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79.お姉様は名を呼んだ

 ディートリンデは耳元で弾けるような高い音に、身体を震わせた。


 最初に襲ってきたのは全身の鈍い痛みと、肌にひりつくような灼熱の熱気。


 次いで周囲を覆う熱と煙たさに肺が呼吸することを一瞬拒否した。


「……ん……っ……」


 咳込んだ彼女は身体を起こす。


 身体中(すす)だらけで、自慢の黒髪は焼けたのか毛先が縮れている。


 左腕は焼けただれ、肘がうまく曲がらない。


 何が起こったのか分からない。


 この世界を憎んで火をつけた。


 名も顔も出てこないようなモブが、それを止めようとして──。


 はたして、あれからどのくらい経ったのか。


 四方を火に囲まれている彼女にはそれを知る術はないが、かなりの時間が経過したことは確かだった。


(そうだ。私、物置にいたはず)


 しかし今いるのは、そこから数十メートル先であろう食堂前の廊下だ。


 部屋の中でうっすらと、燃える長テーブルが見えることからもわかる。


 あの閃光弾のような爆発に巻き込まれてこんなところまで飛ばされてしまったのか、彼女は身震いをした。


 ここまで吹き飛ばされて軽傷で済んでいるのが奇跡なのだが、当の本人はそんなことに気付く由もなかった。


「痛い……熱い……何よ、これ……こんなの、ゲームでしょ……?」


 座り込み、膝を抱えた彼女は顔を埋めた。


 彼女はずっとこの世界はゲームだと思っていた。


 彼女の世界ではこの世界とそっくりな内容の物語があり、彼女もそれをよく知っていた。


 特に、フリッツに関してはよく知っている。


 彼が何を考え何を思い、これから何を為そうとするのかも彼女は知り尽くしていた。


 なぜなら登場人物の中で一番魅力的で、彼の存在が彼女を支えていたからだ。


 ずっと、彼女は彼に恋をしていた。


 だから恋焦がれた男と婚約できたなど夢のようだった。


 いつか現れるヒロイン──聖女マリーの存在を恐れていた。


 彼らの出会いはディートリンデが介入できない、不可避なものだったから。


 王城のフリッツとマリーに介入できない以上、必然的に学院の卒業パーティーで行われる婚約破棄を回避しなければならなかった。


 そしてそれは回避できた──はずだった。


(……どうしてこうなったのよ……私、リーゼロッテを身代わりにしたのに……)


 なぜ、どうして、と考えるがその答えは出なかった。


「…………………ま…………」


「…………え…………?」


 聞き覚えのある、しかし掠れた音が彼女の傍らで鳴った。


 ゆっくりとそちらへと顔を動かすと、火事が起きる前に止めようとしてきた使用人がそこにいた。


 瓦礫(がれき)の影になって首元辺りまでしか見えないが、煤まみれで几帳面そうなその細目が、目が閉じそうなほど細まっている。


 同じように吹き飛ばされたのだろう。


 しかし彼女の方が重傷を負っているように、ディートリンデには見えた。


「ちょっと……! ねぇ、あなた……っ?!」


 息も絶え絶えな彼女に、ディートリンデは這い寄った。


 常に自分に付き従っていた冷静沈着なメイドならば、もしかしたらこの状況を打開する案を教えてくれるかもしれない。


 しかしそんな打算は、脆くも打ち砕かれた。


「……ひっ……」


 彼女の全身を視界に入れたディートリンデは仰け反り尻餅をついた。


 メイドの両足と右腕は無惨にも千切れ、傷口からはうっすらと焼け焦げた臭いが漂っている。


「…………お……じょうさ……ご無事……か……」


「ぶ、無事なわけ、ないじゃない……あなたも……あなたの方が……」


「よか……た…………」


 あまりの悲惨な状況にいつもの毒を吐けないディートリンデに視線を向けると、コルドゥラは微笑んだ。


 その微笑みと怪我の状況に、ディートリンデは悟った。


 爆発の瞬間、彼女が自分を庇ってくれたのだと。


(なんで……ただの…………モブのくせに……)


「な……なによ……あなただって、私のこと鬱陶しく思ってたんでしょ? なんで……なんで庇ったのよ……?!」


 ヒステリックに叫んだ彼女を、コルドゥラはぼんやりと見つめた。


「…………私のあ、主人は、今はお嬢……様、です……メイ……………して、とうぜん……す……」


 本当のことを言おうとして、コルドゥラは踏み止まった。


 彼女の本来の主人は別にある。


 ディートリンデを庇ったのも、その役目に勘付かれないためだ。


 ──ずっとそうやってきたのだ。


 コルドゥラは口を噤もうとしたが、煤けた肺が呼吸を止めさせてくれない。


 あえなく咳き込んだ彼女を、ディートリンデは震えながら見守る。


「……なんなのよ…………やめてよ……モブメイドの癖に……生意気よ……私を助けて恩を売ったつもり……? あんた……このままだと死んじゃうのよ……?」


「…………あ、るじに、尽くすの、がメイドとしての……」


 上体を大きく陥没させるように激しく咳き込んだコルドゥラの口から、どす黒い血が吐き出される。


 炎に照らされ朱を濃くしたそれは、呼吸のたびに少しずつ溢れた。


「ちょっと! もうしゃべらなくていいから、お願いだから黙って! これは命令よ!」


 ディートリンデの脳裏にこびりついた言葉が口から出そうになる。


『これは違う、この世界は違う』。


 最近ずっと呪文のように唱えていた言葉だ。


 婚約解消されなかったというのに、何故かそこから先がうまくいかない。


 あろうことか、世界が元の通りに進もうとしている節さえあった。


 そんな思い通りにならない状況に苛立ち、呪いのように呟いていた呪文など、この場にそぐわないとディートリンデは奥歯を噛み締めた。


「……あなたさま、は……本当に、面倒、なごれい、嬢で……た…………」


 ぜいぜい、と耳障りな呼吸音が、次第に薄れていく。


 細い眼はどこを向いているのか分からない。


 ただ炎の揺らめきに応じるように、ゆらゆらと空虚な輝きを持った。


 あれだけ全身で息をしていたのにも関わらず、凪のように平らになったコルドゥラの身体は徐々に生気を失っていく。


「……ちょっと! ねぇ、起きてよ! 私に逃げろって言ってたでしょ!? 早く私を避難させなさいよ!」


 ディートリンデは両手でコルドゥラを揺さぶった。


 左腕の引きつるような痛みなどどうでもよかった。


 本来、ディートリンデ付きのメイドはダクマーだった。


 難癖をつけてリーゼロッテのメイドだったコルドゥラと交換したのは、婚約破棄を回避するためだ。


 ダクマーが嘘の証言をしてくれればリーゼロッテに疑いの目が向く。


 それを期待して交換しただけであって、コルドゥラの何かに期待していたわけではなかった。


 たかがモブだと名前すら知ろうとはしなかった。


 一度も名前を呼ばなかったのもそのためだ。


 モブなのだから、主役たる自分の物語には関係ない、と。


 にも関わらず、彼女は黙って仕事をこなし、付き従い、そして身を挺してディートリンデを庇った。


『これは違う、この世界は違う』。


 ディートリンデの中で反芻されるこの言葉が、徐々に違う意味が含まれてきていた。


「………なんなのよ……ただのゲームでしょ……? 違うの……? 誰か教えてよ! ねぇ、誰か!!」


 力一杯、熱気で充満した虚空に向かって叫ぶ。


 喉が焼けるように痛いが、どの道自分は助からない。


 ディートリンデは力なく肩を落とすと、コルドゥラの頭を膝の上に乗せた。


「ディートリンデ姉さん!? なんでこんなところに……」


 背後から聞き覚えのある声がした。


 振り向くと口元を布切れで覆ったアンゼルムが、目を丸くして佇んでいた。


 水を被ってきたのか、切り揃えた短い赤髪が濡れている。


「アンゼルム、助けて! この子、死んじゃう!」


 ディートリンデの叫びに、アンゼルムはさらに驚いたように眉を上げる。


 ──ディートリンデが他人のために大声を上げるなんて珍しい。


 そんな感想がアンゼルムの中に生まれるが、彼女の必死な表情の前に神妙な顔を作った。


「…………」


 しかし、長姉の珍しい願い虚しく、近寄らずともコルドゥラが事切れているのが分かる。


 四肢の殆どが失われ、全身を火傷し、想像を絶する痛みだっただろうにも関わらず、コルドゥラは主人の膝の上で眠るように安らかな表情を浮かべていた。


「……ごめん。コルドゥラは、もう……」


「……嘘よ……だって……」


 首を横に振ったアンゼルムをディートリンデは呆然と見つめた。


 その表情はどこか憂いがあり、悲壮感に満ちている。


 彼の知る傍若無人な振る舞いの彼女とはあまりにかけ離れたその姿と、今までの姉への仕打ちを天秤にかけた彼は、なんとも言えず顔を背けた。


「姉さん、立てるかい……?」


 戸惑いながらも手を差し伸べると、ディートリンデは視線を膝に落とした。


「……この子」


 噛み締めるような震え声が、彼女の口から漏れる。


「この子、コルドゥラ……っていうのね……」


(……モブじゃ、なかった……私を……助けて……死んでしまった……………)


 もっと早くに名前を呼んでいたら、モブなどではないと認識していたら、何かが変わっていたのであろうか。


 今生で初めての後悔が、ディートリンデの胸の内をじわりと責め立てる。


「…………さ、早く脱出しよう。外で継母上たちが待ってる」


 なかなか立ち上がらないディートリンデの腕をアンゼルムは引き上げた。


 火の手はそこまで迫っている。


 ──これ以上は待てない。


 アンゼルムはディートリンデを抱き上げ、来た道を引き返そうとした──その時だった。


 轟音を伴い、目の前に滝のように何かが次から次へと降ってくる。


 それが一瞬にして大きな瓦礫の山を築くと、今まで以上に炎が立ち上った。


「そんな……」


 出口が塞がれ、ディートリンデは堪らずアンゼルムの首根にしがみついた。


 彼は厳しい表情で周りを見回す。


 どこか他に外へ向かう道はないか──。


 しかし、どこを見ても激しく燃える炎だけだ。


「八方塞がり、か……」


 彼はディートリンデの身体を抱える腕に、無意識に力を込める。


「ユリウス様……姉さん……」


 縋るように天を仰いだ(はしばみ)色の瞳は、祈るが如く閉じられた。

次回更新については活動報告をご覧ください。

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