75.リーゼロッテは立ち向かう
「……お父……様……? ここは……?」
「それを知る必要はない。お前は一生ここで暮らすのだ」
「!」
些か満足げに答えた彼に、リーゼロッテは息を呑む。
感情を表に出さないよう気を付けている男の瞳が、打ち震えるように怪しく光るのを見て、彼女は思わず身震いをした。
「やっと……やっと手に入れたのだ。時の聖女よ」
「……なぜ……それを……」
「意外か?」
機嫌良さげな彼の問いに、リーゼロッテは躊躇いがちに頷いた。
ユリウスの話では、時の聖女については分からないことの方が多い上に、王城の禁書の一部にしか記載がないという話だったはずだ。
それを名家とはいえ、一伯爵であるヘンドリックが知っているとは──。
「確かに、時の聖女のことを書いた文献は残されていない。人の知識の中にもな。残っていたとしても王が管理しているだろう……そう、文献はな」
「まさか……」
「ハイベルクの先祖は日記が趣味の者が多くてなぁ……その中にあるのだよ。時の聖女の記載がね」
彼はそう言うと、思いを馳せるように目を瞑った。
「曰く、『金の魔力を用いて時を遡る、その力絶大なり。兵士の時を巻き戻し、魔道士の魔力にも干渉する。たとえ国が破壊され蹂躙されようと、その魔力で全てを元通りに戻すだろう』……」
何度も何度もその一節を読み返したのだろう。
すらすらと述べる彼にリーゼロッテは薄ら寒いものを感じ、微かに震える。
目を開けた彼はどこか恍惚とした表情で立ち上がると、もう一つのベッドの方へと歩みを進めた。
「はるか昔の戦争の時代に書かれたものだ。癒しの聖女は傷を治すだけだが、時の聖女は傷を負う前、もっと言えば戦場に立つ前の気力体力に戻せる……素晴らしい力ではないか。その力があればなんでも叶う。そう……」
その上掛けをばさり、と取ると、そこにはリーゼロッテもよく知る人物が現れ言葉を失った。
「……私の妻、エルーヴィラを蘇らせることも……」
「おかあ……さま……!?」
およそ腰までのややウェーブのかかった榛色の髪は、アンゼルムの瞳を彷彿とさせる。
目を閉じていても分かるほど人の良さそうな顔立ちに、ナターリエとはまた違った素朴ながらもどこか気品を感じさせている。
ほっそりとした手足を、薄手のネグリジェが覆い、今にも起きてきそうな気配さえ感じた。
──産後の肥立ちが悪く、亡くなった時のままのエルーヴィラがそこにいた。
「眠っているみたいだろう。生前のそのままだ」
ヘンドリックはうっとりするようにエルーヴィラの頬を撫でる。
「どうして……」
茫然と呟くリーゼロッテには目もくれず、ヘンドリックは愛おしげにエルーヴィラを撫で続ける。
「……日記は便利でな。ある代の当主は禁呪を研究していたそうだ。死体に生贄を捧げることで死体が腐らない禁呪をな」
「………生贄…………まさか……」
リーゼロッテの脳裏に、母の奥でいつも控えていたひとりのメイドが思い起こされる。
(たしか……彼女はお母様の死を悔いて失踪したと……でも……まさか……)
彼女の蒼白の顔をヘンドリックは一瞥すると口端を醜く歪めた。
「ちょうど手頃なメイドがいてな、身寄りもないならば足もつかぬ。彼女も最後まで主人に尽くせて嬉しい限りだろう」
「そんな……お父様……」
(……お母様の死から狂って……)
愕然とする彼女をよそに、ヘンドリックは一歩一歩、リーゼロッテへと近寄る。
「あとは時の聖女を待つだけ。なに、私が生きている限りは生贄を捧げれば彼女はこのままの姿で生きながらえる」
「………………」
父が近寄るごとに、彼女は可能な限り後ろへと下がる。
手枷がじゃらり、と重い音を鳴らす。
「お前も母が戻れば嬉しいだろう。さあ、私の妻の時を戻しておくれ。時の聖女よ」
「それは……」
口ごもる彼女にずずい、と近寄ると、ヘンドリックは鎖を引っ張り上げた。
思いの外強い力で引かれ、手枷が腕に食い込む。
声無き悲鳴を上げるリーゼロッテの顔を、彼は今まで彼女に見せたこともないような優しい笑顔で覗き込んだ。
「何を迷う必要がある? お前にとってもいい話であろう? 母が戻ってくるのだぞ?」
「……」
「さあ」
黙り込むリーゼロッテを急かすように声をかける。
優しい声音が恐ろしく、彼女は俯いた。
(お父様は、狂ってしまわれた。お母様のために……)
彼女自身、母が亡くなってから何度、母に会いたいと願ったことか分からない。
幼い頃からのそれが叶うのならば、自分はここで力を使うべきなのだろう。
しかし──。
「……できません」
小さく呟くような声に、ヘンドリックは笑顔を消した。
「やるんだ」
「できません!」
顔を上げた彼女の瞳に強い光が宿る。
滅多に言い返さない娘が強く言い放ったことで、思わず目を瞑ったヘンドリックは、眉を吊り上げ怒りに満ちた表情を作る。
しかし、それにも怯まずリーゼロッテは声を上げた。
「お父様は、それでいいのですか? お母様を失ってから支えてくださったお継母様……ナターリエお継母様に対する情はないのですか?」
「ない。そんなものはハナから持ち合わせていない」
断言する彼に、リーゼロッテは悲しげに眉を下げた。
「そんな……酷いです。ナターリエお継母様はお父様とお姉様にずっと気を遣っていらっしゃったのですよ? この家に早く馴染めるようにと……」
「私にとってお前も、ナターリエも全て駒だ。しかしエルーヴィラは……エルーヴィラだけは私と共にあるべきなのだ。それをアンゼルムなどを産んだばかりに……」
「それはアンゼルムのせいではありません」
首を横に振った彼女には、ヘンドリックが痙攣したかのように震えて見えた。
「ではエルーヴィラのせいだとでも言うのか!? エルーヴィラから生まれたお前がエルーヴィラを否定するのか!?」
「違います! お母様のせいでもありません。誰のせいでもないんです。誰かを責める必要なんてないんです」
激昂した彼は、ただ怒りに震えていた。
彼にあるのは妻を失った怒りと、妻のいない世界への憎悪だ。
皮肉なことにここへきて、リーゼロッテは父のことが少しずつわかってくるような気がした。
「……まぁいい。お前と議論など交わそうが私の気持ちは変わらん。早くエルーヴィラに時の魔力を使え。それがエルーヴィラ、家族のためだ」
「……嫌です」
「リーゼロッテ!」
「嫌です! できません!」
もう一度、彼女は自分でもこんなに大きな声が出せるのかと驚くほどの声を上げた。
今までずっと、父が絶対の存在だと思っていた。
父の決定ならばそれは覆らない。
そう思って諦めていた自分がいた。
しかし、こんな身勝手な決定はたとえ父と対立しようが認められない。
リーゼロッテは声を振り絞った。
「お父様は……お母様や家族のためだとおっしゃいますが、本当はご自分のためにお母様にいてほしいだけではありませんか……?」
「…………違う」
リーゼロッテの言葉に、ヘンドリックは動揺し首を振る。
(お母様は……時を戻すことなんて望んでいらっしゃらない……!)
若くして家族を残し逝ってしまったエルーヴィラはさぞ無念だっただろう。
しかし、だからこそ彼女の時を戻してはならない。
彼女だけが巻き戻ったとして、空白の十三年に絶望し、きっと死んでしまった自分を責めるだろう。
なおも言い連ねるリーゼロッテに気圧されるようにヘンドリックは後退る。
「こんな……こんな風に他人の命で無理やり保存されて、お母様は喜ぶとお思いですか……?!」
「保存……彼女は生きている」
「生きてなんかないです……! お父様の我儘に付き合わされているだけではありませんか!」
強く言い放った彼女に、ヘンドリックは言葉に詰まった。
「今この時に、アンゼルムを妊娠する前のお母様までこのご遺体の時を戻したとしても、記憶までは変えられません。あれから十三年も経っているのですよ……!?」
「………煩い……」
「お母様はきっと悲しみます。十三年もの空白期間があることを。アンゼルムの成長を見守れなかったことを。自分がいない間に家族が歪んでしまったことを」
「黙れ……」
「そして未だにお父様が前を向けずにいることを」
「やめろ!」
堪らずヘンドリックは手を振り上げた。
リーゼロッテは両目をぎゅっと瞑る──が。
何かが激しく弾かれる音がしただけで、振り上げられた手が降ってくることはなかった。
おそるおそる目を開けると、黄色や緑、紫色が混ざり合うような複雑な薄い膜がリーゼロッテの周りを守りように張り巡らされていた。
「くっ……障壁か……」
「……これは……お祖母様と……お母様……ユリウス様の……魔力……?」
弾かれた手を押さえたヘンドリックの表情は苦痛で歪む。
よほど力一杯叩こうとしたのだろう。
血は出ていないものの、赤くミミズ腫れを起こしていた。
「……おのれ……ユリウス・シュヴァルツシルト……ここまできても邪魔をするか……やはりあいつは殺しておかなければならないようだな」
「! お待ち下さい! ユリウス様に危害を加えるなら私は」
「五月蝿い!」
彼は痛みと怨嗟渦巻く表情でリーゼロッテ──障壁を睨みつける。
乱暴に扉付近の青い香炉に手をやると、その蓋を開けた。
薄い朱の煙が燻りだし、むせ返るような甘い匂いが漂い出す。
ひと息吸い込んだ瞬間、彼女の視界がぼやける。
(これ……は……)
「お、父様……!?」
両手で鼻と口を覆うが、隙間からこじ開けるように妖しい匂いが入り込んでくる。
さすがの障壁も、匂いまでは防げないようだ。
痺れるような感覚に抗えない。
「『浮舟』……辺境には出回っていないか。若年層に流行りの香に私なりに改良を加えた。高揚感を与え、思考を鈍らせ、長時間嗅げば身の自由や判断力すら奪う……しばらくこれで頭を冷やせ」
口元をハンカチで覆い、いつもの冷徹な表情に戻ったヘンドリックは扉を開けた。
「やめて、ください……おと……さま……」
追おうにも逃げようにも、彼女を繋ぐ手枷がそれを許さない。
無情にも扉は閉められ、リーゼロッテの咳き込みと喘鳴だけが響いた。
「時間がないのだ。早くしなければ……」
ヘンドリックはそう呟くと、仄暗い廊下の奥へと姿を消した。




