! ごめんね、こいつ最近生意気で」
デボラが謝る背後で、彼はあっかんべーと舌を出した。それを見てますます申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「食うんだったらさっさと食えよ。ノロマはこれ以上ロルフや母さんの仕事増やすな」
「ザシャ!!」
デボラの怒号に両手を上げたザシャは厨房へと引っ込んでしまった。
「ごめんね、リーゼ。あとでアイツ、ぶん殴っておくから」
「ぶん……?! い、いいえ! 大丈夫です。その……皆さんの足手まといになっていることは事実なので……」
「そんなことはないよ。アイツこそ料理しかしてない癖してリーゼのこと何も分かっちゃいないんだ。こーんなにいい子なのに」
抱きつく勢いでベタ褒めしだしたデボラに、リーゼロッテは慌てて否定した。
普段褒められ慣れてない彼女は、急に称賛されるとどうしていいかわからない。
「そ、そういえば、ユリウス様はお母様のお粥なら食べられるとおっしゃってましたが、その再現は難しいのでしょうか?」
「あー……ザシャが何度かチャレンジしたんだけどダメだったねぇ。レシピ見てその通り作ってもダメだったから、書いてないことで奥様特有の工程があるのかもしれないんだと」
と、デボラは難しい顔でスープを啜る。
(ザシャさんが再現できないって……)
辺境伯家の使用人の食事は品数は少ないものの、リーゼロッテが唸るほど美味だ。
常に戦争と隣り合わせの緊張感がある辺境では、備蓄が命だ。
辺境伯やそこに仕える使用人といえど、普段から豪勢な食事を食べられるわけではない。
その少ない食材の中で、満腹感と満足感を得られるように調理の工夫をしてるであろうザシャの腕前は、王族お抱えの料理人にも引けを取らないだろう。
そのザシャが無理だと言う代物だ。誰がやっても無理だろう。
(……でも、なんでしょうか……何か引っかかるような……)
考え込むリーゼの様子に気を回したのか、デボラが厨房の方へ首を突っ込んだ。
使用人食堂と厨房が繋がっているためか、こうして会話することはよくあった。
「ザシャ、アンタあのレシピノート持ってたろ? さっさと出しな」
「は? あーあれか……書室に戻したぞ。オレなんかが持ってるよりユリウス様の好きな時に読んでもらったほうがいいだろ」
先ほどよりは幾分か刺々しさが薄らいだ声が聞こえてくる。
(……書室……レシピ……料理……)
「!」
リーゼロッテははっとして立ち上がった。
驚いたデボラは振り返る。ザシャも文句を言いたげな表情で厨房から出てきた。
「ど、どうしたんだい?」
「あ、あのっ……もしかして、ユリウス様のお母様は……」
彼女の唐突な質問に、デボラとザシャは思わず顔を見合わせたのだった。