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85.二人はしばし、いとまを告げる

 言葉少なにハイベルク家に帰った二人を、ユリウスが出迎えた。


 微かにほっとしたように息をついたリーゼロッテを、アンゼルムは悲しそうな微笑みで見つめている。


 あとから来たナターリエに、「今日はできるだけ二人にしてあげよう」と言うと、アンゼルムは継母を連れ立って離れに向かっていった。


 フリッツとの約束の手前、本来なら彼女から離れるべきではないだろう。


 しかし、彼女は近しい人間の命を犠牲にしてまで聖殿に入ることを拒む人間ではない。


 その確信があったからこそ、ユリウスとの最後の時を過ごしてもらいたいと思った彼は退()いた。


 玄関ホールで二人きりになったリーゼロッテとユリウスは、遠慮がちに視線を交わす。


「……あの、私……」


 ややあって、意を決してリーゼロッテは口を開いた。


 しかし、その次の言葉が出ない。


 帰ったら自分の口から直接伝えたいと思っていた、『明日入殿することになった』という言葉が出てこない。


 唇が拒むように震える。


(ただ……私の処遇を伝えるだけなのに……)


 焦るように視線を巡らせた彼女を、ユリウスは落ち着かせようと声をかけた。


「……疲れただろう。夕餉(ゆうげ)にしよう」


「……はい」


 差し出された手をおずおずと取ると、二人は食堂へと歩みを進めた。
















 二人きりの夕食後、リーゼロッテはひとりふらりと大広間に足を踏み入れた。


 夕食自体は交わされた言葉は少なくとも和やかな雰囲気で終わったが、そこでなにを話したのかは覚えていない。


 食事も砂を噛むような思いでやっと飲み込んでいるのを悟られまいと、平静を装うのに苦労したほどだ。


 ユリウスはそんな彼女を気遣うように視線を向けていたが、彼女はそれに気付かなかった。


 彼を視界に少しでも入れてしまうと、せっかくの和やかな雰囲気がたちまち沈み切ってしまうような気がして、彼に焦点を合わせないようにしていた。


 辺境伯家よりも幾分か広々とした大広間は、僅かな月明かりに照らされほのかに青白く見える。


 リーゼロッテは足音を立てないよう、靴を脱ぐと、大広間の中心でくるりと踊り出した。


 音楽もなく、相手もいない。


 ただひとり、彼女の優雅で忍びやかなステップ音と白のワンピースが揺れる。


 明日発つことをいつか切り出さなければ、と思いながらもどうしても言葉にすることができなかった彼女は、覚悟を決めようとここに来た。


 婚約披露パーティーで共に踊るはずだったそれをすれば、少しは彼に伝える勇気が湧くのではないかと思っていた。


 しかし、踊れば踊るほど虚しく、ユリウスへの想いが募る。


 ステップを踏む足は次第に重く、やがて完全に止まってしまった。


 がらんとした大広間にひとり立ちすくむ彼女は真っ暗な天を仰ぐ。


 彼女のこの先を表したような闇から目を背けるように、彼女は目を瞑る。


 どれくらいそうしていただろうか。


 ふと、身体を包み込むように温もりが触れる。


 目を開けるとユリウスが、上を見上げた彼女の顔を見下ろしていた。


 驚き目を見開いた彼女に向け、ふっと笑ったユリウスは、彼女の手を取った。


 どちらともなく足を踏み出す。


 言葉なく踊る二人の髪が、二人を覆うように軽くなびく。


 ユリウスのリードに身をまかせながら、彼女はなおも彼の顔が見れなかった。


 それでも伏し目がちに目をやると、留め金の壊れたユリウスの髪紐が二本とも彼の後頭部にしっかりと結ばれているのが見えた。


 視界に入ったそれに一瞬気を取られた彼女は、足をもつれさせる。


 しかし彼の細くともほどよく筋肉のある腕に支えられ、倒れることはなかった。


 ゆっくりと身体を離したリーゼロッテは礼を言い、ポツリと「……おやすみなさい」と小さく呟き、ユリウスの腕をするりと抜けると踵を返した。


「…………ああ」


 ユリウスはその手に視線を落とす。


 まだ温もりの残ったその手を握りしめると、今まさに広間から出ていこうとしているリーゼロッテを見据えた。


 ドアノブに手をかけ、捻ろうとした彼女の手をユリウスの手が掴む。


 痛みはないが、それ以上は動かせないほどの力で掴まれたリーゼロッテは、思わずドアノブから手を離した。


 離した反動で一歩下がると、ユリウスの胸元に背中が当たる。


「……リーゼ」


 耳元に寄せた彼の声が、痺れるような甘美な響きを伴って彼女の身にじんわりと染み込む。


 ぞくりとするほど低く誘うような声色に、リーゼロッテは振り返って抱きついてしまいたい衝動を必死で抑え込んだ。


「……名を呼んでくれないか?」


「…………嫌です」


 囁かれた声を拒むように短く答えると、彼女は固く口を噤んだ。


 帰ってきてから今まで、彼女は意図的に彼の名を呼んでいなかった。


(呼んでしまったら泣いてしまいそうで……きっと……貴方は困ってしまうから……)


 俯きかけた彼女を、彼は振り向かせると扉に腕をついた。


 鼻先が触れ合うほどに顔を寄せた彼の紫色の瞳は、僅かな月明かりを拾って薄く輝いている。


「呼ぶまで帰さない」


 射抜かれたように固まったリーゼロッテは、彼の真剣でどこか色を帯びた表情を瞬きひとつせず見つめた。


 目の前の、この恐ろしく美しく、ひどく愛しい人との別れという現実を見せつけられているようで、胸が軋むように痛い。


 視線を絡めた瞬間、彼女の中で押し留めようとしていた感情が溢れるように口から(こぼ)れ出る。


「……嫌です、嫌、です……ユリウス、様……っ?!」


 かぶりを振った彼女の身体をユリウスはしかと抱き寄せた。


 彼女の身体を確かめ、感触を覚え込ませるように優しく撫でた彼は、彼女の耳元で何かを囁く。


 その言葉がうまく飲み込めず、一瞬瞳を丸くさせた彼女は小さく頷くと涙を流した。










 翌日──。


 彼女は聖殿への馬車に揺られていた。


 その瞳は真っ直ぐに進行方向──聖殿へと向けられていた。


 もう迷いはない。


 やがて馬車は王城の正門をくぐり、内庭を通ると最奥の白塗りの壁が眩しい建物の前でゆっくりと止まった。


「着きました。リーゼロッテ様」


 御者に声をかけられたリーゼロッテは、自分を奮い立たせるように深呼吸をすると、昨夜のユリウスの言葉を思い出す。


 ──必ず迎えに行く。待っていてくれ──。

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